疼愛痛心

Love is the pain, but not the bane.

 お風呂から上がって、幹也さんのベッドに並んで腰掛けている。
 二人とも、裸。幹也さんの右手を取って、両手で挟んで撫でる。掌にちょっと口をつけた。
「やっぱり、男の人の手ですね」
 細い手なんだけど、どこか力強くて、そんな風に思った。結局、身に刻んではくれなかったけど、それは望むべきことではない。
「そう、僕は男の人だからね?」
「きゃあっ」
 伸し掛かって押し倒された。
「綺麗だよ、ほんとに。藤乃ちゃん」
 ゆっくり顔を降ろしてきて、キスしてくれる。目は閉じるものらしいけど、見ていたいから閉じない。ピントが合わないほど傍で顔を眺めながら、唇を吸いあう音を楽しんだ。
「暗くした方が良いのかな、やっぱり」
 キスの後、訊かれた。
「いえ、このままで。先輩を見ていたいですから」
「そうか。僕も、藤乃ちゃんを見られる方が嬉しいな」
 暗くしたら、わたしの世界は事実上音だけになってしまう。
 わたしが何も感じていないのを知っていながら丁寧に愛撫してくれるのは、普通に振舞うためのポーズなのかと思っていた。でも、さっき口でしてあげて判った。愛撫するのはそれ自体が楽しくて嬉しい。感情を形にしてぶつけてあげられる。
 妙に丁寧に時間をかけて胸を愛してくれるのは、ひょっとして両儀さんは胸が大きくないからなのかな、なんて思ったりする。
「うふっ」
 ちょっと、痛いけど。その考えは楽しかった。
 両手を頭に回して、胸に顔を埋めてもらう。大人しく、しばらく幹也さんはじっとしていた。
 それから起き上がって、足の方に移動した。わたしに脚を開かせて、その間を眺めてからもっと下に移り、今度は足首を掴んで持ち上げる。ぱくっ、っていう感じで突然爪先を口に入れてしまう。
「やぁんっ」
 何か、酷くえっちなことに思えて甘い声をあげてしまう。
「そっか、腋に続いてここも藤乃ちゃんの弱点、っと」
 笑いながら、指を吸ったり足の裏を舐めまわしたりしてる。
「そんなところっ」
 見ているだけで変に昂ぶった。見えやすいところを選んでいるのかな。両手の指を細かく動かして足首から先の全部をなぞって行き、唾液で光るほどそこら中に唇と舌を付ける。
 やっと執拗な愛撫を終えて足を離したと思ったら、反対側の足にも同じことを始めた。反応してあげられないのが寂しくなって、思い出す。
 良いことを思い出したけど、恥ずかしい。
 恥ずかしいけど、決意した。
「先輩?」
 声をかけて、わたしは左手を自分の胸に置く。ゆっくり、揉む。乳首を摘んで弄る。
「えっちだな、藤乃ちゃん」
「うふっ」
 右手を足の間に持って行く。自分で触れようとするけど、見えないから良く判らない。だから、お願いする。
「場所、教えてください」
 先輩は見たことが無いほどえっちな笑いを浮かべると、わたしの右手を取って脚の間で場所を決めてくれる。ついでに、しばらく動かしてくれたから、どうすれば良いのか把握した。
 先輩はまた足に戻り、わたしは見詰めあいながら両手で自分の体を愛撫する。
 時に、心だけが痛むことのあるように。
 今は、心だけで、充分に喜びを覚えた。

 下のフロアに落とされたとはいえ、私は取り立てて負傷しては居なかった。打撲は受けたにしても、問題になるほどではない。
「式ーっ!」
 すぐに幹也が上から声をかけてきた。とりあえず無事を伝えようと、見上げる。
 その後に、赤と緑の螺旋が見えて――
「幹也っ!」

 式が無事らしいのを確かめたとき、藤乃さんの方から声が聞こえた。
「さようなら、先輩――」
 見れば、藤乃さんの表情が途轍もなく冷たく、いつか見た式の目よりもまだ恐ろしかった。
 だから、もう一度彼女が力を使おうとしていることも、その対象が何であるかも、判ってしまった。

 軸が固定されて、わたしの力が発現する。
 それで、終わり。
 ――ごめんなさい、母さま。わたしは結局こんな風にしかなれませんでした。
「――まがれ」
 呪いを吐いて、それで終わる筈だったのに、何か黒いものがわたしにぶつかって来て、押し倒された。
 捻じ切られる直前の、俯瞰で幻視していた自分自身に飛びついて来たのは、幹也さんだった。
 だけど判った時には、もう遅かった。
 わたしは床に倒れて腰や背中を打ち、痛みに一瞬意識が飛ぶ。
 覚醒したとき、打ちつけたところはまだ痛むけど、わたしの体は曲げられてはいない。
 目の前にあるものに次第に焦点が合い、それが血塗れの手だと判る。背中側一面痛いけど、どちらの手も別に痛まない。
 だから、それが幹也さんの手だと判った。
 ――そんな。
 凍結した思考のまま、絞られた雑巾のような手を抱く。
 わたしが消えてしまえば良いだけだったのに。
 幹也さんを傷つけるつもりなんて無かったのに。
「大丈夫かい、藤乃さん」
 こんな酷い目に遭わせたわたしに、それでも幹也さんは優しく声を掛けてくれる。
「わたしより、幹也さんっ」
 慌ててそう呼んでいた。体を起こした幹也さんは、初めて右手の状態に気付いたみたいに、顔をしかめた。
「ああ、馬鹿やったなあ」
 服に泥が付いた程度にしか言わない。
「先輩、痛く、ないんですか?」
 また顔を顰めて、言う。
「うん。麻痺しちゃってるのかな、痛くないや」
 捻り殺した男たちが例外なくもがき苦しんでいたのを覚えているから、無責任にも少しだけほっとした。間違いなく、右腕を再起不能にしたって言うのに。
「どうして先輩、こんな無茶なこと出来るんですか。死なせて欲しかったのに」
 無事な左手をわたしの頬に沿えて、幹也さんは言う。掌の感触が、今は実際に暖かかった。
「嘘だね、それは。死にたくなんかないはずだよ、藤乃ちゃん」
 その微笑みは、燃え立つような空の下で見た時と少しも変わりなかった。
「どうして先輩、そんなことが出来るんですか」
 ほとんど同じ言葉で再び問い返す。
「なんでだろうね――うん。僕はね、余計な重荷を背負わされてはいないから。時々だったら、式や藤乃さんみたいな子に肩を貸してあげられるんじゃないかな」
 わたしを助け起こして、先輩は更に言う。
「疲れたり、傷を負ったりしたときには、治す力なんて無いけど、癒えるまで休ませてあげられる。そんなときは、休んでも良いんだから」
 でも、そこは両儀さんの場所で。
「休み終わったら、自分で歩いて貰わないと困るけどね。ずっと抱き上げて歩いて行くことはできないから」
 ああ。
 そんなに単純なことが――
「藤乃、お前っ」
 不意に声が聞こえた。見れば、少し土埃で汚れただけの両儀さんがもう傍に立っていた。幹也さんの手のことに気付いているのか、久しぶりに死神みたいだった。
「何をしたっ」
 怖くて、目を閉じる。視界を失うと、わたしはほとんど何も感じなくなる。
「式っ」
 声しか判らない。
 いや、違った。衣服の肌に触れる感触や、床に触れた部分の圧力や、日差しの熱や、風が頬を撫でる感触や、そんなものが感じられる。改めて、感覚と一緒に力が戻ってしまったことを思い知る。
「殺しちまうぞ?」
 両儀さんの声がした。
 言われた通り、死んだ方が良いのかなって思うだけで、死にたくなんかない。でも、両儀さんに殺されるなら、それも良いかと思った。
 今でさえナイフのあの一閃が脳裏に浮かぶ。あれに斬られたら、一瞬で済むだろう。
 あんなに欲しかった痛みなのに、やっぱり苦しまずに死にたかった。
「幹也、トウコに義手、造らせろよ?」
「そうだね。流石に、右腕無しは厳しいや」
 ――まだ、二人の会話が聞こえる。
 そっと目を開けたら、両儀さんが幹也さんに顔を寄せていた。
「まったく、いつもいつも無茶しやがって」
 髪をかきあげて、潰された左眼のところに唇を付けている。その顔は余りに優しく、慈愛に満ちていた。だから、殺されることなんて無いって、判った。
 両儀さんがキスを止めるのを待った。
「わたし、生きてて良いのかな」
 ぽつりと、呟く。
 また、無事な左手を使って抱き締めてくれた。
「僕は一般論ばかりしているって式にはいつも言われるんだけどね。今生きている以上は、生きていて良いんだと思うよ。藤乃ちゃんは間違いなく随分と酷い目に遭った被害者だったのに」
 幹也さんの心臓の音がする。どくんどくんって、肌でも感じられる。
「自殺なんかしたら、その力で犯した殺しの被害者を一人増やすだけじゃないか」
 この力の、被害者。頭に浮かんだのは、手足を捻じ切られた少年達。夢の中で虐殺したクラスメイト。同じように止めてくれようとして、夢では殺してしまった幹也さん。
「でもわたし、加害者なんですよ。あんなに何人も殺して、関係のない人まで殺して」
 母のような貞淑な女性になろうとして、父が誇れるような優等生になろうとして、普通の子になろうとして、どれもなり損ねてこんな人殺しに。
「復讐したり、無関係な殺人をしてしまったたりしたからと言って、藤乃ちゃんが酷い目に遭ってたって事実が無くなるわけじゃない。そんなこと、相殺するもんじゃない」
 長いこと、鼓動を聞きながら、幹也さんの言葉を反芻していた。相殺したりしないって言葉に、自分のしたことを復讐だと思うのを止めてみる。そうしたら、犯された事実と、殺した事実だけになる。
 うん、少しだけ、話は簡単になる。
「だから、被害者だったからって人を殺しても良いってことにはならないのも確かだけどね。やってしまったことは、背負うしかない。死ぬなんて責任放棄だ」
 全部判ったわけじゃない。それには程遠いし、辿り着けるかどうか判らない。それでも、ひとつだけは決められた。
「はい。もう、そんなこと考えません」
「ありがとう。一生、引き摺って行かなきゃならないだろうね。それでも足りないかもしれない」
「はい。でも、赦すのにも一生かかるでしょうから」
 そう言ったら、またもう一度ぎゅっと、抱き締めてくれた。 
「たまにだったら、肩を貸すことは出来ると思うよ」
 うん。この人は、誰にでもそうしてしまうんだ。だから、わたしに独り占めは出来ない。
 でも、もうちょっとだけ一番傍に居たかったから、広い胸に顔を寄せて、訊く。
「泣いて、いいですか」
 少しの沈黙の後、幹也さんの返事があった。
「良いよ、藤乃ちゃん」
 だけどわたしは、ずっと黙っていてくれた両儀さんを見ていた。
「やっぱり馬鹿だな、お前」
 両儀さんは、微笑む。
「そんなことに、許可なんて要らないんだよ。泣きたけりゃ、勝手に泣け」
 さっき、幹也さんに向けていたのと同じぐらいに優しく慈しみのある瞳を、向けてくれていた。だから、安心してわたしは涙を流した。

「今度は右腕か、黒桐。まるで丹下左膳だな」
 橙子さんが言う。丹下左膳なんて名前ぐらいしか知らないけど、痛みを覚えないうちにと式が右腕を殺し、心臓に悪い姿になった自分の体の一部はもう見ないで済んでいる。ビルが倒壊しても、一応張ってあったという結界のお陰か、人だかりが出来たりはせずに抜け出してこられた。伽藍の堂に戻って一息つき、残る問題を話し始めたところだ。
「義手を造ってやるのは簡単だがね。費用はどうするつもりだ?」
 それは確かに、頭の痛い話だった。
「あの、わたしが父さんに言って、どうにかしますから」
 藤乃さんが口を出す。
「いや、藤乃。君が払うというなら別だがね、父親からというなら受け取れないな」
 また無茶なことを言ってる。
「お前が心配するな。無いそでが振れないことは良く知っているよ。なあ、黒桐?」
 嫌なことを思い出させられる。最近は比較的給料も滞らないでいるけれど。
「もっとも、黒桐からなら、取り立てるって必要は無いわけだが」
 くっく、とシャレにならないことを言いながら笑っている。
「そんなことっ」
 藤乃さんが焦った声を出し、橙子さんが再び抑えた。
「冗談だよ。しかし藤乃、あんな父親のことは片を付けた方が良いぞ?」
「片を付ける?」
「そう、やってしまうべきだな」
「やってしまうって、橙子さんっ」
 いきなりの物騒な言葉に突っかかった。
「落ち着け。何も殺せとか言ってるんじゃない。それに、間違っても、父親が死ねば遺産が転がり込むとか言っているわけでもないぞ」
「じゃあ、どういうことですか?」
 藤乃さんが当然の疑問を発している。
「それは、自分で理解しなきゃ意味が無い。そして、理解したときには概ね果たしているよ」
 正直、僕には判らなかった。
「さて、そうすると、残った問題は君の無痛症か」
 声の調子を変えて、橙子さんが言う。僕の腕の中で泣き疲れた藤乃さんは眠ってしまい、目が覚めたとき、また感覚を無くしていたんだ。
「しかし、あとはもう完全に心理的スイッチだよ。安全装置と表現したが、あれは十分ほどでまた感覚が切れるようにしてあったんだ。最悪でもその間をしのげば次の手を打てるようにな。それが、藤乃の体はこちらの用意した回路を焼き切って繋いでしまったようだ」
「じゃあ、どうして今はまた元に戻っているんですか?」
 今度は僕が尋ねた。
「だから、心理的スイッチさ。黒桐も腕をあんなにされておきながら痛まなかったんだろう? 刺激を受けたからと言って必ず知覚するわけではない」
 確かに、見るもおぞましい姿になっていたのに、何も感じなかった。
「逆もいえるがね、藤乃にしたって、今回はどこも悪くないのに痛んだのだろう? それこそ心が痛んだんだろうよ。切断した手足の先が痛むなんてこともあってな、無いから痛まないなんてこともないんだ。そんな具合で、今の藤乃の場合、肉体的な回路は全部繋がっているのに、心理的に遮断してしまっているんだ」
「繋ぐ方法は?」
「判らんよ、私は肉体が専門でね、心だ魂だと言うのは専門外だ。しかし、ショック療法は効くだろうかね」
「ショック療法?」
「ああ。何か、強烈な感情と感覚で満たしてやることだ。痛み以外にしておけ、そして具体的には自分たちで考えろ。私に出来ることはこれまでだ」
 そして、昨日は徹夜だったんだと言って、橙子さんは奥へ消えてしまった。

 出された宿題の答えが浮かばず、三人でしばらく沈黙していた。
「ちょっと、コーヒーでも飲もう」
 幹也がそう言ってキッチンに向かい、藤乃と二人残されて、対峙した。
 あのときの藤乃は前髪の房を片方切られていたけど、今は左右そろって胸元まで下がっている。愛らしい顔が不安に蔭っていた。
「藤乃、お前さ」
 沈黙が辛くなって来て、話し掛けた。
「幹也のこと、好きなんだな?」
 言ったものかどうか迷っていたのだけど、他に話題も浮かばなかった。
 藤乃は一度だけビクリとして、溜息を吐き、答えた。
「はい」
 臆せず私を見詰めている。
「はっきり言うなあ」
 瞳に浮かんでいるのは、羨望せんぼうよりは憧憬しょうけいだろうか。
「好きなのは、はっきりしてますから」
 気持ちの良い率直さだった。今度は私が溜息を吐く。
「何処が良いんだよ、あんなやつの」
 言いながら、顔がにやけてしまっている。
「ふふ、両儀さんが好きなのと同じところですよ、きっと」
 鮮やかな切り返しに言葉を詰まらせた。今度の沈黙は不快ではなかったけど、また私の方から破った。
「幹也め、とんでもない女たらしだな」
「あはは、両儀さんも毒牙に掛かった口ですか。ほんと、悪い人」
 藤乃の恋慕の素直さに、私は少し嫉妬しているようだった。
「でも、口惜くやしいな」
「ん?」
「だって、今の様子がすごく余裕ですもん、両儀さん」
 また私は口を閉ざす羽目になる。
「先輩のこと話すとき、いつも優しい顔をしてます。腹が立つぐらい」
 ちょっと傾げていた首を真っ直ぐにすると、不意に睨みつけてくる。
「まがれっ、なんて」
 私には到底出せない可愛らしい声で言うと、一人で笑っている。でもやっぱり、寂しそうだった。
 感傷を覚えている私も、随分少女らしくなったのか。だとしたら、あいつのせいだ。

 キッチンのドアが開いて、間があってから幹也が姿を見せる。左手だけでトレーを持っているのを見て、慌てて迎えに行った。平然とコーヒーを淹れに行ったから忘れてた、こいつ今片腕なんだ。
「何か、良いアイデアは出た?」
 左手でぎこちなくスプーンを使いながら、幹也が訊く。
「いや。幹也は悪い男だってことで藤乃と意見が一致したところだけどな」
「ええっ? なんか僕、悪いことした?」
 私と向き合って笑う藤乃が追い討ちを掛けている。
「そうやって本気で自覚が無いあたりが極悪ですよねぇ」
 幹也は本気で何が悪かったのかと悩み始めてしまった。
 不自由だろうに、文句も言わず片手で全部やっている様子を見ていて、思う。きっと幹也は、本当なら右腕を失うことだって平然と受け入れてしまうんだろうなって。それなのに今回義手を作ることにしたのは、私ではなく藤乃が原因だからだとか思ってみたりする。私に関わるものについては、身に刻んでくれたんだって。そして同時に、随分たくさん幹也には背負わせているなって、思った。ずっと抱えて歩いて貰うわけには行かないのに。
 だから、藤乃に少しの間だけ譲ってやる気になった。また余裕だと言われそうだけど、正直に言えば、考えるだけで妬いてしまう。
 正直に、と言うなら、ショック療法になりそうなほどの感覚の飽和ってものを、ひとつだけ思い付いてもいる。だけど、今の藤乃にそれをしてやれるのは他ならぬ幹也だけだろうから、教えてやらない。
 藤乃には悪いけど、やっぱりして欲しくはないんだ。
 ――それでも。機会だけは、与えてやろうと、無理に思った。藤乃のことを憐れんだわけだから、二人には絶対に秘密。
 どうせ私が言わなくても気付くだろう。なら、居合わせないということだけで、私も少しだけ肩を貸してやれる。
 私らしくもないとは思うけど、この変化は不快ではなかった。
「オレに出来るようなことは無さそうだしな、悪いが、帰る。いや、やることがあったんだ、三日ほど消えていると思う」
 立ち上がって、帰り支度をする。
「ちょっと、何処に行くの?」
 慌てた様子で幹也が引き止めるけど、顔を見ないで言い残す。
「良いだろ、どこでも。それより藤乃、オレは三日は絶対姿を見せないから。その間にどうにかしておけ」
 それだけ言って、私は立ち去った。

 残された僕と藤乃さん二人で、また長いこと黙り込んでいた。
 やがて、藤乃さんが意を決したように告げた。
「先輩。ショック療法とかっていうのとも別にして、お願いがあるんです」
 真摯な瞳に打たれて、僕は先を促がす。
「わたし、今回のことで、やっとあの事件のことに整理が付けられると思うんです。してしまったことはしてしまったこととして背負い、されたことはされたこととして、傷を癒せそうだと。本当に解決するには一生じゃ足りないかもしれませんけど」
「そうか。それは、良いね」
 僕は喜んだのに、何故か藤乃さんは目を伏せる。
「でも、あとひとつだけ整理しなきゃならないことがあります。それは、先輩のこと」
「僕のこと?」
 躊躇ためらい躊躇い、だけど最後にはもう一度決意したように言う。
「中学の総体で保健室に運んで貰ったときから先輩のことは好きだったし。今だって、好きなんです」
 びっくりして、返事できなかった。そしてさっき言われたことはこれだったのかなって思い至る。
「だから、お願いしたいんです。一度で良いですから」
 続けるのには、また勇気が必要だったらしい。
「抱いて下さいませんか?」
 ただでさえ衝撃の告白だったのに、その上を行くことを求められて、僕は本気で自失していた。
「駄目ですか? こんなに血塗られて、よごされた体ですけど」
 慌てて答える。
「藤乃さん、そんなことっ。いや、血塗られたとか何とかじゃなくてっ」
「そんなに魅力、無いですか?」
「そんなことはっ」
 ああ、僕は悪い男なのかも知れないけど、そう言うなら、藤乃さんだってしっかり女をやっている。間違いなく、藤乃さんは綺麗だ。僕だって男だから、こんな可愛い子に抱いて欲しいなんて言われたら、ちょっと蹌踉よろめきそうになる。
 一方では、馬鹿馬鹿しいドラマみたいだとか冷静に思いながらも、もう一方ではあたふたしていた。僕には式が居るんだとか、それこそ安っぽいドラマみたいなことを言いかけて踏み止まったりもしていた。
「やっぱり、両儀さんのことですか?」
 そしてそんなことは、女の子にはお見通し。
「うん。藤乃さん、綺麗で魅力的な女の子だと思うけど、」
 愚にもつかない言い訳めいたことを言いかけたけど、聞いてはくれない。
「この先、もう迷惑は掛けませんから」
 身を乗り出して真っ直ぐに見詰められて、どきどきさせられる。恐ろしいことに、いつの間にやら胸元が開いていて、結構ふくよかな胸の谷間が覗いている。
 藤乃さんは甘言を弄して畳み掛けて来る。
「大丈夫です。両儀さん、三日は絶対戻ってこないって。その間にどうにかしておけってっ!」
 言われて、式がそんなことを言って消えたのを思い出す。確かに、時々急にどこかに行ってしまうことはあるけど、滅多に予定なんて告げて行かない。
 式、あれはそういう意味なのか?
 いや、たとえそうだったとしても、本当にそんなことしたらどうなるかは考えるだけでも恐ろしい。
 ――なのに。これは無痛症の治療でもあるんだとか、そんな都合ばかり良い言葉に載せられてしまった。
 取って付けたように、式、御免なんて思いながら。

 とうとう、幹也さんが本当に覆い被さって来た。
「行くよ? 藤乃ちゃん」
「はい。来て、ください」
 わたしの手を一緒に添えさせて、ゆっくり、幹也さんがわたしの中に入ってくる。
「ほら、見て?」
 頭を持ち上げて、繋がったところを見せてくれる。
「嬉しい」
 わたしの我侭で両儀さんのことを裏切らせているわけだから、表情は見てしまわないようにする。
 ――これについて式と話すことは無いだろうから、墓場まで黙って持って行くよ。
 最後に幹也さんはそう言っていた。余計なものをひとつ抱えさせてしまったけど、素直に言えば、それはわたしには嬉しい。
 たっぷりとキスをして、それから幹也さんは動き始める。やっぱり優しくて、何にも感じないのに、犯された時の感覚とは違うと判る。
「気持ち良いですか?」
 また、自分で胸に手を当てながら、尋ねた。
「うん、ものすっごくっ」
 思い出して、体の奥に力を篭める。
「うはっ」
 途端に幹也さんは大きな声を出したから、緩める。
 でも、時々不意打ちして楽しんだ。
 体のぶつかる音とか、じゅぶじゅぶ言う音とか、そんなのが耳に心地いい。石鹸の残り香と、幹也さんの汗の匂いが鼻を擽る。
 何度目かの不意打ちをしたとき、幹也さんが言った。
「藤乃ちゃん、凄いから、そろそろ限度だよ」
「良いですよ。じゃあ、一緒にっ」
 実を言えば、本当に嬉しいことに、さっきから経験の無い奇妙な感覚に襲われていた。それに気を取られて、シーツの感触や圧力も感じているってことには気付いていなかった。
 正直言って、良く判らない。でも、きっとこれは、セックスの快感と言うものなんだろうって、思う。
「せんぱいっ」
「ふじの、ちゃんっ」
 体の奥をぎゅっと締める。先輩が意味の判らない呻きをあげ、わたしも同時に声を出していた。
 感覚が飽和して、真っ白になって、何も判らない。ただ、先輩の腕に抱かれているのが嬉しかった。

 ――その真っ白な闇の中で、幻視した。
 星ひとつない漆黒の空の下に、地平線まで続く純白の大地があって。
 そこに、誰か倒れていた。
 一度、夢で見た成人男性だと、良く見ないうちに理解した。
 体はうつ伏せなのに、頭部だけ正反対の真上を向いていて、それはつまり、首が捻じ切られている。
 顔を見た。
 父さんだった。

 礼園の門の前まで、車で送ってくれた。
 今は、橙子さんとシスターたちが話している。
 少し離れて、わたしは幹也さんに最後の挨拶をしている。
「幹也さん。もし、もう二度と会いたくないと言ったら、そうして下さいますか?」
 少しぐらい躊躇ってくれないかと期待したのに、即答された。
「うん。藤乃さんが、それを望むなら」
 ぽつり。左の頬に、一粒雫が落ちた。
「もし、また会いたいって言ったら、会って下さいますか?」
 今度も、即答だった。
「うん、そう望むのなら、ね」
 ぽつり、と、もう一粒頬に触れる。

 結局、一週間も学校を休んだ。
 どうせわたしが退学になることは無い。今までだって利用はしてきたけど、それでも優等生ではあろうとしていた。別に、馬鹿みたいにグレる気はないにしても、開き直ってやろうとは思う。父さんが色々言って来るのは目に見えてる。でも、あの人に拘束されるのも止めることにする。
 嘘みたいな話だけど、幹也さんに抱かれたことはショック療法になってしまったらしい。
 三日後にきっちり現れた両儀さんは、初めだけ酷く複雑な表情を見せた。でも、治ったのかって訊いて来ただけ。答えたら、良かったな笑ってくれた。あんな風に笑えるようになろうって目標にしたぐらい、華やかに優しく。

 シスターが呼んでいる。
「判りました。ゆっくり考えて決めます」
 そう、大きな切っ掛けにはなったけど、これから時間をかけてやらなきゃならない。
「だから、今はサヨナラもマタネも言いません。有り難うございました」
「うん、どちらにしても、元気でね」
 そんな、あたりまえの返事をくれた。
 立ち去りかけて、ひとつ言い忘れていたことを思い出す。
「ねえ、幹也さん。わたしの初めてはあげられませんでしたけど」
 いきなりこんなことを言われて、幹也さんはびっくりしてる。
「キスは、幹也さんが初めてだったんですよ」
 まどろっこしかったのか、キスはされなかったんだ。
 まだ幹也さんはきょとんとしているから、首に腕を回して少し背伸びする。
 ――ほっぺたで我慢しておいた。
 照れくさいから、急いで歩き出す。
 門の前で、一度だけ振り向いて、手を振った。
「幹也さんもお元気でっ!」
 雨が降り始めているから、少し足を速めた。

 なつかしいなつのあめにも、もう、うたれるつもりはない。

 

疼愛痛心(Love is the pain, but not the bane.)・了

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