まれびと


 真昼の夢も緩やかに過ぎて、目覚めるべき時が来る。どれぐらい話していたのか、不思議に曖昧。何の話をしていたのか、どうにも不確か。それぐらいに、他愛も無いことしか話さなかったのだろう。
 やがて特に理由も無しに、終幕を悟る。どちらからともなく静かに立ち上がって、向き合った。
 あの日には仰ぎ見た先生の青い眼も、今は少しだけ見下ろしている。
「大きくなったわね、ほんと」
 今さらまた、そんなことを言われる。
「先生は、お変わりありませんね」
 こちらも、出会いの挨拶のような言葉を返した。
 俺の手を掴んで、それを頬に押し当てながら、先生は言う。しなやかな肌の温もりが指に伝わる。
「私はちゃんと、生身の人間になったかしら、志貴の中で」
「はい――――」
 何か続けようとしたけど、上手く口に出来なかった。
 あの日、先生に会えなかったとしたら、俺はとっくに死んでいた。少なくとも、どんなに楽観視しても、今の遠野志貴はここには居ない。先生の魔法ってのが何なのかも知らないけど、我が生涯の恩人は、まごうことなく魔法使い。
「じゃあ、それ以外、今日のことは忘れなさい。夢だとでも思って」
 何故忘れなきゃいけないのか判らないけど、先生がそう言うならそれで良いんだろう。そう思えたから、簡潔に返事する。
「はい」
 そして華やかに笑って、先生は別れを口にした。今度は、俺の頬に自分の手を添えながら。
「じゃあ、Bye,志貴。どっかの片田舎で出会える日を楽しみにしているわ」
 答えようとしたとき、いきなり顔を寄せてきて、口付けられた。
「!」
 触れるか触れないかぐらいの、明け方の夢のようなキス。
 離れた途端、ざあ、と風が吹き抜ける。先生の髪が顔に掛かり、除けた時には既に、姿が無かった。最後のさよならも、言えないままだった。
 どちらに去ったのか判らないから、そのまま真正面を暫らく見送って、もう一度腰を下ろす。こんなことをされたら、常人じゃないってことが焼きついてしまう。
 ただ、確かに、神聖不可侵な偶像ではなくなった気がする。
 抱き締めた姿態の躍動を追想して、一人で照れる。抱き締められた温もりを思い出して、懐かしい想いに安らいだ。
 ――――君は君が正しいと思う大人になればいい。
 ああ。
 魔法使いの先生には、死なないために必要だったものを貰ったけれど。生身の人間である先生には、どうやって生きれば良いのか、その指針を貰っていた。
 起こらないはずだったという再会が終わり、最後の瞬間の微笑みと、頬に触れた指の滑らかさと、唇の柔かさとが、刻まれている。

 ――――ふと、目を覚ます。
 遥かに高く、雲ひとつ無い青空が視界を占領していた。
 体を起こす。寝ていたのは、地平線まで続くような、草原。まるで、子供の頃に先生と初めて会った場所のよう。
 騒動の元凶らしき白いレンを大人しくさせたあと、ここで先生に会った筈なのに、まるで真昼の夢のように曖昧。
 みゃあ、と小さな猫の声がして、目を遣れば、レンが丸くなっている。
「お疲れ様だったね、レンも」
 手を出して、頭を撫でてやる。困ったときは助けを求めて欲しいのだけど、レンの方もまた、俺に危ない目には遭わせられないって心づもりみたい。
「ひょっとして、先生のことはレンの悪戯か?」
 あまりにありそうにも無いことだから、夢だと思えば一番納得が行く。それにしては、頬に残る残響が鮮明だけれど。
 考えの纏まらないでいる間レンは、じっと俺を見つめていて、首を傾げ、ぺろんと指を舐めた。何となく、シラを切っている雰囲気。
 不意に、くすぐったく思って唇に指を触れる。頬に滑らせて、そこで糸みたいなものが絡み付いた。
 摘んで確かめれば、長い、髪の毛らしきもの。
「先生の?」
 ざあ、と。
 もっと良く見ようと思った瞬間に、風が吹き抜ける。手にしていたものは、飛ばされてしまった。
 レンが、また一声、鳴いた。
 邂逅が夢か現かは関係なく。先生と、己を羞じることなく対峙できたのを嬉しく思う。
 もう一度、レンを撫でて、抱き上げた。
 もう一度、空を見上げて、その青さを目に染み込ませた。
「帰ろう、遅くなったら秋葉にまた叱られる」
 そして、他人に知られたら笑われそうな日常に、足を向けた。

 

/まれびと・了

 


一年も間が開いてしまいまして、失礼致しました。

背景画像は、ゆんフリー写真素材集(Photo by ©Tomo.Yun )様 提供のものです。

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