俺たちはただ呆然と、それでいて従順に……それこそあの『ハメルンの笛吹き』に引き連れられた人々のように、突如俺たちの前に姿を現した三枝の後についていくこととなった。そして俺たちは歩む。この血のような赤が射し込む廊下を。
 だが、どういうことだ?
 三枝もまた無事だった。それはいい。
 だが、こんな状況に置かれて、彼女が最も不安を抱いているのではないか?――そんな心配も抱いていた。
 しかし、現実は違う。いま最も強い足取りで歩いていて、最も揺らぎない態度を取っているのが三枝だった。逆に蒔寺や氷室たちは疑心暗鬼な、挙動不審な態度を見せているくらいだ。
 また、何よりも驚きだったのが三枝の言葉。
「そうだよ。これは夢だよ」と断言するほどに彼女の言葉は明確なものだった。いったい何が彼女にそうまで言わせるのか、それが驚きであると同時に大きな疑問でもあった。
(三枝はこの奇怪な世界のことをもしかして知っている?)
 まさか……と吐き捨てたいところだったが、完全にそれを拭払できない自分もいた。こうして俺たちを何処かへ導こうとしているのも、何らかの訳を知っているから、何らかの真相を見せるためではないかと思ってしまうから。
 そうこうしている内に、俺たちは校舎でも見慣れた階層、見慣れた廊下、そして見慣れた教室に達する。
 この一年間を共に過ごした場所である。蒔寺たち三人は去年から引き続き同じクラスだったが、俺とは異なるので厳密には俺にとってこの足を止めた教室は見慣れた……と言うほどのものではない。
「入って」
 三枝はドアをゆっくり引き開けながら、俺たちにそう促してくる。『今のところ』何か指針もなく、また拒否する理由もないため、三人はお互い何か確認をしあうこともなく、促されるままにその教室へ足を踏み入れた。
 だが、その足を踏み入れてまもなくして、緊張と不安に耐え切れなくなったのであろう蒔寺が声を張り上げていた。
「あたしたちの教室なんかに一体何があるって言うんだよ、由紀っち?」
 いまだ前へ歩みを進めようとしていた三枝はその言葉で足を止め、肩にかかるほどの髪を揺らしながらゆっくりとこちらへ振り返った。
「私たちの一年間の思い出……かな?」
「なっ?」
 驚きのためいきは蒔寺のみならず、氷室や俺の口からも発せられていた。こんな状況においては、その答えはあまりにもセンチメンタルな、明確な実像を持たないものだったから。俺たち三人が求めていたのは……そう。もっと分かりやすい、言うなれば『この世界から脱出するための出口』という答えだった。
「確かに言うとおりだけどさ、あたしが訊きたいのはそういうことじゃなくて……」
「……ないよ。何も」
「なっ!?」
 蒔寺はさっきとほぼ同じように驚いたが、明らかに言葉尻は荒くなっていた。
「そう、ここには何もない。私たち四人以外は。人も動物も、温もりも冷たさも、『時間』すらも……」
 寒気を覚えた。その言葉に。そして、その言葉を発した彼女の唇に。
 「時間がない?」――どういうことだ。夢だから、か? それにどうして三枝がそんなことを知っている?
 途端に数々の疑問が浮かび上がり、俺の思考を圧迫してくる。
「な、なに言ってんだよ? そんななぞなぞみたいなこと……」
「ううん、蒔ちゃん。これはなぞなぞでもなんでもないんだよ。私たち四人以外にはここには本当に何もないの。でも、それはつまり私たち四人しかいない……四人だけでいられるってことなんだよ」
「いや、だからさ。そういうんじゃなくて、もっと分かりやすい……」
「うん。じゃあ、こう言えばいいんだよね。『ここならずっと四人でいられる』って。何処にも行かない、離れ離れにならない……ずっとずっと一緒にいられるって。フフフ……」
 嗤っていた。とても……とてもとても嬉しそうに、三枝は嗤っていた。
 それは彼女のいつもの笑顔に酷く似ていた。外面だけは。だが、一枚その外皮を剥けば、そこにいるのは三枝由紀香とは似ても似つかないような異形の存在……そんな風に感じられた。
「三枝、ちょっと待て。そもそもこの世界はなんだ? 学校の外へは出られない。『時間がない』とも言った。三枝は何か知ってるんじゃないのか?」
「さっき言いましたよね、『夢』だって。ここは夢の世界。私の望みを叶えてくれた夢のような世界。でも、決して目覚めることのない現実の世界」
 次から次へと三枝の口からは言葉が紡ぎ出されていく。だがそれは、まるで腹話術の人形が喋っているような感覚。
 だって、これが三枝が喋っている言葉とは到底思えない。だから、ついこんな言葉を口走ろうとしてしまう。「君は一体何者なんだ?」と。
「……」
 だが、そんな言葉はすぐに飲み込むことになる。
「三枝、お前……」
 さっきは嗤っていた……そう思っていたのに。いや、今でも確かに嗤っているように見える。が、どこか悲しそうな……泣いているような表情にも見えたのだ。
「ずっと一緒にいたい。皆とずっと一緒にいたい。離れたくなんてないのに……どうして皆は平気でいられるの?」
「由紀香。まさか……」
 その言葉から滲み出す想い――それをいち早く感じ取ったのは氷室だった。
「まさか私たち三人が卒業したら別れてしまう、もう会えなくなってしまう――そんな風に思っているのか?」
「そうだよ。だって三人とも別々の大学だし、それに蒔ちゃんは寮に移るって言うし、鐘ちゃんも家を出て一人暮らしするって言うし。会いたくても全然……会えない」
「……」
 しかし、そんなことは当然のこと。同級生では大学や短大などに行かず、就職して独り立ちする人も少なくはない。だから、三枝のその言葉は『弱音』にも等しいのかもしれない。
「それに会えなくなったら、皆きっと私のことなんかいつかは忘れちゃう。きっと私のことなんか『高校の頃の同級生の一人』になっちゃう。『昔、仲の良かった友達』になっちゃう。そんなのやだ……やだよ」
 突然三枝から語られるそんな思い……それは決して分からないことでもなかった。
 それに、決して間違いでもないはずだった。『想い』というものに正しさや間違いがあるとは言えないが、彼女がそんな風に思ってしまうこと自体はまるで悪などではない。自分の気持ちを我慢することが良いことで、我慢できないのは悪いことだなんて、そんなことは決してあり得ない。少なくともこの場合においては。
「ねぇ、蒔ちゃん。覚えてる? 蒔ちゃんたちと初めて出会ったときに言ってくれた言葉。すごく嬉しかったなぁ」
「えっ!? え、えっと……あ〜、その……」
 しかし、蒔寺は三枝から視線を逸らし、頬を掻きつつ言葉を濁らせる。だが、三枝はそんな蒔寺の様子を見ても残念がることは一切なく、むしろ嬉しそうな表情で言葉を重ねた。
「フフッ。もう覚えてないかな。だって、アレは入学式の次の日のことだったもん。そう……ホントに突然だったよ」
 そうして三枝は何かに思い馳せるような憂い顔を窓の外へと向けた。

 彼女――三枝由紀香の変革はまさにその日、入学式の次の日に訪れたと言っても過言ではなかった。
 入学した当時の彼女はそれはそれは何とも表現しようもないごくごく普通の地味な女の子だったと言える。出席の点呼で名前が呼ばれればその存在を認識されるが、そうでなければ居るかどうかも周囲にはあまり気付かれないほどに影の薄さがあった。
 成績が優秀なわけでもない、運動神経が抜群なわけでもない、クラス内で色々話題になるほどに容姿端麗というわけでも勿論ない。運動神経に関しては人並みよりかなり低いところはあったが、しかしそれでもその点を悪いような話題にされるほどでもない――空気のような存在だったと言える。少なくとも中学生時代までの彼女はそうだった。
 そこでふと疑問も覚える。クラス内で嫌われていたというわけではないにせよ、空気と言うのは流石に言い過ぎではないか、と。彼女にも気心の知れる友人の一人くらいはいただろうから。
 しかし、この疑問はその前提条件から既に成立しない。何故なら中学時代の彼女に友人の一人もいなかったからだ。彼女自身がそもそも喋り上手でもなく、人付き合いを活発する方ではなかったというのも要因の一つではある。だがそれ以上の理由として、彼女には友人たちと遊んでいる時間があまりなかったのだ。
 それは彼女にまだ小さな弟たちが何人もいたから。まだ小学校にすら上がっていない者すらいた。だから、彼女は両親が仕事から帰ってくるまでの時間、彼らの面倒を看なくてはならなかったのだ。
 だからそういう点で考えれば、頭も運動も良くはなくてもその面倒見の良さ、しっかりとした自立的な態度――そういった点はクラス中でも飛び抜けていたものがあった、とも言えるかもしれない。無論、そのことをクラスの者たちはまるで知る由もなかったが。
 だが、そんな境遇にあっても彼女はそれを嫌がる表情を見せたことは一度もなかった。勿論、それを嫌に思ったことも一度もなかった。彼女にとっては、弟たちの楽しそうな顔を見られるのであれば苦労も厭わないほどのものだったのだ。

 そうして彼女は高校に入学する。
 そのとき母親にこう言われる。「弟たちも皆小学校に上がり、自分の仕事も余裕が出てきたから、由紀香も好きなことをやっていい。今まで苦労かけた分、高校では好きなことを存分にやっていい」と。
 その言葉を彼女はとても嬉しい……そう思えるはずのものだった。弟たちの面倒を嫌々看てきたわけではないにせよ、これからは部活に打ち込んだり、友人たちと仲良く遊んだりもできるのだから。
 だから彼女は最初、今までの経験から得意になったもの――料理をもっと学びたいと料理同好会に入ろうと思ったりもし、高校入学を今か今かと待ちわびていた。
 だが、入学式を終え、クラスに入ってから気付く。自分が全く知らない――家族以外の人とどうやって付き合えばいいのか、ということに。
 結局、何の面白みのない自己紹介を終えた後に待っていたのは、彼女にとって何の代わり映えのない教室の風景だった。彼女という存在にまるで気付かずにただただ流れていく時間と風景。
 そして彼女はその教室を去り、望んでいた部活を一目たりとも見学することなく、入学の初日を終えた。
 同時にそれは、彼女が待ち望んだ高校時代の終わりでもあった。
 ……あったはずだった。
 翌日、登校した彼女の席の所に二人の女生徒が佇んでいた。一人は褐色の肌をした短髪な、いかにも明朗活発そうな少女。もう一人は長髪で瞳に眼鏡を携えた理知的な少女。そんな二人が彼女のことを待っていた。
 最初は人違い……正確にはその人の席と間違えているのだろうとなかなか教室に入れずにいたのだが、短髪の少女が教室の入り口付近にいる彼女のことを見つけると、大声で彼女の名を呼んだ。「ようやく来たか、三枝由紀香」と。
 そして二人は『三枝由紀香』の下に駆け寄り、間髪入れずにこう言ったのだ。

「あたしと友達にならないか」と。

「うわっ、マジで? あたし、マジでそんなこと言ったか?」
 三枝のそんな話を聞かされた蒔寺は、決して夕日の赤ではない赤色で頬を染めていた。
「あぁ、確かにそんなことを言ったな、お前は。あのとき後ろで聞いていた私も絶句したよ」
 それには本人ではなく、そのときの第三者であった氷室が答えた。ということはつまり、それは間違いなく事実だったということの証明にもなるだろう。
 そして氷室はそれに対してさらに証言を付け加える。
「しかも、あれは由紀香を陸上部に強引に誘い込むための口実でもあったんだがな」
「はっ!? バ、バカ言ってんじゃねー。あたしがそんなこと……」
 秘密だった、ということだろうか?
 だが、当の三枝はその事実を聞いても表情を緩ませるだけだった。
「うん、知ってた。それでも私にはこの上なく嬉しいことだったの。本当に、本当に嬉しくて、涙が……出る……くらい……嬉し……かったんだよ?」
 逆に緩みすぎて、その瞳に大粒の涙を浮かべるほど。
「由紀っち!?」
「由紀香!?」
 二人が三枝の下へと駆け寄っていき、彼女の身体を支える。
 その光景は見ていてとても好ましいものであり、同時に微笑ましいものでもあった。思い込みかもしれないが、やはりこれこそが「この三人のあるべき姿だ」と思ってしまうから。
 その姿を網膜に焼き付けつつ、俺はゆっくりと瞼を閉じる。
 三枝が二人にこうまで固執……いや、『依存』する理由があったからこそ、その三人の在り方を引き裂こうとする『時間』というものを止めたかったのかもしれない。
 だからこそ、彼女は望んでしまったんだ。この『世界』の存在を。大切な人と引き離されることのない、永遠の世界を。
 そして、俺が経験した時間の逆行……強いて言うなら、幸せであったときの時間の繰り返しは、今のこの『世界』を形成するための予兆のようなものだったのかもしれない。
 だが、あり得ない。こんなことは。
 自分の中の想いが、自分の心が世界を形成するなんて……そんなの魔術でありうるのか? いや、例えあったとしても、やはりあり得ないだろう。遠坂がやったとか言うのであれば納得もできるが、三枝はそもそも魔術師ではないのだから。
 しかし仮にそうだとするなら、何らかの者が三枝の望みを叶えるためにやった……ということになるのか? だとすれば、それは一体誰? 魔術師? それとも本当に魔法使い?
 ……いや。犯人探しをしたところで、この世界が元に戻る確証はない。勿論、可能性があることも否めないが。
 だが、今回のことにおける最たる根幹は犯人がどうということではなく、三枝自身の想いにある。その想いを否定するつもりは毛頭ないが、その想いから生み出されたであろうこの世界はさすがに受け入れることは……できない。
 だって俺は、ケースは違えど似たような強い想いに駆られて行動した一人の女性のことを知っているから。
「……三枝。俺も含めて、ここにいる皆が三枝のことを忘れるだなんてありえるはずがない」
 俺のそんな突然の言葉に三者は同様に驚いたが、その内の二人は頷き、もう一人は不審な表情を深めた。
「どうしてそんなこと分かるの? 『ありえるはずがない』だなんて、そんなこと分かりっこないよ。でも、この世界ならそんな確率の話で悩んだりしなくていいんだよ」
「確かに分からない。たとえ親しい人でも『他人がどう思っているか』なんてことは。けど、俺は分かる……『俺自身がどう思っているか』くらいは」
「……」
 そこまで口にすると、何の前置きもなく二人はその後に言葉を重ねた。
「あ、あたしだってそうだぞ。確かに由紀っちがどう思っているのかは分からない。現に、こんなことになるまでに由紀っちが悩んでいただなんて思ってやることができなかった。でも……それでもあたしも言える。あたしはたとえ離れ離れになったってずっと友達…………ああっ、違うな。その、なんだ? アレだよ、アレ。えっと……、鐘、バトンタッチ!」
「……まったく。肝心なときにそれでどうする? つまり、アレだろ。私たちはいつまでも『親友』だってことだ。由紀香が私たちのことをどう思ってくれているのかは確かに分からないし、できてもそれは憶測に過ぎない。だが、私自身は間違いなくそう思っている……それだけだよ」
「そ、それならっ! それなら余計にこの世界に居た方がいいよ。皆も私のことそう思ってくれてるなら、この世界にずっと居よ? そうすれば……」
 必死に『笑顔』という表情を保ちながらも、口からこぼれる声はどこか悲壮に満ちているようにも聞こえる。
「由紀香、ちょっと待ってくれ。先ほど話によれば、此処は『時間』すらないと言ったな。それはつまりどういうことなんだ? 」
「う、うん。でもちゃんと日は沈むし、朝は来ると思うよ。ただ繰り返すだけ。私たち四人だけがいる一日を。これならお互いを忘れることもないし、歳をとることも死んじゃうことだってない。何でも出来るの。勿論、今の想いも消えることはない」
 それを聞いて、氷室の表情が凍りつく。そして全く暑くもないというのに、その額からはダラリと大粒の汗が流れ落ちた。
 恐らく理解したのであろう。その『世界』がどんなものか。その『世界』の恐ろしさに。
 人は過去があるからこそ今を認識でき、今があるからこそ未来を想像できる。
 例えば、今の衛宮士郎という男はあの十年前の出来事があったからこそ今ここにいる。そしてそんな今の俺がいるからこそ、あと二週間程度で高校を卒業し、その先の己の将来を見据えることもできる。
 だが、この世界にはそれがない。過去も未来も。
 また、想いも消えないということは記憶も感情も不変だということ。消えない代わりに新しく増えることもない。あるいは、その一日ごとにリセットされてしまうのかもしれない。現に俺はこの数日間で完璧に記憶できている日もあったが、『今日』という日のことは忘れていた。蒔寺や氷室にいたっては『繰り返していた』という事実など完璧に忘れていた。いや、そもそも認識すらしていなかったのだろう。恐らく、いずれは俺も記憶や認識することに意味をなくすことになるのだろう。
 だって、何も変わらない――いや、過去がないのだから変わったことすら分からない。
 そんな世界を俺は……あってはならないと思った。
 ――「過去があるから現在がある」、「昨日があるから今日がある」と。そしてそれは、時間という一方通行な流れがあればこそのことだ、と。
 そりゃあ、確かに誰だって幸せな時間がずっと続くことを願うだろう。温もりある布団の中で睡眠を貪り続けたいと思うだろう。
 でも、時間が流れてしまうから、人はちゃんと目を覚ます。
 だから、もし時間を止めて、その幸福の時間だけは続くというのなら、それは諸手を挙げて喜ぶべきことなのかもしれない。
 だが、人は時という一方通行の流れの中で生きている。それを止めることはできないし、遡ることもできない。それができたら、それはもはや人ではない存在だ。力という概念だけでなく、心においても。
 つまりそれは『人として生きていない』ことに等しい。
 過去をやり直すことはできない。
 過去を消してしまうこともできない。
 過去に留まり続けることもできない。
 人が人として生きるならば、それはあまりにも当たり前のことなんだ。

「三枝。やっぱり帰ろう、元の世界に。だってこの世界じゃ子猫を愛でるときの三枝のあの表情なんて見ることができないからな」
「猫? 何のことですか?」
「いや、何でもない」
 結構恥ずかしい告白だったのだが、こうもあっさりとスルーされては苦笑せざるを得なかった。恐らく無視したわけではなく、意味が通じなかっただけだろうことは分かるけれど。
「はい! はいはいっ!」
 そのとき突然何を思ったのか、蒔寺が挙手までして大声で割り込んでくる。ついでに唾まで飛ばしてきたのだが、今はそのことは置いておくことにしよう。
「つまり由紀っちはさ、元の世界だと私たちが離れ離れになって今ほど仲が良くなくなっちゃうかも……とか思って心配してるんだよな? そうなるくらいなら、今の仲でいられるようなこの世界に居た方がいいって……そういうことでいいんだよな?」
 自分自身に対する今までの話の確認でもあるのだろう。蒔寺は少し強めの口調で三枝にそう質問した。
「……う、うん」
「ならさ、あたしは由紀っちに絶対にこう言わせてみせる。『あぁ、やっぱりこっちの世界の方が良かった』って。だって、あたし自信あるもん。これから由紀っちともっと仲良くなれるって」
 蒔寺のその言葉に間髪入れずに氷室も続く。
「由紀香。確かにこの世界は心地良いかもしれない。辛いことはない、三人が別れてしまうこともない、ずっと一緒に今まで通り楽しくやっていける――確かにそれは願ってもないことかもしれない。私だって今まで通り由紀香と仲良く楽しくやっていたい。心の底からそう思っている。しかし、それは逆に言えば『いつも通り』でしかないんだ。楽しいことというのは、やはり新しい何かから見つけていくものだと思う。たとえ同じことの繰り返しでも楽しく思えるのは、きっとそこに僅かでも何か新しい発見があるから。だから私は探していきたい、由紀香と一緒に。何も変わらない世界でではなく、変わっていく世界の中で」
 彼女らの瞳は強く輝いて見えた。翳りなど簡単に払ってしまうほどに。しかしそれでいて、とても穏やかな優しさにも満ちていた。
 そんな姿を見せられるだけではっきりと分かる。二人がどれだけ三枝のことを大切に想っているか。決して口先だけではない確かな想いを。
「とは言っても、鐘とはちょっと微妙だけどな」
「ほぉ? それは奇遇だな。私もまさにそう思っていたところだ」
「アハハ、や・っ・ぱ・り? いやいや、鐘とは話が合うなぁ……悪い意味で」
 額と額、そして視線と視線をぶつけ合い、火花を散らせるほどの接近戦。だが、手に汗も握らなければ、額にかくこともない。
 だって、それが彼女らにとっての『いつも通り』だから。それはもしかすると『変わらない』ということに思われてしまうかもしれないが、決して『同じ』ではないし、ちゃんとその『同じでない』ことも認識できるのだ。この世界ではあれど、今はまだ時間という流れの中にいるから。
「はわ、はわわわ!? け、けんかはダメだよ……蒔ちゃんも鐘ちゃんも」
「……プッ」
「え?」
 そして、その台詞に吹き出してしまったのは俺だ。
 だって、そうだろう? 二人の間に三枝が止めに入る――そんな光景を確か俺は『以前』にも見たはずだよな? しかも、そのときと状況は全然違うのに、何故か三枝の台詞は全く一緒。これを笑わずにはいられるだろうか。
「何だ、衛宮? あたしたちが真面目な話してるときに笑うなんて、いい度胸してるじゃんか」
「あぁ、いや。別に悪気があったわけじゃないんだ、すまん」
 手で口元を隠しながらも、表情だけは多分隠しきれていない。故に蒔寺の視線はより鋭さを増すのだが……、
「でも、『悪くない』よな。こういうのって」
 その一言に二人とも破顔一笑。
「……だな」
「まぁ、確かにな」
 しかし、その笑いの意味に一人だけついていけてないのか、三枝だけがキョトンとした表情を見せる。だが、すぐにそれも和らげる。結局これも『いつも通り』というやつの一貫なだけ。
「……ごめんなさい」
 三枝は唐突にそう謝罪の言葉を口にした。
「皆の気持ちなんて考えないで、『きっと皆もこう思ってる』なんて決め付けて、巻き込んで。皆、こんなに私のことを想ってくれてるのに……ホント馬鹿だよね」
「…………」
 うつむき加減にそんな自虐的な言葉を口にする三枝が今どんな気持ちでいるか、どんな表情をしているかは想像には容易い。だが、俺たちは黙して続きを待った。
「皆の想いも私の望みも全部、何も知らずに私自身が壊してしまおうとしてた。これじゃあホント、ただの悪者ですよね……私」
「……そんなことはない」
 しかし、そこで痺れを切らしてしまったのか、いち早くに言葉を挟んでしまう者がいた。しかも意外にもそれは俺でも蒔寺でもなく、氷室だったのだから驚きだ。
 三枝にとってもそれは同様のようで、丸くした目を氷室に向けた。
「由紀香が悪者のわけがない。私たちのことをこんなにまで大切に思ってくれてるのに悪者でありえるはずがないだろう? むしろ悪いと言うのなら、それは間違いなく私の方だ。そんな想いに全く気付いてあげられなかったのだから」
「そ、そんなことっ!」
「由紀っち。あたしも同じことさっき言ったよな? 悪いのはあたしたちの方。由紀っちは悪くない。だって、由紀っちはただちょっとだけ間違えちゃっただけなんだから……方法を」
「それなら、私はどうすればよかったの……かな?」
「そんなの決まってるだろ。なぁ、鐘?」
「あぁ」
 そうして二人は顔を見合わせ、口も揃えてこう言ったのだ。「自分ひとりで抱え込まずに、私たちに話してくれればよかったんだ」と。
「蒔ちゃん、鐘ちゃん……」
 三枝の表情が解けていく。まるで雪が解けるときのように、雫を溢れさせながら。
「ごめん。本当にごめんね……」
「いいって、いいって。あたしが今まで由紀っちにかけた迷惑に比べれば」
「まったくだ。たとえ夢とは言え、こんなのは迷惑の内にも入らないさ。だって、みんな由紀香のことが好きなんだから。だから気にするな」
「……ぅん、うん。ごめんね、本当に」
「ふぅ、聞いちゃいないな」
 苦笑まじりにそう言う氷室も、表情は呆れるどころか笑っており、三枝の髪を優しく梳きながら何度も何度も撫でていた。
 そんな光景に見惚れていると、ふと視界の隅でこちらへ目配せをする者が一人。無視しようにも無視できないほどの強烈な眼光が俺の頬をちくちくと刺激してくる。
 仕方なくそちらの方を振り向くと、そこでは蒔寺のヤツがなにやら口を金魚のようにパクパクと開閉させていた。
 だが、残念ながら読唇術を会得しているわけでもない俺には彼女が何を伝えようとしているかをその行為から読み取ることは非常に困難である。であるが、今なにをすべきかが分からないほどに鈍感ではなかった。
「三枝」
「あっ、衛宮くん」
 氷室に身を任せていた三枝は俺の言葉に反応して、その身を少しだけ起こし顔もあげる。そのときに見せた表情はまだ涙に満ちていたので、少しだけ胸が痛む。
「衛宮くんも本当にごめんなさい。こんなことにいきなり巻き込んで。……ビックリしちゃったよね?」
「衛宮がビックリ? あぁ、それ全然ないから。最初っからすごい普通にしてんの。たぶん最初は寝ぼけてるみたいだったから、本当に夢とでも思って気にもしてなかったんじゃないか?」
「え、本当……ですか?」
「あ、いや……」
 あながち間違いでもないことは確かだが、蒔寺に言われるとどうにも気に障るのは何故だろう。だがしかし……、
「驚きはしたし、不安もあった。三枝のこと、すごく心配もした。でも、今こうして振り返ってみると、ちょっと嬉しいような気もした」
「う、うれしい?」
 三人の視線の若干の湿り気が乗ったような気がする。が、とりあえず気にせずに続ける。
「あぁ。だってこの世界は言ってみれば、三枝が最も一緒に居たいと思う人だけが存在できる夢……ってことだろ? そんな中に蒔寺や氷室だけじゃなく、俺も入っていたことがちょっと嬉しかった」
「――っ! そ、そそ、それはですねっ。何と言うか、その……」
 三枝の声が突拍子もないほどに裏返る。また、辺りももうだいぶ色彩を落としてきているというのに、三枝の耳が異様に赤く見えるのはたぶん錯覚ではない。
 しかし、そこまで恥ずかしがられるとこっちまでそれが伝染してきたように顔が熱くなってしまう。
 だというのに、三枝は黙り込むどころか、さらに追い討ちをかけてきた。
「だ、だって……。衛宮くんのことも、蒔ちゃんや鐘ちゃんと同じくらいに好き……ですから。も、もちろん、大切なお友達……として?」
「……」
 気恥ずかしい。たとえ友人としてとは言え、異性に「好き」と言われることは流石に照れる。それも何故か俺に対する『疑問形』で言うところが余計に煽り立てられてるような気もしないでもない。
 少なくとも自分の顔を見なくても、明らかに紅潮しているのが分かるくらいに頬の肉が熱を帯びていた。
 が、そんな二人とは対照的に、ものすごく冷たく重い、まるで氷柱のような視線が俺に突き刺さってくる。
 それでも俺は頑としてそちらを向かない。と言うか、向けない。もし今彼女らの方を向いてしまったら、骨の髄まで凍らされそうな……そんな悪寒がしてならないから。
 だからこそ俺は視界のピントを目の前の人物一人に絞り、とりあえず周囲に関しては器用にぼかしておくことにする。
 そして、その対象人物に向かって俺はそっと手を差し伸べた。
「……帰ろうか?」
 三枝はそれに向かって一瞬自分の手を差し出そうとするが、表情が戸惑いを纏うのと同時にその手を引っ込めてしまう。やはり、まだ不安があるのかもしれない。
 だが、その不安という壁も一人では無理でも三人でなら……。ついさっきまでの彼女だったら無理だが、今はもう彼女のことを想ってくれる、支えてくれる仲間がすぐ傍に二人もいる。
「由紀っち」
「由紀香」
 両脇から支えていた身体をそっと押し出す。その勢いに身を乗せて、それでいて彼女も自身の力を足に込め、ゆっくりとその場から立ち上がる。
「……三枝」
 最後は俺が彼女の手を取る。とは言っても、力はほとんど入れない。あくまで添える程度。立つの彼女一人の足で。
 でも、彼女はもう一人じゃない。たとえ離れ離れになっても。
 だって、そうだろう?
 最初は彼女自身の感情の一人走りが招いてしまった夢の出来事かもしれない。彼女が四人で居ることを望んだことが発端なのかもしれない。
 しかし、それでも今皆でこうして一緒にいられるのはそれとはまた別問題だと思うし、何よりもそのこと自体が明確な証拠だと思うから。きっと今の彼女ならそう思っていることだろう。
「はいっ」
 宵闇の混じった空気の中によく通る声。そして、その宵闇すら払う一条の光のような笑みを浮かべ、三枝は再び自分の足で立ち上がった。
 その姿を見て、俺たちは安堵した。これ以上ないくらい安堵した。
 いや、安堵してしまった。これで皆無事にいつもの世界に戻れる。この不可思議な夢の世界から目覚めることができると。
 だが、俺はこの世界の成因というやつを一番初めのところで取り違えてしまっていたのだ。
 この世界の一番の成因は三枝の想い……そう思っていた。無論、それ自体は彼女自身が言っていたことであるため、決して間違いではないはずである。
 だが、よく考えろ。
 人の心を具現化した世界を創る――仮にそんなことができるとしても、三枝自身にできるはずはない。当然、俺にだってできないし、蒔寺や氷室も論外だ。つまり、この四人ではない何者かが手を貸したということ。
 そんなことは事前に分かっていたことだ。だのに、俺は勘違いしてしまっていた。犯人を突き止めるのではなく、三枝の不安定な気持ちが戻れば、この世界も元に戻ると。
「これは……一体?」
 しかし、世界は変わらない。変わらないどころか……。

「……っく、は、ぁ」
「さ、三枝っ!?」
 立ち上がった途端、三枝が身体を押さえて苦しみ始めたのだ。いや、三枝だけじゃない。蒔寺も氷室も同様に……。
「三人とも、突然どうしたっていうんだ!?」
「し、しる……かよ。だけど、急に……身体……が……熱……く……」
 蒔寺の声が先程とはまるで別人のように弱々しく聞こえる。よく見れば、彼女の顔全体が細かく震えており、口が上手く発音のための形を成していないためにその声が聞こえにくくなっているような気もする。それに、その唇の隙間からこぼれる吐息には苦しみよりも、何故か艶やかさを感じられた。
 立ち上がり息を荒げる三枝は、今にも崩れそうなほどのよろめき足で二三歩ほどの狭い足場の中をよろよろと歩き回る。
「……ぁ、はっ……え……みや」
「氷室!?」
 氷室はそれを追って立ち上がったのだが、彼女もまた胸を押さえて身体をふらつかせてしまう。足がもつれ、身体が大きく傾いたところを俺は傍に駆け寄りそれを支えた。
「……熱い」
 触れたその身体は、まるで行火を抱いているかのように熱かった。夢の世界とは言え、暖房も効いていない冬の黄昏時。加えて、厚手の制服さえ身に纏っている。そんな中で、肌ではなく服越しに触れて尚、火傷しそうなほどの熱を感じた。そんな過剰な感覚を覚えるほどに熱かったのだ……彼女の身体は。
「どうして。急にこんな……?」
「私にも……分からない。皆して突然風邪でも引いた……かな?」
「こんなときに冗談なんかっ!」
「そう……だな」
 苦笑いを浮かべる。とても冗談なんか言えるような表情ではない表情をして。
 だが、そんな軽口の一つも吐きたくなる気持ちも分からなくはなかった。だって、こんな状況は普通では考えられないし、仮にあったとしても誰かが意図的に……。
「そうか。結局これも、その何者かの仕業ってことか」
 そうして俺がゆっくりと辺りに視線を巡らせた……まさにそのときだった。
『タイカ……モ……トメル』
 声が聴覚を一切介さずに脳に直接聞こえてくる。ノイズがかっている割には随分と透き通った声のような気がする。しかし、その声に聞き覚えもなければ、性別すらよく分からない。だが、決して無機質なものではない。
 とは言え、辺りを見渡してもみてもやはりその声の主は何処にも見当たらない。
(一体どうやって? それに、「タイカモトメル」って……)
 タイカモトメル……退化も止める? いやいや、これではあまりにも意味が通っていない。
『タイカ、モトメル』
 再び頭の中に響いてくるその声。先程と全く同じ言葉ではあったが、僅かの区切れの違いがようやく俺にその言葉の意味を認識させた。
(タイカ、モトメル……つまり「対価、求める」ってことか)
 なるほど。これなら確かに言葉の意味自体は分かる。だが、対価とは何に対してのものなのか。
『ソノオンナ……ノゾミ……「タイカ」』
「っ!?」
 驚いた。何に驚いたかって言えば、その言葉にではなく、その反応に。
 今俺は、別に自分が抱いた疑問を口にしたわけではない。ただ頭の中で考えただけ。なのに、まるで俺の思考を言葉としてちゃんと聴き取っているかのごとく、適切なタイミングで的確な答えをしてきたのだから。
 俺はそれを確認する意味合いも含めて、再び答えを頭の中で構築させる。
(つまり、三枝がこの世界を望んだから、お前はその代償を払えと言うのか?)
『ソウ。ソノオンナガ、コノ「セカイ」……ノゾンダ。ダカラワタシ……ハ、コノ「セカイ」ヲツクッタ。ソレガ、「ケイヤク」』
 答えはおおよそ思考時間というものなど皆無なほどすぐに返ってくる。
 推測はやはり当たっていた……と言っていいのだろうか。その答えの内容に関しても同様に。
 三枝のことを横目でちらりと流し見る。
 だが、状態は良くなるどころか、明らかに先程より悪くなっているように見える。己の手で己の肩をひしと抱きしめ、何かに耐えるかのように歯を食いしばりながら身体を小刻みに震わせていた。
 これがヤツの言う『対価』というものなのか。この世界創生の代償がこうして彼女の身に与えられる苦痛だということなのか。だが……。
(その契約は破棄だ。三枝はもうこの世界を望んではいない!)
『ソン……ナ……』
(うん?)
『ソンナニ、ツゴウノイイハナシガアル……トオモウ、カ?』
(なに?)
『オンナハ「セカイ」ヲノゾミ、ゲンニ「セカイ」ハ、コウシテ「コウチク」……サレタ。ソレヲミテ、「ヤッパリイラナイ」カラト、ステル……ソンナコトガ、セイリツスル……トオモウ、カ?』
(……クーリングオフみたいな都合のいい話などないということか)
 などという現実的な考えに苦笑する。『現実』などという言葉が今の状況を鑑みて、どこからそんな考えが沸いて出てくるのか、と。
(だが、何故だ? 三枝だけならともかく、何故蒔寺と氷室まで苦しんでいる? 苦しむのが三枝一人では足りない……とでもいうことなのか?)
『ソウ、タリナイ。ヒトリブン、デハ』
(ならば、三人ではなく俺にも与えればいい。なんなら、俺が三人分まとめて……)
『シンパイは、イラない。オ前にも……』
 その言葉が鼓膜に触れた瞬間、最後までその言葉を聞き終えるより前に鼓膜の振動が全身へと伝導する。何処にもいないはずの会話の相手の唇の動きまで分かるような、そんなまでの妖麗さがあった……その言葉には。
 同時に、先程までノイズがかっていたはずのそれが急に鮮明さを表していく。
『ワタシは「夢魔」。そのモノが望む夢を創生し、与エル。ソシテ……』
(……夢魔?)
 それは確か西洋の悪魔の一種だったか? ということは彼……いや、彼女が求めるモノ、『対価』というのはつまり……?
『夢に招いたのは三人のオンナと一人のオトコ。よって、求めるモノは……』
(求めるモノは?)
 誰もいないはずの空間に突如歪みが浮かび上がったような気がした。そしてその歪みは口元を大きく吊り上げて、こう口にした。

『三人分の精を』

 

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