「ああ……遠野くん……」
腕で身を抱いて、胸を押さえて、弓塚さつきが突っ伏している。
「さつき?」
そんな姿を見つけたシオンは、胸を掻き毟るさつきに、自分の腕に爪を立てさせてやる。
「シオン……」
この衝動は、ただ単純に他人が欲しいという感情。今それが強くなるのも仕方の無いことだった。
「覚悟はしてたつもりだったけど、やっぱりね。とうとう遠野君が遠くの人に……って思ったら」
「いけませんよ、さつき。いつまでも、そんなことを言っていては」
「そうだけど、ね……」
何かと遠野くんを困らせてきちゃったな、とさつきは思う。それなのに、志貴が迷惑顔を見せたことは無い。思い出すと、余計に寂しくなる。
「私たちがしっかりしていないと……困ってしまうでしょう」
さつきをシオンがたしなめるのはいつもの構図だが、今日は歯切れが悪い。
「こうなっちゃった今でも、困るのかな? 遠野くん」
そう口にしながら、困るんだろうな、とは思う。
「もし志貴が知っていたら、困るでしょうね」
どちらも、志貴のことには詳しかった。
これまでなら、困らせるのも楽しみのうちだったかも知れない。事実、たっぷり困らせてやろうと二人で共謀したりだってしてきた。
いつの間にか、シオンも爪を相手の腕に立てている。
「でも、シオンも……無理しないでね?」
「それはっ……」
他の大抵のことなら、何かと意地を張って認めない。しかし、今回ばかりは違っていた。理で抑えられるようなことではなかったのだ。
「……とっくの昔に予測できていたことですが、いざとなると」
「うん。シオンほど頭が良くなくっても判っちゃってたし、ね」
「幾ら予測が出来ても、打つ手が無いのでは無意味ですね」
さつきは、眼を瞑ったシオンの首を抱いてやる。流してしまうかも知れない涙を見せたくはなかったし、シオンもそれは同じだろうと。いつからか、こんな風に慰めあい、励ましあって来た。
幾ら覚悟したところで、心を凍結できるわけでもなかったから。
――――秋。
夜になって現れた志貴に外出を誘われ、何処に行くの? と上機嫌だったアルクェイドが連れ出されたのは、街外れの草原だった。
「ここって、何かあるの?」
不思議そうに尋ねる恋人に、志貴はためらいながらも答える。
「いや、何も無いよ」
「えー?」
途端にがっかりした表情で怒りさえ露わにするから、志貴は急いで言い足す。
「何も無いだけ、月を見るには抜群だろうって思ったんだ。月見に行こうって言っただろ?」
「あ、そうだっけ」
「いきなり忘れるなよ」
呆れられて、アルクェイドも大人しくなる。志貴主導の夜のデートが嬉しくて、まともに聞いちゃいなかったのは確かだった。
「それで、月を見るって何?」
「今日は中秋の名月ってやつで、月見をする晩なんだよ」
「月って、あの月よね?」
アルクェイドが天を指差す。暗い空に青白く、また銀色めいて、真円の天体が浮かんでいた。薄い層の雲が光を受けて、幾重も吊るされた天蓋を思わせる。
上下の感覚がおかしくなる。水晶のごとく澄んだ水の底に光が沈んでいて、それを見下ろしている気がした。
足を滑らせて空に落ちそうで、志貴は草原に腰を下ろす。
「それで……月に、何を見れば良いの?」
「何をって?」
「だって、月に何か見えるんでしょ?」
「そのことか。兎が餅をついているとか、蟹だとか女の人だとか色々言うけど」
「あー、やっぱりウサギなんだ」
志貴に並んで腰を下ろし、アルクェイドは熱心に月を見始める。黙り込んだその横顔に、志貴もまた言葉を無くした。
いつか見た光景に思えて、記憶を探ろうとした。
アルクェイドの顔なら、幾らでも見ている。こんな横顔も、月を見上げる姿さえも、何度と無く見ている。それなのに、無性に特別に思えた。
アルクェイドが月を見つめる以上に、志貴は横顔を眺め続けた。改めて、己の恋人を愛しいと、美しいと思った。初めて恋したように、一目惚れの瞬間のように、心を奪われた。
思い出す。
深い山の中の古城と、そこに囚われていた少女の姿。枯れ果てた庭園で言葉も無く、黄金の月を見上げるばかりの白い少女。
そして志貴は思い出す。この記憶は自分のものではない。最後まで、己の感情が憎悪などではないと気付くことの出来なかった男の記憶だった。志貴の愛する女に、かつて生涯に一度の恋をした吸血鬼の。
たとえ、死徒や真祖の社会に殺戮と害毒を撒き散らしたモノであれ、それは志貴の実感と理解の他にある。かつて志貴自身が命と存在とを争いあった相手であれ、過ぎ去った今となっては憎むことも無かった。
それどころか、アルクェイドを狂わせて志貴と出会う遥かな因果を作ったこと、それだけを思えば感謝さえ出来るかもしれない。聖人のように全て赦すことまでは出来ずとも、美化された思い出ぐらいにはしてやれるだろう。アルクェイドをほとんど死なせたことだって、志貴も出会いの瞬間に同じことをしてしまっているのだ。
――――言ったでしょ? わたしの責任、ちゃんととってもらうからって。
初めに求められた責任は、半ば以上に脅迫で取る約束をさせられた。
その後に改めて求められた責任は、この先ずっとかかって果たさなきゃならない。いや、その責任なら、心から望んで叶えるつもりだった。
「ねえ、志貴?」
不意に顔を向けられて、志貴はアルクェイドと目を合わせることになる。
「あれ、月を見てなかったの?」
アルクェイドの顔ばかり見ていたとも言えず取り繕い、面映い思いをしながら話を続けさせる。
「幾ら見ても、兎がお餅搗いてなんかいないし、蟹も見つからないし、女の人なんて居そうに無いよ?」
半ば不思議そうで、半ば咎めるようだった。
「そうは見えないか。正直、俺もあんまり判らない」
「じゃあ誰が兎とか蟹とか見たの?」
「昔の人、かな。世界中で他にも色々いうらしいけど」
志貴は、今やっと月の模様を何かに見立てようとしてみた。しかし、星座だって、どうにも名付けられているようには見て取れないし、昔の人はずいぶん想像力があったもんだと感心するだけ。
「昔は居たんだ? そんな痕跡も見つからなかったけどなあ」
「いや、昔は居たと言うか、今も変わらないはずだけど」
痕跡、に引っかかりを覚えながらも返事する。
「でも、どう見ても居ないよ? 石ころとかばっかりで、なーんにも」
「石ころって……いや、アルクェイド?」
「うん、なんか変な機械はあるけど。だいたい、月には生命は居ない言われてなかった?」
アルクェイド言っていることを理解するのに、数呼吸を要した。人間の基準では計り知れないってことにも慣れているつもりだったが、あまりに規格外だ。それから、理解の内容を受け入れるのに更に数呼吸。
「志貴?」
きょとんとした様子のアルクェイドに、どう話したものかと迷う。幸い、ここまで突拍子も無いと逆に冷静になってしまうらしい。
「いや、アルクェイド、月面に本当に兎や蟹が住んでいるとかじゃなくてだな……」
そういう意味ならちゃんと言ってよ、と文句を付けられながらも、ようやく会話が通じた。
「それで月とウサギが関係するのね。ウサギ、ウサギ、何見て跳ねる……って」
「そういうこと。しかし、そんな歌も知ってたんだな」
「うん」
最近のアルクェイドは、音楽を聴いたりもしている。映画を面白がり、本を読んだりしているのを知って、それなら音楽もどうかと志貴が薦めたのだ。
「何か、気に入った歌はあった?」
「んーっと……」
いきなり、歌い始める。
真っ赤なお日様、静かに沈めば
狼と吸血鬼と魔法使い
蒼い蒼い満月のてっぺん
ワインとダンスで夜を明かす
わっはっは、おっほっほ、うっふっふ
酔って踊って大騒ぎ
風と雷、暴れた後には
狼と吸血鬼と魔法使い
暗い暗い星空のすみっこ
珈琲と芝居で夜を明かす
おいおい、えんえん、くすんくすん
怒って泣いて、また嵐
「……何の歌だ? それ」
声は綺麗だし、音程は初めて歌ったときから吃驚するぐらいに正確だった。だけど、アルクェイドの歌は、いつも何か大事なものが足りない気がする。
「うーん、別に何の歌ってこともないと思うけど。一月ぐらい毎日、面白い映像と一緒にテレビで流れてて覚えた」
何となく、察しは付いた。
「ほら、じゃあ今度は志貴が何か歌ってよ?」
「いや、俺は良いって」
「良くない、人には歌わせておいて。何でも良いから」
「歌わせちゃ居ないだろ。でもまあ、何でも良いって……そうだなあ」
何せ現在、テレビも無い屋敷に暮らしているのだ。歌のインプットが圧倒的に不足していた。仕方なく、昔覚えた歌を思い出して、どうにかやってみる。
イメージしたより長くて、やっと終わったと思ったら、すぐに迫られた。
「もう一回歌って?」
「何でまた?」
「だって、志貴が好きな歌だったら覚えて一緒に歌いたい」
うわ、と志貴は緊張と共に照れる。嬉しいものの、酷くこっ恥ずかしい。
「ねー、早く?」
「判った、急かすな。いや、歌、別のにしても良いか?」
「さっきのじゃ駄目なの?」
「駄目ってことはないが、一緒に歌うって言うならもっと良さそうなのが」
実のところは、まだしもデュエットが恥ずかしくない歌に変えたかったのだ。
「ギターでも弾ければ様にもなるんだろうけどなあ」
それでアルクェイドに歌って貰うのは、ちょっと良いかもしれない。
しかし今夜はやむなく、再びアカペラ。
数度も繰り返す打ちにアルクェイドも覚えてしまった。英語の発音は全然駄目に決まってるけど、それはまた今度CDでも渡して覚え直して貰うことにする。
「ああ、悪い、そこ俺がさっき音を外したな」
アルクェイドに正確にミスを再現され、訂正したりする。
傍に居て欲しい
傍に居て欲しい
訳せば、意味はこの上なくストレートだけど、日本語でないだけ、まだ照れずに一緒に歌えたのだ。まぎれも無く本心でもあったし。
灯りの無い夜の草原、二人を照らすものは空の月だけ。
君が居てくれれば
傍に居てくれれば
声を合わせながら、志貴は気付く。
初めて、アルクェイドの歌声に、ずっと足りなかった何かが宿っていた。
/Stand By Me, Daring
©Syunsuke