秋月 修二 様
「では」
「どうぞ」
二人とも居住まいを正す。さっき取り込んだ空気を、緩やかに使っていく。
「話としては多分、簡単なことだと思うんだけどね。ちょっと前の話」
「ちょっと前?」
「ほら、遠坂と柳桐が何か言い争ってた時、あったでしょ」
それでだいぶ掴めたのか、衛宮は一気に赤面した。衛宮ほど動揺はしていないけれど、あたしだって多分赤くはなっているだろう。うやむやにしようとする自分を抑えながら、先を進める。
「それで……まあ、色々あった訳だよね」
「そう、だな」
さっきの遠坂の、いつも通りの態度を思い出す。躊躇いがちな応答は引っ掛かるが、お互いにそんなものだろう。自分たちで選んだことなのだし、後ろめたいのは仕方が無い。これで二人とも『あんなことは無かった』ことに出来れば、きっと楽に生きられるんだろうけど。
「んで、あれからあたし達は、これでもかってくらいに普通に過ごしてきた。何でもないことテキトーに話して、テキトーに絡んで。違う?」
「その通りだな。我ながら不思議なもんだけど、学校で会えば今まで通りだったし」
事実、そこは不思議だった。どちらかが変わってしまって、あっという間に破綻する可能性だってあった。なのに、そうはならなかった。らしくないと言えるほどに、あたし達は自然な態度を続けられた。
「うん。でもねえ……どうも、あたしはダメらしくてねえ……悩んでるのはそこなんだ」
目の上に垂れてきた前髪を払う。目は隠さない。隠したら何も見えない。見据える。
疑問からか、衛宮は無言で促してきた。
「まあ、ああいうことがあった、と。で、あれ以来どうもスッキリしないんだわ。何にもする気にならなくてね」
その言葉をどう取ったのか――衛宮は、じっと考え事に耽っている。沈黙に耐え切れないまま、あたしはどんどん浮かんだことを口にしていく。
「勉強もはかどらないし、部活も最近イマイチだし、部員にも言われちゃったくらいで。あたしなりに悩んで、どうにか解決出来ないかなとも思うんだけど、巧くいかないのよね。んで、きっかけはアンタなんだし、アンタのとこに来れば何か変わるかなってことで、ここに来たのよ」
いつになく饒舌になっている。お喋りな自分は好かない。遣り取りになってほしい。
少しの時間を置いて、ようやく衛宮は声を出してくれた。
「……で、こうして俺に会って、何か解決らしいものとかは浮かんだのか?」
「それが全然」
ふむ、と一つ頷いて、また思案顔。でも今度はそう待たなくても良かった。
「これはさ。俺に何かをしてほしい、とかって話なのかな?」
「どうなのかなあ。それだったらそうだって言うと思うよ、あたしなら」
「そこも解らないか。しっかしなあ……聞いてる限りだと、オマエ一人でこれ以上悩んでても、どうしようもない気がする」
なかなか痛いところを突いてくる。だからこそ話してもみたし、こうして考えてもいる。でも、衛宮にこれ以上何かを望んでもいいのかは、まだ解っていない。少なくとも、衛宮と遠坂の関係を壊すようなことにはしたくない。
こうして相談に乗ってくれることは嬉しいが、結論を出すのは難しい。
「どうするべきなのかなあ」
「どうするべきなんだろう」
二人一緒に頭を悩ませる。滑稽な話だ、何も変わっていない。何をどうすれば良いのか、どうしたいのかが、まるで見えてこない。
ただ、衛宮があたしとの関係を拒絶しなかったことだけは、嬉しさとしてあった。遠坂との関係を踏まえれば、真っ先に傷つくことになるのは衛宮なのに。
どうして、こんなにお人好しなんだろう。
「取り敢えず、もうちょっと話を、――っ!?」
そこまで言いかけて、お互いに身を竦めた。
二人ともってことは、気の所為や勘違いじゃない。衛宮の方を一瞥すると、焦りがはっきりと滲んでいた。
「今……玄関で、音したよね」
「……ああ、したな」
やっぱり。
一瞬の間を置いて、慌てだす。ようやく本題に入ったくらいなのに、間が悪すぎる。人には聞かせられないって、さっきから注意してたのに。
「と、遠坂が忘れ物取りに戻ってきたとか?」
「来ないって言ったのに!」
「馬鹿、でかい声出すなっ!」
真っ青になって口を押さえる。聞かれるにせよ見られるにせよ関係無い。遠坂が来たってこと自体が拙い。これは、数ある中でも一番拙い展開じゃないのか。
「こっち来るかな……?」
「解らん。さっきの大騒ぎがあるからな」
明らかに衛宮も焦ってる。コーヒーの一件があることだし、来たっておかしくはない。遠坂のことだから、雑巾持っていくわよーとかやりそうな気がする。
「ど、どどどうするの?」
「ええと待て、落ち着け、落ち着くんだ。と、取り敢えず隠れよう」
「ど、どこに?」
「ちょ、ああ、ここにっ」
指差した場所は、それ普通入らないだろうというような場所だった。
「何で押し入れ?!」
「だって他に場所無いんだもん!」
だもんとか言われても。
ばたばたと忙しく、衛宮が押し入れを開け放つ。さっき見た通り、中には何も入っていない。二人とも膝を擦りながら、そこへと逃げ込む。ほとんど物が入っていないとはいえ、二人入ればスペースはだいぶ無くなってしまう。窮屈でも我慢するしかない。
――ああ、またこのパターンか。
押し入れを閉めると、当然のことながら真っ暗になった。
背中に衛宮の温もりを感じている。二人とも息が荒い。吐息が耳元で響いている。リフレインが心臓を暴れさせている。
そして、それとは別に考えることがある。
「……話、一旦やめれば良かっただけなのかもね」
「いやあ……俺とオマエの格好見れば、結局揉め事になるんじゃないかと思うが」
「そうでもないんじゃないの? 着替えたって言えばそれで」
「あー、そっか……」
何と言うか、とてつもなく馬鹿だった。どっと疲れた気もするが、気付いても今更だ。一度入った以上、今度は出るタイミングが問題になるんだし。
平然とした会話とは裏腹に、頭の中はぐちゃぐちゃになりつつある。衛宮の胸にもたれている状態。鼓動が相手にバレているんじゃないかと思うと、気が気ではいられない。
だって、衛宮の鼓動は、こっちにちゃんと伝わってきてるから。
とくっ、とくっ、とくっ。段々早くなっていく。解りやすいくらいに、ドキドキを訴えかけてくる。これがどういうドキドキなのか、知りたいと思い始める。
それはいけないことだ。
「何か、懐かしい感じ」
「そんな前のことでも、ないんだけどな」
声を抑えているので、どうしても掠れてしまう。違う、抑えなくちゃいけないのは、こんなことじゃない。自分を強く保たないと。
じわりと火傷の痛み。点々と体中に散らばっている、熱の塊。落ち着け。ああでも、それはさっきの衛宮の言葉。意識してしまう。強く強く強く。
衛宮の手が、腰の辺りに触れている。そこだけ温度が違って困る。
「もうちょっと、そっちに行けない?」
「こっちは物入ってるんだよ」
じゃあ仕方が無い。こうして、くっ付いていないといけない。スペースを作るために無理は出来ないし、そんなことをして音を立てたら意味が無い。
こうなるのは初めてじゃないんだから。
だから――大丈夫。
「……こっち来てるのかなあ」
「まだちょっと解らないな……。様子見だ」
様子見がどれだけ続くかを考える。早く済んでくれればとも、出来るだけ長くかかって欲しいとも思っている。どっちをより望んでいるのかは解らなくて、腰にある手が何かをひたすらに意識させている。ゆるゆると良くない感情が湧き上がってくる。ずらしてほしいけれど、ずらされた拍子にどんな反応をしてしまうのか、自分でも予測がつかない。
中途半端に体に力が入る。逆にまるで力が抜けている所もある。首を後ろに倒したら、頬と頬が擦れあった。そのまま衛宮の肩に着地する。意図した訳でもないのに、ますます何かがおかしくなっている。
「あ、ゴメン……」
「いや、別に、いいけど……」
熱さと寒さの両極端。理解しちゃいけないものが、背筋を一瞬で走った。この感覚はマズイ。前はこれでああなってしまった。
ぼんやりしてしまう。酸素が足りない所為だ。
腰にあった手が動く。両手がお腹の方に回る。後ろから抱かれてる。文句は無い。不満も無い。無いからダメだと思ってる。
自然な調子で事が進みすぎている。
お尻に何かが当たっている。初めての時よりは驚きはしなかったけれど、やっぱり心臓に悪い。衛宮はどうしてこう、変にエッチなんだろう。普段は真面目くさってるのに。
それに――昨日は、遠坂が泊まってたはずなのに。
「……ねえ」
「なんだ?」
「遠坂と、しなかったの?」
踏み込みすぎかな、とは思った。でも、どうしてこんなことを訊くのかは、言わなくたって解るだろう。衛宮は軽く息を漏らして、ぼんやりと呟く。
「してないよ」
「え、だって昨日は、」
一緒にいたんじゃないの?
「ああ、泊まってったな。……でもそれだけだよ」
そりゃまあ、泊まったからってイコールになる訳じゃないにせよ、いつもそんな感じなんだろうか。付き合ってるって言われてから、結構時間は経っているし、流石にしたことはあるだろうけど。昨日しなかっただけ、ってことなのかな?
「……まあ、あんまり突っ込まないでくれ。俺だけの話じゃないし」
「ん、解った」
素直に頷いた。真面目な話をした気がするのに、熱も緊張も収まってくれなかった。だって、衛宮がこうなってる理由は、ある程度説明がついてしまったから。
身を捩らせる。そのまま、衛宮の腕の中にある自分の腕を引っこ抜いた。手に手を重ねる。こんなのダメなのに、こうしている方が落ち着いた。
脳から警鐘。解ってる、解っている。
でも、一度許してしまったから、閂は緩んでいる。それが気になって仕方が無い。
答えの見えなかった質問が、どこかへ行こうとしている。それどころではなくなっている。お尻にあるつっぱりから来る、座りの悪さ。意識しないで済むものじゃない。
「――バカ」
「何だいきなり……」
「そうでしょ」
衛宮も自覚はあるんだろう。反論は返って来なかった。
とにかく会話をするべきなのかもしれない。話していれば、雰囲気に飲まれる可能性も減る。自分に意識する暇を与えなければ良い。でも、そんなことをしていて、いきなり目の前が開いたら。
心臓、止まっちゃいそうだなあ。
想像したら少し紛れた。眼を少し動かすと、視界の脇に衛宮の横顔が入ってくる。こちらをじっと窺っている。そのままお互いに見詰め合っていると、衛宮の指先がお腹を軽く撫でたので、身を縮めた。
「こら」
「いや、何となく」
「何となくで済ませないでよ」
あっちもこっちも、正気の沙汰とは思えない。緊迫感に昂ぶる。かといって、理性なんて簡単に手放せるものじゃない。
どうしてこんなに、衛宮を意識してしまう?
何かが見えていない。或いは、目を逸らしている。多分。
汗が滲みそうなくらい、体温が上がっている。狭くて窮屈な場所は、あっという間に蒸してしまう。少し苦しくなってきた。その反面、今を手放すのは惜しいとも感じている。そんなことを感じる必要は無い。無いはずだ。
だって、ただでさえ現状はヤバいんだから、これ以上ヤバくなるような真似はしない方が良いのは解ってる。それでさっきから、歯止めを利かせているんだし。
深みに嵌まると出て来られない。足を取られたら起き上がれない。そうなってしまった時に、傷付くのは誰だと言うのか。あたしはさておき、周りまで傷付くのは違う気がしている。そこまで我侭になって良いだなんて、誰も保証はしてくれない。
でも、じゃあ、誰も傷付かないとしたら? あたしはどうする?
答えが目の前でちらついている。
お腹の上に置かれた手を、きゅっと握った。唇を噛んだ。
「――来ないね」
「そうだな……音ももうしないし。郵便だった、とか?」
笑えない話だ。だから笑えてしまう。不恰好な声が漏れた。後頭部から沁みてくる温もりに、正気がどんどん持っていかれる。
人が入って来る気配は無い。出ても大丈夫なのかもしれない。なのに、そうしようという気にはならない。黙ってこうしているってことは、それなりの理由があるんだろう。
いつまでも知らないフリ。それを続けていたいと思っている。自分を騙し続ける方が、きっと気楽でいられるから。
だから、早く外に出ないと。このままだと流されてしまう。
だけど、そうしちゃったら。そのまま話は終わってしまう。
答えが欲しくて、勢いだけでここに来た。出てきた答えが、自分にとって都合が良いものだなんて限らないのに、それでもまだ拘っている。
首筋に吐息を感じた。わざとではないんだろうけど、頭の中のごちゃごちゃを止めるには絶妙なタイミングだった。
――もう、いい。
目を閉じる。そして、体の奥に感情を中途半端に押し込めて、目を開く。どっちつかずなのは変わらない。それでも、ここにずっと隠れている訳にはいかない、ということは思い出せた。だったらここから出よう。ただの先送りだとしても、場が動く方を選ぼう。
「……ちょっと、出てみようか」
「行ってみるか?」
「うん」
重ねていた掌を離す。お腹に回されていた腕がほどかれる。さっきまであった感触が薄れていくことに、少し寂しさを感じた。なるべく考えないようにして、押し入れを静かに開けていく。耳を澄ましても、誰かがいるような感じはしない。
「大丈夫そうか?」
「多分ね。やっぱり郵便とかじゃないかなあ」
冷静を、普通を装う。なるべく音を立てないように、慎重に体を外に出していく。狭苦しい所にいた所為で、部屋の方の空気が清々しく思える。畳に手をついて、喘ぐように酸素を吸い込んだ。混雑気味の思考を、少しでもまともな方に持っていく。
後ろで衛宮も抜け出ようとしている。手を使って、膝立ちで這い出してくる。と、何か突っかかったのか、あたしを巻き込む形でいきなり倒れこんでしまった。
「あいたっ!」
「……つぅ、悪い」
謝罪が半分聞こえなかった。背筋の中に、直接吐息が滑り込んでくる。重みを振り払うことも出来ないまま、ぞくりとした感覚に塗り潰されそうになる。背中側全体に、衛宮が感じられてしまう。
筋肉質だな、とか。まだ衛宮は……下の方が収まっていないのか、とか。クリアになりかけた頭が、あっという間に逆戻り。何も言えないままただじっとして、衛宮がどうするのかを待っている。血が凄い勢いで巡っている。吐息が、挙動が、ドキドキさせる。
耳元で小さく音がした。動き出す音。
衛宮の腕が、うつ伏せで倒れているあたしの下に差し込まれた。なるべく体に負担がかからないように、優しく向きを変えられる。そのまま、まるで押し入れの中にいた時みたいに、衛宮に寄りかかる格好にされる。
後ろから抱きすくめられる。
何も言えなくなってしまう。
ちゃんと考えたいのに、そんなことすらもう出来ない。
衛宮の手が、顔にかかった髪の毛をそっと払った。首の位置をお互いずらしたから、どうにか見詰め合えるようになる。それだけで、あたしの中で何かが動いてしまう。
俯いた衛宮の唇が、首筋に柔らかく触れる。触れた先から溶けていきそうで、血が抜けていきそうで、もうダメになりそう。熱っぽい酸素があたしに染み込んでいく。あたしから我慢が抜け出ていく。
触れ合った点と点が、記憶をフラッシュバックさせる。汗ばんだ体が、いけないという感情を乱していく。シャツ一枚の厚さは、拒絶には物足りない。でもだからって、これを受け入れちゃいけなくて、でも、
「あ、っ……」
「美綴……」
喉が震えて、巧く声が出せない。震えはそのまま、体中に広がっていく。
嫌な訳じゃない。怯えている訳じゃない。
何となく、こうなることは予想していたから。
普段あんまりしていないメイクを、今日はしていた。ただ、人の家にお邪魔するのなら、みっともない格好は避けたいな、と思っていただけ。幾ら親しい仲だからって言っても、それなりに見栄えは気になる。
――気にしていたのは、どうしてだったんだろう。
火傷で赤くなっている脚を、衛宮の指先がそっと撫でていく。ひりつく感触に眉根を寄せた。だけど痛みと裏腹に、その触れ方は優しくて。
芯が、疼く。
自然と身震いが強くなった。寒気と勘違いしたのか、衛宮は後ろから抱きすくめる形を取った。ブラのホックが背中でずれたみたいな気がして、鼓動が暴れる。
顔を上げる。耳元に唇を寄せたまま、衛宮もつられて同じ方向を向く。目を合わせていないのが不自然で、どちらからともなく首を曲げる。視線が交わる。吐息が重なる。
視界いっぱいに衛宮の顔。
見えるってことが、こんなに恥ずかしいと思わなかった。数センチの距離は、もどかしいくせに踏み出しにくい。あの時のあたしは、どうしてキスなんかお願い出来たんだろう。今の方が、前よりももっと恥ずかしい。
だって、知ってしまったら。意識してしまったら、求めたくなってしまう。
だから、そう――期待してないなんて、最初から言えなかったんだ。
頭の中がいっぱいになって、目尻に涙が浮いた。ぼやけた視界の中、それでも衛宮が慌てているのは解ったので、笑いまで一緒になってしまう。
いけない、とずっと思っていた。そんな自省の声が小さくなる。だから流されたくなってしまう。
涙と同じくらいでいい。ほんのちょっとでいい。
前に踏み出す勇気を。
「……し、……」
「ん……?」
耳元の囁きが、背中をそっと押してくれる。
もう、一押し。
「……したい、の……?」
/あやあやあや
©秋月 修二