差し指、くわえて


 私用で外出するなど、礼園女学院の生徒には本来考えられない。しかし、鮮花には珍しくは無い。届けを出すたびにシスター達は渋い顔をしていたものだが、あちらも、もう慣れてしまったようだ。学園トップの成績を揺ぎ無く維持しているのも助けにはなっていよう。
 学園を出て、ショッピングモールの類に出向くこともあるにせよ、遊び歩いているのではない。魔術の師であり兄の雇用主でもある橙子の元か、そうでなければ兄のアパート。多くはそのどちらかだ。
 今日訪れたのは、幹也の家の方だった。女子高生がたまの外出に嬉々として兄に会いに行くとだけ聞けば微笑ましいような話だが、その兄に男と女としての愛情を抱いている鮮花としては、もう少し違った意味がある。
 だから、呼び鈴に答えたのが幹也ではなくその想い人たる式だったのは、容易に看過できることではなかった。それで、いきなり険のある調子になる。
「幹也はどうしたのよ?」
「見ての通り、出掛けてるよ」
 判りきったことを訊くな、とばかりの態度が余計に鮮花の癇に障る。腹立ちをぶつけようとして、しかし、はぐらかされた。
「まあ、上がれ」
 そう言う式の表情が、意外なほど穏やかだったから。
 通された居間のソファに腰を下ろし、鮮花は、式が来たら改めて幹也の行き先について問い詰めようと待ち構えた。
 そこへ現れた式は、お盆を手にしていた。湯飲みや急須と、小さな包みが載せられている。
「変に愛想が良いわね」
 相変わらず、鮮花にとっての式は憎らしい相手なのに、式は鮮花を嫌ってなどいない。むしろ、多いとは言えない、自分から友好的に接することもある人間の一人だった。お陰で、しばしば鮮花は調子を狂わされている。現に今も、出鼻をくじかれた。
「客に茶も出さないほど礼儀知らずじゃないってだけだ」
 その通りだとは思うのに、何か引っかかる。
 着物の袖を反対の手でさばきながら注がれたのは、薫り高い緑茶だった。鮮花の好みは紅茶で、一瞬、腹癒せに淹れ直させてやろうかと思わないでもなかった。しかし、礼儀と口に出された矢先のそんな要求は、思い止まる。
 それに、式は何でも和風好みで淹れさせて美味しいのはやっぱり緑茶だし、お茶請けだろう包みも和菓子のようだ。
 解かれていく品の良い包装が、鮮花の記憶に引っ掛かっていた。目立つ屋号も入っていないが、デパートに店を出したりしない、下手すれば一見さんお断りとか言いそうな老舗の和菓子屋だ。ならば、式が持って来たものに違いない。
 兄の口に入るはずだったものを取ってしまうのだから、多少ためらわれはする。しかし、餌付けされてるみたいだとか思わないでもないが、美味しいものはちゃんと味わうべきだ言い訳する。幹也のために式が持ってきたのを横から食べてしまうということに、屈折した喜びを覚えなくもなかった。
「いただきます」
 橙と白の練切で餡を筒状にくるんだ格好のもの一つ、もう一つの淡紫の花は菊。洋菓子ならまだしも、これは学園に居て口に出来るものではなく、程の良い甘さが舌を蕩かす。
 正面で同じように式が楊枝を使う。物騒な人間で男言葉で大雑把なくせに、こんな時の仕草は常々上品だった。その上に最近じゃ、しっかり女の真似事をしている。
「口紅……」
 湯飲みに付けた唇が紅くて、ルージュを差しているのが判ったのだ。
「ん、何処か付いたか?」
 いや、つまらない意地を張らずに言えば、鮮花の眼にも今の式は存分に女らしい。美青年めいているのも確かだが、楊枝を持つ手にしたって妙に艶めかしい。
 そんなことに一々ささくれ立つ感情も、漉し餡の甘みとお茶の香りに和んでしまう。それで、茶道だったら頂いた後には何て言えば良いんだったかとか考えた拍子に、自分が客として遇されているのを理解する。
 だから、さっきの引っかかりの正体が見つかった。
「式、なんでまたこの部屋の主みたいにわたしにお茶出したりしてるわけ?」
 それを礼儀などと称しているのが変だったのだ。
「これ、いま包装解いたってことは、あんたもまだ幹也に会ってないんでしょう?」
 気が付いて、すぐに畳み掛ける。
「そうだよ。だから、見ての通り居ないって言ったんだ。何処に行ってるのかはオレも知らないから、訊いても無駄だぞ」
 そう告げる式の顔には、いらつきが軽く表れていた。
 なんだ、式もあて外れだったのか、と鮮花は後ろ向きな可笑しさを覚えた。しかし、すぐに大事なことに思い当たる。
「って、あんたが来た時から幹也は居なかったわけよね? だったら、どうやって上がりこんでたのよ? 幹也、鍵掛けずに家空けたりはしないでしょう?」
「どうやってって……。ああ、この部屋の鍵なら持ってるぞ、オレ」
「ええっ?」
 式がここの合鍵を? そんなこと、いつの間に。
 幹也が自分から渡すだろうかと考え、それは無いと結論する。つまり、
「寄越せとか言ったわけ? あんた」
「そうだよ。言ったら、あっさりくれたんだ。鮮花だって、要求したら案外貰えるんじゃないか?」
「案外、ってのは何よ?」
 貰えなかったらショックだと恐れつつ、口先ではやり返しておいて、考えをめぐらせた。合鍵が欲しいと幹也に告げたら、どんな反応が来るのかと。
 そして少し狼狽えた。
 本当に、貰えたら、嬉しいんだろうか?
 式にはあげられる合鍵を渡せないと言うなら、それは確かに無念だ。でも、もし貰えたら、余計に絶望的な気がする。恋人である式に合鍵を渡した幹也が自分にもくれるとすれば、それは、まるっきり家族として、妹として預けていることにはならないのか。
「ほら、何も押し入ったわけじゃないぞ」
 目を向ければ、式は二つ繋がった鍵を手にしている。つまり、この部屋と、式の家の鍵だ。そして、幹也のポケットにも同じものが入っているのだろう。
 鮮花は、改めて幹也に鍵を求めてみたときの反応を思い浮かべてみる。
 何故? と不思議そうにして、それから……。
『今日は式が居たから良かったけど、困ることも有りそうだね』
 なんて言って、何の疑問もなく渡されてしまう。
 そんな、自分が妹に過ぎないってことを残酷に告げる光景しかイメージできなかった。これでは、欲しいと言えない。
「女の方から合鍵を要求するなんて、そんな恥知らずなことはしません」
 強がりを隠しながら、式の指先にぶら下がる二つの鍵を睨みつける。
「知らないうちに他人の部屋の合鍵を持っていた男なんだ、寄越せって言うべきだと思うぞ」
 そんな事情までは知らない鮮花だが、式の手が気に掛かって、相変わらず凝視していた。血塗られているくせに繊細で、これまた以前よりずっと女らしくなっている気がする。鮮花にしても充分に整って綺麗な手をしているのだが、どちらかと言えば少女らしいものであり、婀娜を薫らせてはいない。
 何が違うのかと式の手に注意を戻した鮮花は、やっと、その指先を染める色に眼を留めた。
「式、手っ!」
「ん?」
 手を見せて、と再度要求し、鍵を仕舞って差し出された式の手を掴む。掌を見せていたから、ひっくり返して爪に眼をやる。まぎれもなくマニキュアだ。すぐには気付かなかったぐらいで、淡い色。オレンジとピンクと、わずかなグリーンとが曖昧なマーブルを描いている。艶やかで、とても丹念に塗られて見えた。
「なに色気づいているのよ、人殺しのくせに」
 そんなのずるい、というのが鮮花の心象。
 鮮花も認めるところだが、式は、美人だ。
 何も、幹也が式の美貌に惹かれたんじゃないことぐらい、鮮花も良く承知している。しかし、恋人が綺麗だと嬉しいのは幹也だって世の男達と違わないだろう。マニキュア一つで女が急に美しくなったりはしないが、恋人のために爪を染めるような心情ってものは、確かに女を魅力的にする。
「幹也に言えよ、あいつが女らしくしろってうるさいんだから。幹也には、男女同権とかジェンダーフリーとかってやつと、男らしい女らしいってのとは両立するらしくてな」
 その意見には鮮花も賛成だが、今はそれどころじゃない。
「幹也、こんなことまでしろって言ったの?」
 ネイルのエナメルまで求めるのは、鮮花には、あまり幹也らしくなく思えた。
「いや、口にしてたのは『化粧ぐらいした方が良いよ』とかだけ。でも、この前突然買ってきて、有無を言わせず」
「ふーん……」
 つまり、これはプレゼントされたってこと。
 正直に吐露すれば、羨ましい。
 式は、口紅こそ差しているが、それ以外に化粧っ気は無い。それでも道行く人を振り返らせるに充分な姿をしている。その式が今、何かおかしな悪戯っぽい笑いを浮かべている。
 いらいらして、鮮花は絡まずにいられない。
「それで、可愛い女の式としては、喜んでやってるわけ?」
「いや、『有無を言わせず』って言っただろ? 塗ったのは幹也だよ」
「塗って貰ったのっ?」
 つまらない悋気だし、ここで調子を激しくしたのでは余計に式に優越感を与えるだけ。そう判っても、鮮花は抑えが効かなかった。
「うん。よくあんな面倒くさいことするよな、お陰で乾くまで何もできなかったし」
「ふん……」
 文句を言っているようで、しっかり惚気ているとしか聞こえなかった。
 あまり器用だとは聞かない幹也が、手ずから式のために。自分がして貰うことを想像して、みだりに甘美で、慌てて頬を引き締めた。
 かぶりを振って平静を取り戻していると、式はハンドバッグの中を探っている。小袋を取り出した式は、こんなことを言い放った。
「何だったら、使うか?」
 小袋の中身は、くだんのネイルエナメル。
「あんたね……」
 言葉を呑み込む。
 いったい、想い人が恋敵に贈ったものを、どんな顔して使えというのか。
 式が知らないうちに、こっそり使ってやるとかだったら、判らないでもない。それは自分らしくないやり口だとは思うが、心情としては鮮花にも理解できる。本人が嫌がっているのに無理矢理、とかも。しかし、恋敵本人に許された上でなんて、何を考えているんだか。
 それでも、人を馬鹿にしているとは決まったものじゃないと、鮮花は気付く。式の口調に嫌みは無かった。少なくとも最近、鮮花の前では感情を素直に出しているようだし、人をなぶるつもりなら、その意図が判るようにしなければ無意味だ。
 なら、申し出は好意とさえ言えるのかも知れない。でも、そうするとまた、別のことに腹が立つ。
 恋人からの贈り物を、他意無く他の女に使わせてやれる式の神経に。
 何考えてるのよバカ式、と、さっき呑み込んだ言葉がまた口に出そうになる。
 あれもこれも腹は立つのだが、わけなく怒っていると思われても嫌だし、だからってこんなこと説明するのも業腹だ。
「……要りません。あんた、礼園の雰囲気は体験したでしょ、もう忘れた? あれで、マニキュアなんて許されると思うの?」
 だから、鮮花は話の向きを変えた。
「そりゃ、大変だな……」
 含み無く同情する様子で、だけど、何かしら口を噤んでいる気配が鮮花には気に障る。鮮花が見るに、式は隠し事の上手い人間ではない。現に今も、何か隠しているって事実を隠せないでいる。
「何よ、言いたいことでもあるの?」
「何も、言いたいことなんて無いぞ」
 そのまま黙って二人、束の間にらみ合い。険しい目つきの鮮花を相手に、にらめっこに負けたみたいに式が笑った。
「……何よ」
「いや、鮮花の学校のこと、やっぱりそんなに詳しくは知らないけどな。足の爪まで検査されるか?」
「足の爪?」
 鸚鵡返しに答えて、鮮花は意味を理解した。
「式、幹也にペディキュアまでしてもらったの?」
 返事無しに、式は華やかに破顔しただけ。だから、答えはイエスに違いなかった。
 あの変態め、何をしてるのよ。
 最初に鮮花が思ったのは、己の想い人を貶すそんなこと。恋人の足の爪に色を差してやるのを変態呼ばわりはちょっと行き過ぎだろうが、幹也も、やることがあんまりだと。
 式の素足に幹也が手を添えて、その爪に一つずつ色を載せていく。どうしたって、しどけない体勢にならざるを得まい。実行した式を前に己の初心を思い知らされるようだが、知らず頬が熱くなっていて、鮮花はそこで思考をストップする。どうも想像力過剰でいけない。
 さっきから式が隠したがってたのってこのことかと、鮮花は納得した。
「素行は大方が良いんだろうし、一々そこまで調べないんじゃないのか?」
「そうよ、誰もそんなこと考えもしないでしょうしね。手の爪にしたって別に定期検査とかある訳じゃないし」
 そもそも、ネイルアートを禁止する規則がわざわざ定められているかどうか。
 しかし、していたら一発で呼び出しを喰らうことは想像に難くない。それはペディキュアでも同じだろうけど、露見する機会はありそうにない。
「じゃあ、足になら着けても良いんじゃないか?」
 言われて、鮮花は戸惑う。
 やっぱりこれも、無神経な親切なのかな? 無意識の上にもノロケが微塵も無いとは認めないとしても。
 ……だからって。
 学校の規則の話など、鮮花には些末事だ。元々、やっかみを隠すために持ち出したのだから。ややこしいが、式が貰ったマニキュアを自分が使うなんてのは幾重にも不愉快なのだ。
「何なら、塗ってやろうか?」
「えっ?」
 余計に、式の考えが判らなくなる。
 恋人からのプレゼントを他人に使ってやるなんて、自分だったらできるだろうか。
 式の顔を見ながらだったから、初め鮮花は絶対嫌だと思った。しかし、相手が式でなければ、あり得なくはないと思い直す。幸福のお裾分けか押し売りか、一度だけよ、なんて言いながら親友の爪に色を載せてやることならあるかも知れない。勝手に使われたら怒るだろうが、そういうことならあり得る。
 式が自分を嫌っていないのなら、おかしくはないのか。
 しかし、鮮花が想像したのは、あくまで手の指に塗ってやるところだった。ペディキュアとなると、カップルでやるならイチャイチャのうちでも、それ以外だともっと抵抗がありそうなもの。屈辱的でさえありそうなのに。式を鮮花が嫌っていることぐらいは式自身、百も承知のはず。
「嫌なら、やらないけど」
 まだ不審に思っていたが、返事を促された鮮花は自然にイエスの返事をしていた。
 式が何を考えているのかは掴めない。でも、してくれるというならやらせればいい。塗らせるのだと解せば良い。それなら、少なくとも昏い悦びはありそうだ。
 返事の後で、そんな風に結論づけた。
「じゃ、良いよ」
 式が壜の一つを手にして、振る。
 靴下を脱ごうとした鮮花は不意に恥ずかしくなる。
「ちょっと、お風呂場……」
 足について何の健康衛生上の問題も抱えちゃいないが、靴履いて歩いてきたままで他人の目の前に突き出すのは抵抗がある。
 妙なことになったなと思いながらバスルームに着き、ソックスと、濡れそうだからスカートも脱いで、戸を開けて足を踏み入れた。
 女性用のシャンプーやボディソープが当然のように置かれていたから、知らず、鮮花は歯噛みする。
 合鍵持ってるとか、そんな程度の話じゃない。
 小さな復讐がてら、鮮花は洗顔フォームで足を洗ってやった。
 やってることの小物っぷりを自嘲しながら、しっかり女物を揃えている式が微笑ましくなる。なんだか楽しくなっていることに自分で納得が行かず、また機嫌を斜めにする。
 鮮花は足を拭き、スカートだけ穿き直し、スリッパにタオルを敷いて居間に戻る。促されるまま、ソファの端に座って反対側の式に向かって脚を伸ばす。スリッパのタオルを腿に広げた式に、足を預けた。少し膝が浮いてスカートが捲くれそうだから、手で押さえる。
「別に、見ないぞ、誰も」
 可笑しそうに、ガラス壜のキャップを取りながら式が言う。
「誰も見ていなくても慎みというものは有ります、ガサツな貴女と違って」
 鮮花はせいぜい棘を含んだつもりだったが、刺さらなかったのか、刺さったけど面の皮が厚すぎて貫通しなかったのか、黙って式はベースコートから作業を始める。いつも幹也が塗っているわけでもないのだろう、不安の無い手付きだった。
 結局やらせているって感覚ではなく、して貰うのを鮮花は楽しんでいる。やっぱり自分の感情に納得が行かず、裏切られたみたいで拗ねる気分。
 それで黙り込んだら、手を休めないまま式から話しはじめる。
「おまえ、慎みはあっても、顔洗うもので足洗ったりしない常識は無いのか?」
「……あんたの顔ぐらいには繊細なのよ、わたしの足は」
 ばれたのは香りのせいかな、と羞恥を覚えつつ、やっぱり憎まれ口。
「鮮花も、もうちょっと大人しくした方が良いぞ……特に幹也の前だと」
「大人しく?」
「大人しくと言うか、そうだな、武装は解いた方が良い」
 余計に変な言い方になっているが、意味は通じた。幹也の前じゃ、いつも鮮花は鎧を着ている。頼りないところを見せたら小さな妹扱いを助長しそうで、幹也が居ると普段以上に完璧であろうとしてしまう。対抗心で式につっかかりがちだから、いっつも剣を抜いている。
「幹也のこと、口開けば何か批判しているだろ? 鮮花」
 そうかも知れない。下手すれば、抜いた剣を式以上に幹也に突き付けていた。
 こんなことを式がわざわざ言ってくる理由を考えて、想像が付く。
「……あんたも、幹也には色々言われてるの?」
 片足を小指まで塗り終えて、式が返事する。
「相変わらずオレの喋り方は、どうかしたいらしいな」
 次は、反対側の足の親指の爪。よどみない動作で進んでいくのを見ながら、突付けそうなところを見つけて喜んで突く。姿形はともかく、もうずっと、式は男みたいに喋っているのだ。
「男言葉やめろって? 式、いまさらそんなこと無理なんでしょ」
「あら、簡単よ? いつもの話し方の方が、意識して作ってるんだもの」
 え? と鮮花は顔を上げた。
 何が起こったのかと、きょとんとしてしまう。
「だから、普通に話せばこんな感じね」
 当然だが、喋っているのは他ならぬ式だ。
「でも幹也くん、わたしがこうやって喋ると凄く挙動不審になるのよ、自分が求めたくせに。酷いと思わない?」
 眼を合わせて続けられ、鮮花は息を呑んだ。わざとらしく媚びた色なんかは無いが、普段に比べれば高い声。これが地声で、いつもは下げているのか。
「あれ、鮮花までそうなの? やっぱり兄妹ね」
「いや、その……式?」
 兄妹、という強調も気に留めるどころじゃなかった。
「なに?」
 ぎりぎり『なあに?』にはならないぐらいの発声。
 これは――――やばい。
 ガサツな貴女などとさっきは言ったが、本来、式はとても行儀が良い。和服姿で黒真珠みたいな髪と白い肌、今は紅まで入った唇、まるで美人画。この女を中性的とか男っぽいとか思わせるものは、多分に言葉遣いじゃないのか。
 その式が容姿に見合った調子で話すと、光背の輝くばかりに女が薫った。まぶしくさえ思いつつ見れば、つきづきしく小首を傾げている。鮮花が言葉を失くしていると、くすりと笑って俯き、甲斐甲斐しい仕草でペディキュアを再開する。
 ……だめだ。なんだったんだ、今のは。
 鮮花の頭の中で、今の式の声が繰り返し再生される。
 めろめろになっている幹也が思わず鮮花の眼に浮かぶ。いや、違うと気付いた。挙動不審と言う式の表現の方がしっくり来る。鮮花でさえ、どうして良いものやらと困ってしまったのだから。
「式?」
「……どうした?」
 一瞬の間は、どちらで喋ろうか迷ったのだろう。
 澄まして答えた式だったが、笑いは堪えられなかったようだ。
「器用ね、あんた」
 呆れたように、鮮花も笑ってしまう。笑うしかなかった。
 こちらの足も小指まで終え、ふっと息を掛けて、式は顔を上げた。
「最近じゃ、あれが一番効く攻撃だな、幹也には。鮮花も、もうちょっと柔らかい喋り方してやったら面白いんじゃないか?」
「面白いってねえ」
 そんな言い方もないだろうと思うが、少し考え直したこともある。幹也には、女として意識させなきゃならないのだ。妹って認識を忘れさせるだけじゃ、足りない。
「……幹也、式があんな具合に話すと嬉しそう?」
「そうね、まだ慣れなくて長時間は耐えられないみたいだけど。高校の時はずっとこうだったはずなのにね」
 ずるい、と鮮花はまた思った。
 この、背筋がぞくぞくするから止めて欲しいのに妙に快い感覚は、一体なんなのだろう。これって、まるで……。
 いやらしい想像を、止める。
「……わたしが使っても効くのかな、それ」
「幹也くんに? そうね、わたしだと、何か言い掛けてても腰砕けになるわ。だから、あまり幹也くんが慣れてしまわないように、たまにしかやらないんだけど」
 そんなに策士だったのか、と鮮花はその点にも意識を改めた。
「鮮花でも、ドキッとはすると思うよ?」
 こうも自然に口に出来るだろうかって自問しながらも、やってやろうと鮮花は決めた。
 やがて乾いたベースコートの上に、今度はカラーを入れていく。足に触れられて、一瞬びくりとしながらも、気分は和らいでいる。穏やかになった空気の中、他愛も無い話が花咲いた。
 二度にわたって色を載せ、乾くのを待ってトップコート。それも終わったころ、ようやく部屋の主が帰宅する。
「ただいま……ああ、あの靴は鮮花か。電話ぐらいくれれば良かったのに」
 ソファに二人が座っているのを見て、幹也が告げる。挨拶を返す鮮花はまだ足を式の腿に置いていて、面映くて引っ込めようとするのに、何気なく式が押さえている。捲くれていたスカートを慌てて直す。
「って、何してるの?」
 二人のおかしな体勢に幹也が問うと、間を空けず式が答えてしまう。テーブルに並んだ小壜を指差して。
「鮮花が塗って欲しいって言うからさ」
 あ……。
 式の言葉で、鮮花は、大変なことに気付く。
「へえ、今日は仲が良いんだね?」
 あーっ! なんて叫びそうなのを、やっと殺した。
「って、ごめん、ちょっと先にトイレに……」
 立ち去る幹也の言葉は、呆然とする鮮花にはまともに届いていない。
 幹也に。
 幹也にっ。
 幹也に、塗って貰えば良かったんだっ!
 嘆きながら、式が体を揺らして笑っているのが目に入った。
 やられた。
「式、あんたっ……」
 怒髪天。判っててやったんでしょ、と詰め寄る。
 謀られた。何だかんだで楽しかったけど、やっぱりどうせなら幹也に塗ってもらいたかった。幹也にこんなことって考えただけで赤面したけど、して欲しかった。
 こんなに策士だったのかって、ついさっきの認識を繰り返す。手を握ったり開いたり、怒りに任せて辺り構わず火を放ちそうになる。どうやって殺してやろうかって、本気で考えた。きっと瘴気ぐらい盛大に発している。
 しかし、
「わたしだってね? 鮮花」
 女らしい式の声に、毒気を抜かれた。確かにこの攻撃、効果覿面。
「幹也くんに貰ったマニキュア、鮮花のために幹也くんに使われるなんての、嫌よ?」
 あ、と。
 そのまま鮮花は、黙り込んだ。
 つまり、式だって、嫉妬しないわけじゃないということ。鮮花を脅威になんて思っていなくても、ヤキモチってのは出てくるのだ。その発見を、鮮花は嬉しく思った。まだまだ余裕なんだろうが、単純に見下ろして馬鹿にされていたばかりではないと判って。
 こんな小さなことでも、素直に喜んでおく。
 幹也に塗ってもらう機会を奪われたことは腹立たしい。でも、式がそれを画策したのは、鮮花の腹立ちと根っこの理由は同じなのだ。
「えっと、もう終わったの?」
 ちょうど幹也が戻って来ていた。
「はい」
 兄さんがもう少し早く帰宅して下さっていれば、と続けかけて、やめた。八つ当たりが過ぎるから。
 無遠慮に幹也が鮮花の足を覗き込み、怪訝そうにして、テーブルの壜を確かめる。そして、妙なことを言った。
「式のを使ったんだ?」
 何を当然のこと? と今度は鮮花が怪訝顔。
 しかし幹也は、式の方を見ている。
「当たり前だろ」
 式の返事も、鮮花の不審に賛同する様子。式のでなければ、誰のだというのだ。まさか、幹也の持ち物ではあるまい。
「オレが渡すわけには行かないんだし」
 渡す?
 束の間、三人見合って沈黙。幹也と式とは目線で通じているみたいで、鮮花は気にくわない。
 だんまりを、火花から火事にならないうちに破ったのは結局、幹也。
「そうだね。鮮花、ちょっと待ってて」
 隣の部屋に消え、戻ってきた幹也は、小さな袋を手にしていた。鮮花には見覚えがあり、すぐに、テーブルの上の袋の色違いと知る。
 え……?
「あげても学校のことで使えないと思ったんだけど、無色で目立たないってのを教えて貰ったから」
 幹也の手から、鮮花の手へと小袋が渡った。
 開いて中を見るだけのことに息せき切って、式のと同じブランドのネイルエナメルのボトルを確かめた。
 鮮花は、呼吸を忘れた。
「……わたしに?」
「うん。気に入ってくれたら嬉しいんだけど」
 酷く自信なさげに幹也が答えた。
「はい、ありがとうっ」
 無闇に元気良く言ってしまったから、ございます、は省いた。図らずして、普段よりずっとくだけた調子。
 鮮花の隣で、式がまた笑いを堪えられずに顔を伏せている。
「式っ……!」
 騙された。
 さっきの口振りからして、幹也が鮮花のためにも用意していると、式は重々承知だったことになる。
 初めに感じた式が隠してることって、こっちだったんだ。
 最初っから最後まで担がれ通しだった気配だから、はらわたが煮え繰り返ってて良さそうなのに、幹也のプレゼントが嬉しすぎて温度が下がる。式のは色々とひとそろいなのに、鮮花のは一本きりで良い無色の、はっきり言えば子供向けみたいなやつ。そんな、怒っても良さそうな違いまで見えているのに、やっぱり嬉しかった。自分はそんなに単純なのかって自重しようにも、果たせない。にやつきを抑えるのがやっと。
「兄さん?」
 鮮花の態度が良く判らずに戸惑っていた幹也に、呼びかける。
「せっかくですから……」
 塗って下さい、と言うのを寸前で制し、
「塗って? 手の方に」
 今度は頑張って、そう口にした。特に気付かない様子が残念だが、幹也が快諾してくれたから、それは良し。
「良いけど、学校のことは大丈夫?」
「ええ」
 それで呼び出しを喰らったところで、何ほどのことも無い。あっさりOKなのは妹相手だからかもだが、もうそれも捨て置く。
 願い叶って、ゆっくりと式と変わらぬ丁寧な所作で爪に色の無い艶だけ施してもらいながら、鮮花は今日の式の行いに頭を巡らす。他のことに意識を逸らせていないと、だらしなく頬が緩んでしまうのだ。
 幹也が鮮花用のプレゼントも用意していると知っていたなら、どうして式はペディキュアを言い出したのか。そうでもしないと、幹也の帰宅までに一騒動起こしそうだと思ったのか。自分のを幹也が鮮花に使うのは嫌だとさっき式は言ったが、鮮花が貰うものを知っていたら、それもおかしい。
 様々に考えて、しかし、単純な結論に行き着いた。何のことは無い、ヤキモチなのだろうと。鮮花に贈られたエナメルを使うのであれ、許したくなかったのだ。
 今日、鮮花が幹也にペディキュアしてもらう機会は失われた。その点では、完全に術中に落ちてしまったことになる。
 口惜しくはあるのだが、不愉快ではなかった。幹也が鮮花のぶんも買ったことに、式にも含むところあったのかも知れない。ほんとは男だったら良いのにって呪い続けてきたのに、女の子してる式が楽しい。
「ふふ……」
 とうとう笑いが、零れた。
「何?」
 幹也に問われ、答えに窮する。しかし、告げることは見つかった。幸い、式は傍には居ない。
「いえ、式も、女の子なんだなって思って」
 幹也は、噛み合わない返事をする。
「あたりまえじゃないか。でも、そう思ったんならもう、ほんとは男なんでしょとか言わない?」
「……うん」
 無念だが、あんな話っぷりを聞いてしまったら、もう男だなんて思えない。だいたい、女同士でなきゃ女振りを競えない。
 式が戻ってきて、呼びかける。
「鮮花?」
 顔だけ向ければ、式は、左手に小さな器を載せている。陶器の猪口のようだが、内側が赤い。
「こんな紅は、差したこと無いだろ?」
 薬指を猪口に入れると、指先が染まった。
「ほら」
 口を開けさせて、式は、鮮花の唇に本紅を引いてやる。
 何がどういう風の吹き回しやら、鮮花には不思議。しかし、これは純粋に好意でしかあり得まい。
「ふふっ」
 もう一度笑う。
「こんなもんかな」
 差し出された手鏡には、古風な紅に染めた唇が気恥ずかしくも心華やぐ、一人の女と呼ぶにはほんの一寸か五分ばかり足りない少女が居た。
 式がもう一度手を出し、ささやかな非対称を直してやる。その式の薬指の先を、悪戯っけと礼とを込めて、鮮花は舐めた。
 びっくりした様子の式だったが、口元を綻ばせて指を更に押し込む。かぷ、と咥えて手の主の顔を見た鮮花は、そこに一人の女を見つけてしまう。好意に不純はなくても、根ざすものは彼我の距離か。
 なら、指をくわえてなんか居られない。宣戦のやり直しに指先を咬む。
 そんな無言のやりとりも、鮮花の爪にエナメルを塗る幹也は見ていない。
 漏れ聞こえた小さな笑いに顔を上げた幹也の前で、式と鮮花はわずかの間、睨みあった。でも次の瞬間、女二人に、ほとんどテレパシーが働いた。
 同時に、口を開いた。
「幹也くん、わたし鮮花に指咬まれたー」
「式が酷いの、紅の付いた指を口にっ」
 眼に見えて、幹也の挙動がおかしくなった。

 

/紅差し指、くわえて・了

 


久しぶりに非エロなSSを書きました。それもどうなんだ、と思いつつw
しかし、こんなに頭の中身ばっかりなのも、私にはめずらしいですね。

尚、大した意味は無いのですが、今回の執筆過程を残しておきます。舞台裏に興味があればどうぞ。

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©Syunsuke