「や〜ら〜れ〜た〜〜っ!」

まれびと


 素っ頓狂な声を発して、先生は倒れた。そのまま動かないけど、別に心配はないだろう。
 子供の頃、先生と初めて会った場所のような、地平線まで続く草原。高い、高い、青く澄んだ空。
 騒動の元凶らしき白いレンを大人しくさせたあと、出会ったのは、よもや会うことがあるとは思わなかった人だった。
 蒼崎青子。生涯の恩人と言える人。名前で呼ばれるのを拒んだから、先生と呼ぶようになった。
「はあ……ぁ……」
 俺の方も膝から崩れて、草原に手を着いて呼吸を整える。やっと落ち着いて顔を上げたら、もう消えてるって言う危惧は危惧に終わり、先生はまだ仰向けに寝ていた。馬鹿馬鹿しいほど見事に大の字になっている。
 すぐ傍まで寄って、腰を下ろす。十年ばかりも経ったのに、昔と少しも変わっていない。知っていたはずだけど、こうやって眺めてみてると、意識させられる。
 美化されているに違いない瞼の裏の姿さえ裏切らない。先生は、幻みたいに、信じられないぐらいに――――綺麗だ。
「先生?」
 声をかけてみたけど、反応しない。見詰めるうちに一人でだんだん緊張してしまって、耐えきれず手を伸ばした。
「起きてるでしょ?」
 呟きながら、頬を突付いた。妙なことに、本当に突付く感触があったことに驚いていた。幻じゃないって、やっと納得したんだ。
 ぷにぷに。
 また頬に触れていて、女の人にすることじゃないと思って手を引く。柔らかい肌触りが指先に残響していて、ぎゅっと拳を作った。
 寝たふりと言うか、気絶したふりをしてるのには違いない。
 ゆっくり胸が上下していて、息をしてるのは確かだし。
 胸といえば、随分と、ふくよか。あの時、胸元に抱き締めてもらった温もりを想いつつ、ちょっと邪に眺めたりしてしまう。アルクェイドと同じか、ひょっとしたらそれ以上かも。
 そんな目で先生を見ている自分に気付いて、ちょっと反省する。でもやっぱり、惹かれている。
 憬れてた。それは、確か。初恋とかいうほどのものだったのか。それは、判らない。
「先生?」
 呼びかけながら、また手を伸ばしてナチュラルに胸に触りかけて、大慌てで引っ込めた。アルクェイドじゃないんだから。アルクェイドだったら、笑いこそすれ怒りはしないだろうけど。
 先生にそんなことしたら。
 やっぱり、笑って赦してくれないかな、なんて。流石にそれは、甘えた思い込みか。俺ももう、小さな子供では、ないのだし。
 ……でも、先生。そのバストにTシャツ一枚で、ノーブラってのは反則だと思います。
「先生、起きないと……」
 見つけなくても良いのに、白い布に覆われた丸いふくらみの中央にそれぞれ尖ったところを見つけていて、困ってしまう。
「……悪戯しますよ?」
 返事は無いけど、僅かに口元が綻んだ。
「悪戯って、どんなー? ……ぐーすー」
 本人が付け加えた注釈に寄れば、これは寝言らしい。
 何も具体的な考えは無かったから、答えに詰まる。
「それは、その、あーんなことやら、こーんなことやら」
 でも、言いながら面映かった。
「挙句の果てには、そーんなことまで……」
「ふふふ、志貴、返事をする前にも落ち着いて良く考えなさい……すーすー」
 うわっ。つまるところ、何を考えてたかなんて、お見通しなんだろうし。
「そうですね。じゃあ、口で言うより、しちゃっても良いですか?」
 っと、いきなり言いつけを守らずに考え無しの答えをした。
「良いわよ? ……ぐーぐー」
 言われてしまって、俺も意を決した。小さな男の子ではなくなったにしても、オトコノコには違いなくて、あまり追い詰めると猫は噛まなくてもやることはあるのだ。
 眼鏡こそ掛けたままながら、死の点を見るときぐらいに集中する。それに匹敵するだけの狙いや俊敏さは要求されよう。タイミングを盗まれないように呼吸の音を消す。力まず、だけど、しなやかに力を溜める。雛鳥を狙う蛇のように腕をくねらせて、最良の機会を窺う。
 ――機は熟した。
 生涯に一度の挙動で、目標を襲う。
 しかし。
「……遠野志貴、一生の不覚」
 あと一歩、いや半歩のところで、たおやかな手に進路を阻まれた。
「やっぱり敵いませんね、先生には……魔法みたいだ」
 動きは全く見えなかったけど、胸を触ろうとした手は掴まれている。
「あたり前よ。知ってるでしょ? 私、魔法使いだもん」
 先生と手が触れ合っているだけで、鼓動が速くなってる。なのに、俺はまだ先を行こうとしている。
「でも、ちょっとだけ詰めが甘いです」
「なに?」
「隙在り……えいっ」
 軽く曲げてた指を伸ばす。その小さなリーチの違いで、ちょうど乳首に届いた。薄い生地越しに体温が伝わる。つい、くりくり弄ってしまったりとかもする。
「あははっ。や〜ら〜れ〜……ふふふっ」
 いきなり起き上がって、組み伏せて俺に馬乗りになる。両腕とも肘を押えられた。真上から顔を覗き込みながら笑っている。
「困った子ねっ、女性に乱暴したりイヤラシイことしたりっ」
 どうやら、甘えた思い込みは実現したらしい。
「私が倒れても、全然心配しなかったみたいね?」
「それは、先生、ちっとも本気っぽくなかったし」
「そうでもないわよ? 魔法使いでも何でも、志貴の眼を無視することは出来ないんだから」
 ゆっくり、顔が下がってくる。青く深い瞳に魅入られて、金縛りみたいに動けなくなる。
「真祖の姫だって。そうでしょ?」
 そう口に出した瞬間だけ、昏い火が覗いた気がした。
 実際、この上ない暴力を振るったわけだ。イヤラシイことって言い方はともかく、そういうこともしてはいる。
「そうですね」
 やっとそれだけ、告げた。
「素敵な男の子になるだろうとは思っていたけど。あんなのを落としちゃうとは、ね」
 笑いが華やいで、更に顔を降ろして来た。近付きすぎて目の焦点が合わなくなるまで。息がかかるほどに。
「何をしようとしてると思う?」
 何って、状況からしたら選択肢はあまり無いけど、それは考えにくいし。なんて思っているうちに、既にほとんど抱き合っている。あの大きなバストは俺の胸の上に乗ってて、体重で柔らかに押しつぶされている。
「いや、その、先生?」
「ちゃんと答えなさい」
 唇から細く息を吹いて、頬をくすぐられる。凄く照れながら、どうにか囁く。
「……キス、とか」
 近すぎて判らないけど、きっと悪戯に笑っている。目を反らそうとしたら頭を固定される。目を閉じれば良いのだけど、そこまでするのも憚られた。
 値踏みでもされてる気分。いや、多分その通り。
 不意に視界から先生の顔が消えて、次の瞬間、ほんとにキスされていた。場所は口のすぐ下、顎のあたり。
「口付けって言えば良かったのに」
 耳に流し込むように、囁かれた。でも、そんなことより、抱き合ってるって事実の方で頭はいっぱい。少年の日の蜃気楼じゃない、生身の女の人として、正面から体をくっつけている。そのことが信じ難い。
「先生……」
 頬が触れ合ってくすぐったい。長い髪が顔に垂れて、見知らぬ国の果実のように薫る。こんなに心臓が早鐘を打つのは、くっついている相手が、幻のように綺麗で肉感的だからなのか。
 先生だからなのか。
 まともに働かない頭で、それでも腕が自由になってるのを見つけて、こっちからも抱き締めてしまおうとする。こっそり背中に回して、着地させた。
 だけど、先生は転がって俺の上から降りてしまった。
「でも、ほんと」
 並んで寝そべって、青空を見上げながら、先生がつぶやく。
「大きくなったわね、志貴」
「そうみたいですね。これのお陰です、まともに暮らせるようになったのは」
 眼鏡を外して、空にかざす。今にも空が墜ちてきそうって恐れは折に触れ抱いてきたけど、その実、空には線は見えない。こうやって仰向けに寝転がるのが好きになったのは、きっとそれが理由。
「いや、先生のお陰、ですね」
 眼鏡よりもっと大事なものを貰ったのだから。
「たったあれだけのことで、人を根本から変えることなんて出来ないわ。貴方は、ちゃんと自分で今の遠野志貴になったのよ」
 俺の手を取って、一緒に上に伸ばす。指をシャキッとさせたら、俺の方が高くなった。
 そうか。
 何も驚くことじゃないけど、背丈とかも追い抜いてるんだよな。
「これがさっき不覚を取った原因ね」
 手を翻して掌を重ねながら、そんなことを言われる。
「いや、その、すいません。あんなこと」
 謝りながら、指を絡めて握っていた。これじゃ、あんまり誠意がありそうではない。
「あはは、良いわよ、そんなの。私が焚き付けたんだし。それに」
 腕を降ろして、耳元に囁かれる。
「黒幕を暴いてやっつけたんだから、見返りぐらいあっても良いんじゃないかな」
 誘うように、からかうように。
「見返りって、先生とこうやって話せるなんて、充分過ぎるほど報われてます」
「でも、魔法使いを前にして、他に望むことは無いの?」
 魔法使い。吸血鬼だ錬金術だと関わるようになっても、自分自身が変な力を持っていても、やっぱりピンと来ない。別段に、魔法でなきゃ叶わないような願いなんて持ってはいないのだし。
「そうですね……あまり、無いんですけど」
 視界を満たす空があんまり青くて気持ち良いから、魔法使いにではなく先生に、ねだりたいことが一つ浮んだ。
 頬が熱くなりながら、願いを告げる。
「膝枕、して貰えません?」
 虚を突くことは存分に出来たらしい。見えてはいないけど、そんな気配だ。呆れられたのか笑われたのか、しばらく間があって、先生は起きあがる。
「よろしい、それじゃ、魔法の膝枕を授けてあげよう」
 頭を持ち上げて、望みを形にしてくれた。洗い晒したデニム越しに、生々しく肉の動きを感じる。そんな体勢で、失礼にも微睡みかけたりしながら、とりとめもなく話した。先生の顔が眩しくてつい眼をそらしたり瞑ったりして、そうすると眠くなってしまうんだ。
「ねえ、志貴?」
 額に手を置いて、先生が言う。目線で応じたら、訊かれた。
「あの何日かの間に、私のこと好きになった?」
「はい。そう思います」
 それは間違いない。
 額から手が滑って、頬に当てられる。気配ほどの肌の匂いに、ぞくりとしてしまう。
「それって、初恋?」
 ははは。そう真正面から問われると恥ずかしいけど、きっとその通りだろう。おかしな角度で顔を見上げながら、悟る。求めたのは母性の温もりだったのかも知れない。でも、年上の女性に対する幼い恋なんて、そんなもんだろう。あの想いは、それだけではないと信じているけど。
 照れて答えずにいたら、指が蠢いて首筋を探られる。
「そうみたいです」
 繊細な攻撃に降参して言いながら、頭を振って手から逃げようとする。
「ふふ、これ弱いのね、志貴」
「弱いってっ」
「ほれほれっ、どうだーっ」
 両手で顔を覆って、首やら喉やら耳やら弄りまくられる。
「わはははは、駄目ですって」
 両手を捕らえて、難を逃れる。腕を引いたわけで、また、顔が随分近くになった。見ていると、体が熱くなる。ドキドキしてる。
「今は私のこと、好き?」
 うわぁ。
 その問いは、困る。何故って、答えだけ、はっきりしてるからだ。イエスかノーかって答えは決ってる。でも、その中身が自分でよく掴めていない。
 今度は、じっと待ってくれている。表情を見る限り、さっきまでは冗談だったとしても、今のは真剣らしい。
 色々考えてみたけど判らないから、そのまま口にした。
「先生のことは好きですけど、どういう好きなのか判らないですね。心拍上がったままだし、今の感じを凄く嬉しく思ってます。でも、あの日の憬れと同じなのか、違うのか」
 凄く好きだけど、愛してるって訳じゃない。
「そう……私ってね」
 また顔を撫でながら、懐かしい口ぶりで先生が話す。
「マレビトだったわよね。困ってた志貴のところに突然やって来て、問題を解決して、途端に去ってしまった。私にとっては、そう特別なことをしたわけでもなかったのだけど」
 何か迷うように、悔いるように、沈黙があった。
「でもね? 志貴は、素敵な男の子にはなってくれそうだけど、その次には、素敵な男にならなきゃならない」
 そっと頭の下から脚を抜いて、草むらの上に俺を寝させた。隣に寝て、覆い被さってくる。
「志貴がちゃんと言ってくれたから、私も言おう。志貴のことは、好きよ? 多分、志貴の私に対する好きと同じように」
 さっきと同じように、青く遥かな眼に俺の顔が映っている。
「だから。私のこと、聖女でも幻でもなく、生身の人間として刻んでおいて欲しい」
 おでこがくっつくぐらいに顔が近付いている。懐かしい匂いがした。唇が触れ合いそうな距離。
「また訊こうかな。今、何をしようとしていると思う?」
 さっきと同じ体勢。さっきと同じ問い。さっきの俺の答えと、それに対する先生の行為、言葉。
 何を意味してるのかぐらい、俺にだって、判った。
 アイツのことは、愛してる。それでも、先生のことは、好きだ。触れ合った体の肉感も、蕩けそうな官能も、圧倒的だけど、それでも意志は惑わされてはいないと思う。
 間違いなく、先生は神聖なヒト。でも陽炎なんかじゃない。
 どう答えたって、先生は受け止めてくれるとは思う。でも、アイツへの言い訳は命懸けで考えることにして、答えた。
 本心だから。
「口付け」
 焦点が合わなくて見えないけど、笑ってくれたと思う。それからいきなり、唇が触れ合った。先生の口は柔かくて、まだ夢みたいに甘露だった。
 離れそうになって追いかけたけど、間に合わなくて逃げられてしまった。
「今日のことは、忘れるのよ? 私は肉体を持った女なんだってこと以外は」
 それからまた、口付けてくれた。

 

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(青子と志貴のHなんて読みたくないという方は、H部分をパスしてラストにどうぞ)

/まれびと 1・了



背景画像は、ゆんフリー写真素材集(Photo by ©Tomo.Yun )様 提供のものです。

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