疼愛痛心

Love is the pain, but not the bane.

 耳にしていただけの力の発現を、初めて見た。
 いきなりコップが微塵みじんに砕けた。
 破片は多くが床に落ちたし、誰も見ていなかったようだから、派手に落としただけのことに見えてくれるかな。
 浅上さんは気絶したらしく、ソファに倒れた。寄ってきたウェイトレスさんにコップのことを詫び、処理して貰う。後から来た店長らしき人が、浅上さんのことに気づいた。
「お騒がせしてすいません、この子、ちょっと病気でたまに発作起こすんです」
「救急車、呼びましょうか?」
「えっと、それよりタクシーを呼んでもらえますか? 世話になってる医者がありますんで」

 病院に着いたら、準備を万端に整えてくれていた。
「藤乃さんっ!」
 いつか電話で話した初老の医師は、老練の手際で診察を始める。
「何があったのですか?」
「判りません。喫茶店で話していたのですが、不意に『痛い』と言い始めて、ほとんどすぐに気絶してしまいました」
「痛い、と? しかし藤乃さんは、」
 医師の飲み込んだ言葉を、引き継ぐ。
「無痛症、ですね」
「ご存じでしたか」
「はい」
 それ以上有益な情報も提供できないし、診察となると服を脱がせるわけだから、僕は部屋を出た。現れている人外の力のことが心配で橙子さんに電話したら、意外なことに迎えに来てくれると言う。
「なに、ブロードブリッジが完成前に崩壊しただろう? 設計ミスだってことにされているんだがな、お陰様で回ってきた仕事もあるのさ。知らなかっただろうが、黒桐の懐が最近わりあい暖かいのも大方はその関係だから、少しは感謝しておけ」
 言いっぷりは相変わらずだし、まったく事実なのだろうけど、意外と身内とか後輩とか言うのに暖かいところもある人だったりもする。

 結局、浅上さんの体に明確な異常は見られなかったそうだ。もう少し正確には、体は色々と弱っているのだけど、どれを取っても重大な問題を起こすようなものではないはずらしい。
 出先で倒れた、というまぎれもない事実を先生の方から学園に伝えて貰う。橙子さんの口添えもあって、騒ぎにはならずに済みそうだ。

 幹也さんが、わたしを舐めている。何人もの少年に汚された体なのに、わたしの脚の間のかげりの奥を、食べてしまいそうなほど熱心に舐めている。学院のシスターが知ったら卒倒しそうなことをされている。
 痛い。
 いや、違う。何か引っ掛かるようで、もやもやと慣れない感情が湧く。
 汚いから駄目ってまた訴えたけど、大丈夫って言って続けている。ぴちゃ、じゅっ、なんて音がしていて、どうも意図して大きな音をたてているみたいだ。
「ふあっ」
 感じないけど、興奮はしている。乱れて、何だか変な具合に呼吸している。恥ずかしくて、だけど恥ずかしい原因が幹也さんなのが嬉しいみたいで、もっと色んなことをして欲しくなる。
 ちょっと横を向いているから、わたしもそっちを見たら、鏡越しに目が合った。わたしの体を少し鏡に向けさせて、指を二本伸ばしてわたしに当てて、ゆっくり、沈めた。
 ちゅっ、ぺちゅっ。くちゅっ。
 耳慣れない音を聞きながら、手を自分の胸に添える。幹也さんの手を思い出しながら、手を動かして揉んでみた。乳首を弄っていたら今度も硬くなってくるし、体は刺激を受け取っているんだと思う。
 自分の体の一部が自分の手で変形させられる様子を鏡で眺めて思い出した。前にルームメイトがベッドでこんなことをしているのを目撃したことがある。あたり前だけど、行為の意味が全然判らなかった。これが気持ち良いって、どんな感じなんだろう?
「藤乃ちゃん、そういうことする子だったんだ?」
 不意に言われた。見下ろすと、幹也さんはちょっと意地悪に笑っている。
「しませんっ」
 慌てて手をどける。
「別にやめることは無いよ?」
 そう言われても、恥ずかしくて再開する気にはなれない。横を向いていたら、立ち上がって口を耳に寄せて、囁いてくる。
「藤乃ちゃんみたいな可愛い子が自分で胸を揉んじゃうなんて、えっちで良かったよ」
 目をつむって反対を向いて言う。
「ひょっとして、ずっと見てました?」
「ん、せいぜい一分ぐらいだよ」
「充分長いですっ」
 見られたくなくて、抱き付いて胸に顔を埋めた。
「出来ればこっちを弄るところも見たかったなあ」
 手をとって下に運ばれる。
「やん、センパイのヘンタイ」
「そもそも自分でしてたんじゃないか」
 顔を上げさせられて、キスされた。
 唇を離して、俯いたらペニスが目に入った。自分のを触らされていた手を動かして、そっと握る。今度はわたしがしゃがみ込もうとして、途中で幹也さんの乳首を見つけて、ペロッて舐めてみた。
「ん」
 さっきされたみたいに、ちゅうちゅうしてみる。舐めたり吸ったりをしばらく続けて、反対側にもしてあげようとして、乳首がすこし尖っているのが判った。
「男の人もこうなるんですね」
「ははは」
「気持ち良いんですか?」
「まあね。男の場合、人によるみたい」
 なんか、照れてるみたい。ちょっと楽しくなって、指でくすぐったり口で愛撫したりを繰り返した。
 それから、膝をついた。幹也さんのものが目の前に来た。

 意識を取り戻したらベッドに寝かされていて、先輩と見知らぬ綺麗な女の人とが付き添ってくれていた。
 嬉しかった。わたしの体のこと、能力のこと、事件のこと、全部知っているはずなのに。現にコップが粉砕されるのを目の当たりにしているのに。それでも、わたしをここまで運んで、目が覚めるまで傍に居てくれたんだ。
 必死で、それ以上のことを考えるのをやめた。
「初めてお目にかかるな、浅上藤乃さん」
 先輩が先生を呼びに行っている間に、女の人が話し掛けてくる。
 綺麗なひと。
 怖いひと。
 この二つが、初めの印象だった。仕立ての良いスーツをきちんと着た頼り甲斐のありそうな女性で、でも同時に、震えが起こるほど怖い気配をまとっていた。
「君のことは良く知っているから、今さら警戒するのは無意味だ。あの時、君のところに式を遣ったのは他ならぬ私だからな」
 射竦いすくめられているのを構わず、話しつづける。
「っと、名乗っても居なかったな。私は蒼崎橙子という。黒桐の上司というか、雇用者だ。他に従業員は居ないが、式と君の友人の鮮花には時折手伝いをしてもらっている」
 先輩、この人のところでお仕事してるんだ。
「どうもすいません、ご迷惑をお掛けしまして」
 何を言って良いのか、ともかくそんな返事をした。
「まあ気にするな、浅上建設とは多少の縁があるし、君のお陰で得た仕事もあるからな」
 わたしのお陰?
 意味を問う前に先生と先輩が来て、結局尋ねられなかった。
 改めて診察してもらい、体に異常を覚えたら些細でもすぐに来なさいとまた注意を受けて、病院を後にする。一晩ぐらいは入院させられるかと思っていたから、解放されたのは意外だった。
「今の浅上さんの症状は、えてしてストレスだとか神経性だとか言って済ませてしまうようなものです。必要なのは何より休息で……」
 先生は、そんな風に先輩たちに説明していた。神経が半ば死んでても神経性の症状は出るんだ、なんてヘンなことを考えた。

 橙子さんの車で、二人の仕事場に向かう。何をしに行こうというのか知らされてもいないけれど、先輩の会社が見てみたかった。
 上司を名前で呼んでいるなんて随分親密だな、なんて思って、わたしも言う。
「わたし、浅上って名前は好きじゃないんです。出来れば藤乃の方で呼んでもらえませんか?」
「そうなのか。うん、判った、藤乃さん」
 こちらも幹也さんって呼んで良いですかって訊きかけて、踏み止まる。
 心の中で呼ぶぐらいは、良いよね?
 車は街を順調に走って、不意に放棄されたらしいビルの前に止まる。どう見ても、建築途中で見捨てられて何年も過ぎていそうだ。
「ここだから、降りて?」
 びっくりしたけど、ついて行く。敷地もまるで廃墟で恐ろしげ。
 そうか。あれは地下だけど、わたしが初めて人を殺した場所も、犯された場所も、都会の中の廃墟だったから、こんなに感情が揺れるんだ。
「気をつけて、急だから」
 階段で幹也さんが手を取ってくれる。その手がとても暖かかった。少なくとも、そんな気がした。
 四階まで上がってドアを開けると、そこだけはきちんと事務所になっていた。聞けば、橙子さんの本業は人形師だけど現実の仕事としては主に建築の設計。それで浅上建設との関わりもあるらしい。幹也さんも設計とかしているのかと思ったら、経理とか秘書みたいなこととかが多いって。
「変わっていないようだな、礼園も」
 コーヒーを手に、訊かれるままに学校のことを話していたら、橙子さんが言った。
「え?」
 話を聞けば、この人は学院の先輩になるらしかった。
「どいつもこいつも。そんなに意外かね?」
 隣で幹也さんがこっそり笑っている。
「うふふふっ」
 意識を取り戻してから初めて、わたしも笑った。
「よし、もう雑談は終わりだ。単刀直入に行こう、無痛症を治すこと自体は大した問題ではない」
 怜悧な美貌の女性は、あっさりと、つまらなそうに言った。
 わたしは驚いて黙り込む。
「しかし、それだけでは解決にならない。むしろ無痛症の治療などおまけだ。何を言っているかは判るな?」
 判ったけど躊躇ためらう。言葉が真っ直ぐ過ぎて返事が出来ない。
「言っただろう? 藤乃のことは大方知っている。何人もの男を殺し、ブロードブリッジを破壊したとき、君の父からの依頼もあって色々と調べさせてもらったのでな。調べたのは概ね黒桐だが」
 忘れてしまいたいけど、忘れるわけには行かない忌まわしい記憶。でも、あのことを知った上で治療を語っているのなら、希望はあるのだろう。
「はい。痛みが戻ったら、またあの力も戻ってしまうかも知れないと」
 わたしの答えに満足したらしく、少しだけ穏やかになって続ける。
「君の持っているような脈絡のない外れた能力を超能力という。君の場合は痛みがスイッチになっているようだから、言う通り、単に無痛症を治してしまったのでは制御を失う可能性があるわけだ」
「あの時も思ったんですけど、切り離せないんですか? 痛覚と、その超能力とを」
 幹也さんが横から言った。もう充分判っていたけど、わたしのことを幹也さんがここまで知っているのは、それでもショックだった。
「切り離さねばならんな、それがリハビリだ。藤乃、尋ねるが、無痛症は治したいか?」
「はい」
「力が戻ることは望むか?」
「いいえ」
「判りやすいジレンマだな。良い解決策は思いつくか?」
 無痛症のままでも生きては行ける。あんな力を持って生きていく自信は無い。それなら、どうするのが良いのかは単純だ。だけど躊躇う。今まで、治せるなんて考えたことが無いから現状で良いと思っていただけ。
 また返事が出来ずにいると、幹也さんが言う。
「制御できれば、問題は無いんでしょう?」
「ふん。どうだ? 藤乃」
 忌み嫌うばかりだったから考えなかったこと。けれど、それならどうにか折り合いは付けられるかも知れない。
「そう思います」
 半ば幹也さんに縋るように、そう答えた。
「よし。それがリハビリだよ、藤乃。私は超能力なんてものが大嫌いだから、指導は出来ないがね」
 橙子さんの言葉はどれもこれも直截ちょくせつで厳しいけど、不快ではなかった。きっと、本当のことだからだろう。

 目の前で性器を見て、少し怯えた。何度も口に入れられたし、口の中で射精されたのも覚えている。
 少し、吐き気がした。だけど、今はそれを隠して、幹也さんを先の方で手の中に握る。グロテスクな器官、でも女の器官だって多分にグロテスクだ。性欲ってものが判らないから、それを愛撫できるのは相手に対する感情のお陰なのだと思う。
 それだけなら、あの少年たちがわたしを舐めたりした理由が判らないけど。
 ペニスに頬を当てて、反対側を掌で撫でる。あんなにわたしを可愛がってくれた幹也さんに、今度はちゃんと気持ち良くなって欲しかった。左手は垂れ下がった袋に添えて、力が篭ったら強烈に痛いらしいから、注意して揺り動かす。
「藤乃ちゃん、」
 何か言いかけていたけど、わたしが先端を咥えたら黙りこんだ。
 口の中がどうなっているのかイメージする。きちんと発音するためには舌をどうすれば良いのか、外から舌の位置を動かして教えてもらったのを想起する。ペニスの大きさを元に、舌と唇をできるだけ多く触れるようにしてみる。頭を動かして出し入れした。
「うぅっ」
 呻くのが聞こえて心配になり、尋ねた。
「痛くないですか?」
 手をわたしの頭に当てて答えてくれる。
「大丈夫。気持ち良いよ」
 嬉しくなって、今度は根元の方にキスして、横向きに咥えて左右に動く。
「ああっ」
 切羽詰ったような声を出してる。
 少年たちにされたことや、させられたことを思い出してしまい、嫌悪と怯えが湧く。
「ふふっ」
 あなた達のことなんかに縛られて溜まるものですか。凶暴な感情と一緒に、それを全部幹也さんにしてあげる。
 胸でペニスを挟み込んで、体を揺らして摩擦する。柔らかいから、幹也さんを傷つけたりする心配はないだろう。両手を添えてぐっと両側から押し付ける。
「くぁっ」
 はしたない行為に違いない。忌まわしい記憶を追想するようなことを態々わざわざしているのだ。でも、わたしはずっとそうして来た。出来ないことがあるなんて思われたくなかった。人が期待してくれることがあるなら、必ずそれを超えようと。
 また幹也さんを口にして、今度はずっと奥の方まで咥える。喉に突き立てられても平気だから、根元まで口に入れてしまう。息が上手く出来ないから、本当に喉の辺りまで入っているんだと思う。
 その状態で頭を上下する。静かに精巣に触れる。
「ふじの、ちゃん、んっ」
 さっきよりもっと切羽詰った声だ。少年たちが射精する直前はいつもこんなだったから、意味が判った。口を先端辺りに戻して、唇と舌で包み込んで、もっと早く動いた。
「ふじのちゃん、出ちゃうからストップっ!」
 わたしは止まらず往復を続ける。
「駄目だってっ」
 良いですから。
 両手が頭に絡みついてきて、強引に止めさせようとしていたけど、間にあわなかったみたい。不意に口の中に苦く奇妙な味と匂いが溢れた。じゅっ、と吸ってから顔を離すと、まだ少し飛び出している。
「ごめんっ」
 謝る幹也さんを余所に、わたしは先端に吸い付いて、残りの精子を口に入れた。
 無理矢理飲まされたのを思い出す。厭らしい笑いを湛えた男の顔も思い出せる。ああ、確かこいつはわたしの殺した三人目だ。
「吐き出して」
 今度も言うことを聞かない。口の中にある正直に言って不快な味を、それでもしっかりと確かめて刻み付けてから、喉に押し遣って飲み込んだ。力を無くしたペニスの先に、まだ少しだけ垂れているのを見つけて、それも口を付けて取る。
「飲んだりしなくて良いのに」
 上を見たら、幹也さんは心底申し分けなさそうだった。
「飲みたかったんですよ。直接、わたしの中に出してもらうことは出来ないですから」
 立ち上がって、正面から見詰めて告げた。たぶん、自然に笑えていた。
「藤乃ちゃん」
 呆けたように言って、わたしの口元を指で触れる。少しまだ付いていたらしい。手を振って払おうとするのを止め、指を口にして舐め取った。
 キスするのは遠慮して、抱き付く。男の人の考えることは判らないけど、自分の精子の味を知りたがっているとは思えない。
 でも、向こうからキスしてくれた。

 死神はとても優しくなっていた。
 橙子さんに呼ばれたらしく、両儀さんが伽藍の堂なる名の仕事場に現れた。知らされていなかったのか、わたしの顔を見てちょっと驚いていた。
「浅上か。藤乃、だったか?」
 わたしの方は向き合うと怖くて、防衛本能のように殺意まで持ってしまった。
「久しぶりだな」
 それなのに、両儀さんは穏やかに微笑んだ。作った笑いには思えず、単純に好意が感じられた。死神なんて呼んだことを恥じた。
「あの時は」
 考えなく口を開いて、でもちゃんと言うべきことが浮かんだ。
「有り難うございました」
 意味が判らなかったらしいから、さらに言う。
「結局、命を救って貰ったわけですから」
「そうか、そうだったな。気にするな、最後にお前は殺す意味の無いやつに戻ってしまっただけの話だ。それに」
 幾分躊躇ためらいつつ、言った。
「浅神のゆかりの者なら、殺してしまわなくて良かったよ」
 ぎこちなく会話していたら、幹也さんが現れる。
「ああ、式、おはよう」
「おはよう。幹也、家に居ないと思ったら、こいつと居たんだな」
 からかうように、でも少しだけ怒りを隠すようにしている。
「何も二人で居たわけじゃないよ」
 ちょっと困ったように笑って、幹也さんが答える。両儀さんの怒りが嫉妬だと判って少しだけ面白かったけど、二人の間には隙間が無くて。幹也さんの傍を両儀さんが占めていることを痛感させられて、ナニカがイタかった。
「そろったか。さっさと済ませるぞ、来い」
 橙子さんが顔を出し、わたし達をうなががした。
 廃ビルみたいな会社を出て連れて行かれた場所は、別の廃ビルだった。
「こっちは完全に不法侵入だがね」
 言われるままに、屋上まで上がる。傷んだコンクリートの床には、ブロックとか土管とか、そんがガラクタが無数に転がっている。
 中央まで歩いたところで、橙子さんが説明を始める。
「作業は昨夜済ませてある。藤乃の体はもう普通の人間とそう違いは無い」
 幹也さんと両儀さんが驚いているけど、わたしも同じだった。確かに昨日の晩、橙子さんはわたしに不可解なことを色々と施したけど、わたしの感覚は戻っていないから、精々検査の類だと思っていた。
「そんな顔をするな、そう違いは無い、としか言ってないだろう? 痛覚が戻ったらいきなり超能力を暴走させるかも知れないのに、何の対策も無くやれるわけが無い。現状では、安全装置を付けた状態だよ」
 わたし達が理解するのを待ち、橙子さんは続ける。
「これから、その安全装置を外す。式を呼んだのはそのためだ、もし力を発現してしまっても、お前なら容易に防げるからな」
「ふん。しかし、何故こんなところでやるんだ?」
 いつの間にかナイフを手にして、両儀さんが尋ねる。
「何が起こるか判らんのに伽藍の堂を使うわけにはいかんだろう? ここなら人目も無いし、以前から多少は結界もしてある。ちょうど良いのさ」
「橙子さん、僕は何をすれば良いんですか?」
 今度は幹也さんが訊く。
「黒桐は、ただ立ち会えば良い」
「はあ」
 曖昧な説明を幹也さんはそのまま受け入れた。
 橙子さんがわたしの後ろに回り、問う。
「準備は良いか?」
「はい」
「ああ」
「はい」
 三人の返事の後、意味の判らない、聞き取り難い言葉を橙子さんが発した。
 何も起こらなくて、戸惑って振り向いたら、橙子さんは十メートルも離れた位置に下がっていた。
 疑問を口にしかけた瞬間、体中に何かを感じて沈黙した。
 全身に何か触れている。わたしを包み込む弱い感触。定期的にざわめいていて、感覚が風に衣服の揺れるのと同期している。自分であちこち触れてみて、目で見えるものと体に受けるものとの同期を確認する。
 そしてやっと、衣服が肌に触れている感触に過ぎないことを理解した。そう思ってみると、風が頬に当るのも理解できた。髪がなびいているのが頭皮の知覚として判る。体重が足の裏に掛かっているのが理解できる。
 日差しの暑さを初めて知った。太陽が眩しくて目が痛い。
 圧倒されて、目眩めまいがして膝を付く。そこに小さなセメントの欠片があって、膝に喰い付いて痛い。
「あああっ」
 日に焼けた床は熱かった。
「はあ、はぁっ」
 溢れ返る知覚情報に耐え切れず、翻弄される。心臓が脈打つ。息が苦しい。痛い。イタイ。
「いたい」
 口にしたのが切っ掛けだった。
 目の前のブロックが、捻れて破裂した。
「藤乃っ」
 両儀さんの声がした。視線を移す途中で別のブロックが見えた。長辺方向に軸を作っているのは自覚したけど、ストップは出来なかった。
「ちっ」
 舌打ちが聞こえるのと同時に、ブロックを襲っていたはずの力が消える。
 でもすぐに隣のブロックを――消える。土管を――消えた。痛い。
 何かが痛い。何が?
 さっきのブロックをまた凝視して、壊そうとして、でも掻き消される。
 両儀さんの方を見て、ナイフを振るっている姿が見えた。
 ――まがれ。
 やっぱり、あなたなんですね。
 意識はブロードブリッジで対峙した時に戻っていて、とうとう両儀さんを目標にしてしまう。
「お前っ」
 まがれ。ナイフの一振りで無効になる。ただ念じるだけなのに、ナイフを振るという肉体の動きに勝れない。
まがれ凶れ凶れ凶れっ」
 体中の痛みを篭めて叫んだのに、両儀さんはまがらなかった。
 痛い、痛い、いたい、イタイ、痛い。
 体中が痛くて、痛みに意識を組み敷かれて、意味も無く力を振るい続ける。
「いい加減にしろ、藤乃っ!」
 叫びを聞いたとき、あの嵐夜アラヤの情景が浮かんだ。
 次の瞬間、今居るビルの姿が心の中に浮かび上がった。脳天から何かに食い荒らされているような痛みを燃料にして、そのビルの上下に伸びる軸を作り、
まがれぇっ!」
 それを、曲げた。

 私を曲げようとする力ぐらいは、殺すのは容易かった。しかし最後の瞬間、ブロードブリッジを崩壊させた時と同じように、ビル全体を赤と緑の螺旋が覆っていて、それにはとても及ばない。
 足元の床が崩れて、私は一緒に落ちる羽目になる。幸い、下の床が落下に耐えてくれたから、一フロアぶんの衝撃で済んだ。
 幹也と藤乃は崩れ残った屋上に居るらしいと、判った。

 式がナイフを振るのを見ていて、藤乃さんの超能力を殺してるのだと理解するのに少し時間が掛かった。もっと詳しく説明を聞いておくべきだったと今さらながら思う。
 藤乃さんは「まがれ」と何度も叫び続ける。明らかに正気じゃなかった。飛び出して取り押さえてやりかったけど、危なくてそんなことは出来なかった。
まがれぇっ!」
 一際大きな叫びが聞こえ、瞬間にビルが揺れた。縦横のヒビが足元に走って行き、隙間が広がる。式の傍に大きな断絶が生まれて、撒き込まれて式は一塊のコンクリートと一緒に、落ちた。

 ビルを曲げてしまった後、ようやく少しだけ理性を取り戻す。
 両儀さんが落ちたのは見えていた。何処まで落ちたのかは判らない。
 幹也さんは傾いた屋上に残っていて、膝を付いてうずくまっている。顔を上げてわたしをちらりと見ると、床の穴に走り寄って叫ぶ。
「式ーっ!」
 ――ああ。
 やっぱり、先輩の一番そばに居られる人は、わたしでなくて、あの人なんですね。
 ――ありがとう、先輩。
 中学の時のあの日から、ずっと好きでした。あなたのことを思うだけで、辛いことにも耐えられました。
 ――あなたの傍が、欲しかった。
 でも、手に入らない。それは両儀さんのものだから。ただそこに居たかっただけなのに。
 ――手に入らないなら。
 こんな馬鹿げたこと、考えちゃいけないのは判っている。でも、あなたの傍に居場所をもらえないなら。わたしを受け止めてもらえないなら。
 ――壊すしか、無い。
「さようなら、先輩――」
 そんなことをしちゃ駄目だと判っているけど、わたしは目に浮かぶ人形に軸を作って。
 それを、曲げようと――

 

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