「ごめんね、衛宮くん。こんなことに付き合わせちゃって……」
「こんなことくらいなら容易い御用だけど。それにまぁ、陸上部に付き合う……なんて言っちゃったのは俺の方だし……な……、っくしょん!」
「だ、だいじょうぶですか?」
「ん? あ、あぁ。しっかし……」
俺は上を見上げる。それと同時に、頬に何か冷たい感触。……あ、また。
今俺の目の前に広がっているのは灰色で埋め尽くされた空とそこから降ってくる白い塊。もちろん塊と言っても大した重量も硬度もない。人肌に触れればすぐにでもその姿を消滅させてしまうほどに弱く儚いもの。
「あ……、もしかして今年初めてじゃないですか、雪が降るのって?」
確かにそんな気がする。いや、降ったか? あまり雪というものに関心がないのでよく覚えていない。大雪ならまだしも、この程度の降り具合では特に。
「積もるのかな?」
「どうかな? 俺はできれば積もって欲しくはないな。雪かきが大変だ」
半分冗談で、そして半分本気で言った言葉に三枝は苦笑で応えた。やはりロマンチックとはかけ離れた答えすぎたのかもしれない。
「でも、ホントそうですよね。明日グラウンドが積もってたら、間違いなく雪かきですよ。もし解けるのを待ってたら、グラウンドがびしゃびしゃで当分使えなくなっちゃいますからね」
「……だな」
そんな薬にも毒にもならないような世間話を繰り返しつつ、俺と三枝は現在体育館で練習中の陸上部の元へ向かっている最中であり、そのための備品――と言っても、ストップウォッチなどの小物程度だが――を運んでいるのだった。
では何故陸上部が体育館にいるのかと言えば、それは辺りを見渡せば一目瞭然。外では雪がちらちらと降っていて、地面も少しずつ白く化粧を始めている。それ故に今日の陸上部は外での練習を取りやめ、体育館で室内トレーニングということになったのだった。
「もう始まってるみたいだな」
俺たちが着いた頃には、体育館の中は威勢のいい声で満ちていた。
「ほらっ、ちんたら走るんじゃねーぞ! あたしに抜かれたヤツは一周追加だかんな」
体育館のフロアの外周を陸上部が列を成して走っている。先頭は現在の陸上部部長が先導し、最後尾には蒔寺のやつが後輩を急き立てるかのように追走していた。相変わらずスパルタなやつである。
「こんな寒さだってのに、蒔寺は相変わらず元気だな」
「そうですね。でも、それが蒔ちゃんのいいとこですから。でも誤解しないでくださいね? 蒔ちゃんってあれでいて、実はすごく礼儀正しくておしとやかで、それですごく優しいところもあるんですよ。お家の方が結構そういうことに厳しいらしくて……」
「すごい褒め様だな。まぁ、俺も少しは知ってるけどさ。一度だけあいつの家に上がらせてもらったことあるから」
「……あっ、もしかしてあの『炊飯器を直して欲しい』ってときでしたっけ?」
「そうそう、それ。あのときはもう驚いたなんてものじゃなかったな」
「私も初めて蒔ちゃんのお家にお呼ばれしたとき、びっくりして腰が抜けちゃうとこだったんですから」
はにかみと苦笑の半々ぐらいの笑みを浮かべながら三枝はそう語る。
そのときの様子を想像するのは容易かった。それくらいに蒔寺の家はかなりのものなのだ。ウチも広さで言えば相当のものかもしれないが、そういうのとはまた異質の凄さがあるのが蒔寺家だった。実はかなり伝統ある呉服問屋らしく、家の方々も皆和服に身を包んでいた様は圧巻だった。
後に氷室から聞かされた話だが、蒔寺も黙って和服を着るとまるで別人のような日本美人に変貌し、あの氷室ですらも言葉を失うほどの似合い様だったと言う。そんな姿なら是非見たいような、見るのが怖いような……ちょっと複雑な気分にもなったのは、今でも鮮明に思い出せるほどの記憶だ。
「ほぉ? そんなこと言うなら、お前のあのツナギ服姿も負けじ劣らぬの似合い様だったぞ、衛宮?」
「なっ!?」
「きゃっ!」
俺と三枝の間、それも真後ろから突然現れた第三者。その声に二人は驚かされ、三枝にいたっては驚きのあまり身体を大きくよろめかせてしまうほどだった。
「あ〜、すまん。由紀香、それに衛宮。そこまで驚いたか?」
そう謝りつつも、少し口元を吊り上げて立っていたのは氷室鐘だ。
「そりゃ驚く。つーか、何をそんなに笑っているんだ?」
「何? それは言うまでもないことなんじゃないか、その姿を見せられれば」
「…………」
あぁ、理解した。少々遅ればせながら、ようやく理解できた。この片腕にかかる柔らかの感触とささやかな重みと痛みを。
「うう、ぅ」
格好だけ見れば、男と女が腕を組んでいるという姿に全く相違ないが、その実は腕を人質?にとられたような……俺をまるで氷室から守る盾のような扱いだった。まぁ、恐らくはその後者の様子を感じ取って、氷室も笑みを浮かべたのかもしれない。
「あ〜、三枝? 悪いんだが、腕をそんな風に持たれると少し痛いんだけど……」
「えっ? あ……はわっ!? ご、ごめんなさいっ」
さりげなく小さく告げた言葉ではあったが、三枝の反応は意外にも機敏で、それを聞くや否や即座に俺の腕から離れてくれた。それによって小さな束縛から解放された俺の手はそのまま頭にまで持ち上げられ、ポリポリと掻く。
「いや、三枝は謝る必要はないだろ。脅かしてきたのは氷室なんだし」
「酷い言い草だな。私はただ単に二人に話しかけただけだというのに、それを『脅かした』などとは……誤解もいいところだ」
「そういうことをよくしれっと言えるよな、氷室は…………なぁ、三枝? って、あれ!?」
そう言って振り返るのだが、確か先程離れたばかりだというのに三枝の姿は視界のどこにも映らなかった。そんな彼女の姿を求めて視界を1フレーム、2フレーム……3フレームほど動かしたところでようやく発見する。普段の彼女からはなかなか考えにくいスピードである。
「三枝!? どうしたんだ、いきなり?」
「え……っと。わ、わたし、その……制服のままですから、ジャージに着替えてきますね」
結局一度もこちらを振り返らずに、ただそんな言葉だけを残して三枝はこのフロアから姿を消した。
協調性の欠片もない足音とその協調性をさらに乱すかのような蒔寺の罵声が辺りには響き渡っている。だが、そんなものは耳の左から右に流しながら、彼女の去り際の後姿を呆然と見送っていた。
が、数瞬の後、ふと我に返り慌てて彼女の後を追おうとするのだが、脇から差し出された氷室の手によってその行動は制されていた。
「氷室、なんで?」
「まぁ、女心も色々と複雑だからな」
「そういうものか? 驚くとか恥ずかしがるとかにせよ、今のは流石に度が過ぎてなかった気がするんだが」
「その辺りも含めての女心だよ、衛宮」
「…………」
真面目に言っているのか、それとも茶化されているのか、なかなか判断に困る。氷室は蒔寺や三枝と違って、感情が表情に出にくいために余計に。
だが、とりあえず「追わずに待て」ということだけはなんとか読み取れたため、俺は上げかけた足を留め、背後の壁にゆっくりとその身をもたれかけさせた。
すると氷室もそれに倣いつつ、俺に寄り添うようにしながら並んで立ってくる。
二人の視線は再び体育館のコートへ。目から平行に伸びるその線は交わることはないけれど、口から吐き出される言葉はきちんと交わりあっていた。
「なぁ、氷室? 一つ訊いてもいいか?」
「なんだ、改まって。私と衛宮の仲じゃないか。一つと言わず、いくつでも訊いてもらって結構だぞ?」
「……茶化すなって」
「それで? 何なんだ、その訊きたいことというのは?」
「あぁ。何て言うか……その、氷室はこの高校三年間を振り返ってどう思ってる?」
「…………は?」
恐らくしているであろう不審人物を見るかのような目が俺の真横で閃く。その視線はあまりに露骨すぎて、少し……痛い。
「衛宮、まさか卒業間近でナーバスになってるなんて、可愛らしいことを言ってくれるなよ? 由紀香ならまだしも…………ん、由紀香? もしかして由紀香がそんなことを言ってたのか?」
「え、三枝?」
質問を質問で返され、逆に驚いたことに氷室の表情が一層に翳りを増す。
「違うのか? このタイミングで言ってくるものだから、てっきり由紀香が衛宮にそんなことを話したのかと思ってな」
「ああ、いや。それは……」
それは……果たしてどうだっただろうか? 三枝が以前そんなことを話してくれたような気がしなくもないが、それはいつだった? それともそれは三枝からではなく、他の誰かだったとか? はたまた、それは単なる勘違いで、俺自身が本当にそんな風に思っているのか。
(まだ耄碌するような歳じゃないんだけどな)
とりあえずそんな疑問はかぶりを振って、頭の中から振り払う。
「……ふぅ。まぁ、そうだな。悪くはなかったよ」
「氷室?」
「なんだ? 衛宮が訊いてきたことだろう? どういう経緯かはともかくとして」
「あ、あぁ。そうだったな」
驚きと戸惑い……そんな感じで俺は言葉を返す。
先程もそうだったが、氷室は律儀なのかからかっているのか、よく分からないときが多い。ポーカーフェイスとでも言うのだろうか、こういうのは。いつかはこの仮面を崩してやりたいものである。
「では、衛宮の方はどう思っているんだ? 私に訊いておいて、自分だけ言わないというのは無しだぞ」
「別に氷室のそれと大して変わらないさ。俺も『意外と悪くなかった』と思ってる」
「面白みのない答えの見本のようなものだな。衛宮らしいと言えば、確かに衛宮らしいのかもしれないが……」
「悪かったな」
そこまで言ったところで、フロアを走っていた部員たちがまるでタイミングを合わせたかのように足を止めた。どうやらウォーミングアップの時間は終わり、ということなのだろう。
「さて。では私もそろそろ参加しようかな」
「ああ。まぁ、適当に頑張れ」
「つれないな。……っと、冗談はさておいて、由紀香が戻ってきてもさっきのことには触れるなよ? 由紀香の方から話を振ってきたのなら別だが」
それだけを残し、氷室もまた部員の輪の中へと入り込んでいった。
結局、その後に着替えて戻ってきた三枝は特におかしいと思える様子は感じられなかった。ただ俺に「さっきはごめんなさい」とちょっと明るめの苦い笑いをして応えてくれたこと以外、特にこれといって疑問を覚えるようなものではないごくごく普通の会話を交し合ったし。
やはり氷室が言ってたように俺には分かりかねない『女心』というやつだったのかもしれない。
しかし、実はそれが微かな予兆であったことに気付いたのは翌日になってからのことだった。
そして、その翌日のことである。昨日の雪はさほど積もることもなく、解けずに残った僅かな雪の残骸は校庭の隅に追いやられている様だった。
とは言え、そんな風に視界に雪が映るというだけで視覚的には非常に寒々しい。だと言うのに、今日の陸上部はランニングに短パンのユニフォーム姿という気合の入れ様。そんな姿を見て、俺はハァと真っ白な息を伴う深いためいきをついた。
しかも、グラウンドで目立っているのはもう引退した身である蒔寺や氷室。陸上部の中でもかなり優秀な成績を残した彼女らは、どうやら良き先輩だったのかもしれない。対照的ではあるが、彼女らの後輩との接し方を見ていればそれがすぐに分かる。
だが、もう一つ……と言うよりも、むしろそっちの方が気になっているのだが、俺の関心はグラウンドの外に佇んでいる一人の女性に向けられていた。
別に大したことでもなかったにせよ、昨日のことがあったせいか、やはり気にせざるをえなかったのだ。故に、俺はいつの間にか立ち上がり、彼女の下へ歩み寄っていた。
「あ、あ……っと、三枝? どうかした……のか?」
しかし、情けない。声をかけるのはいいとしても、その声はどこかに戸惑いを残したうわずったものとして俺の口から発せられていた。
「えっ? あ……、衛宮くん? 衛宮くんの方こそどうかしたんですか? 突然」
振り向いて見せられた三枝の表情。それは先程遠目で見たそれとはだいぶ異なり、満面とまでは言わないまでもそれなりの笑みが湛えられていた。
「…………」
だがしかし、やはりその笑みはいつもとはどこか違う。昨日、あの後に会話したときよりも明らかに不自然、無理して笑っている――そんな風にすら見えてしまった。
「いや、別に用ってほど用じゃないんだけど、なんか今日の三枝調子が悪そうに見えたから。もしかして……『寝不足』なんじゃないか?」
そこで三枝は明らかに驚きの表情を見せた。
「な、なんでそれを? もしかしてクマとかできてしまってますか?」
三枝は目下を懸命にこすったりしてみせるのだが、当然そんなことをしたところでクマというものは消えるものでもない。とは言っても、クマなど目を凝らして見ても見えるかどうかという程度のものである。気付けと言われても、気付くのは難しいかもしれない。
「いや、そういったのは特には。ただ、そうかなぁって偶々思っただけだから」
「は、はぁ」
そう……本当に偶々だ。昨日のことで少し三枝のことが気になっていて、そうしたら今日は少し具合が悪そうで、具合が悪い――その要因を考えたら、『寝不足なのかな?』とふと思いついただけ。それに、本当に注意深く見れば、目のクマも見て取れなくもないので、別に特別なことでも、おかしなことでもないと思う。同じ状況であれば、こんな風に考える人など恐らく五万といるだろう。
だが、何故だろう? 特におかしな考えではないと思いつつも、妙な違和感を覚えてしまうのは。自分がその言葉を発するのになんら思考を要さなかった。それこそ、まるで『最初から知っていた』ような口ぶりだった。
最初から……知っていた? 何を? どうして?
「大丈夫なのか? 帰ってゆっくり休んだ方がいいんじゃないか? なんだったら、明日学校休んだっていいと思うし」
そんな疑問に満ちた思考とは裏腹に、口からは淡々と言葉が紡ぎ出されていく。
「それは……ダメ、です」
なんだ、この会話のやりとりは? この微妙な違和感……やはり覚えがあるような気がする。
では、次はどんな会話だったか? それは確か……。
「……『見ていたい』から。一日でも多く、蒔ちゃんや鐘ちゃんの姿、楽しそうな姿、見ておきたいから」
「三枝……」
やはり、そう。俺は分かっていた。彼女が今どんなことを考えていて、次にどんな言葉を発してくるのか。その全てが分かっていた。既視感――その文字通り、既に視たことがあるかのごとく。
じゃあ、次に俺はどんな言葉を言った? それは……こうだ。
「なら、蒔寺も氷室も三枝の具合悪そうな姿なんて見たくない。笑ってる姿が見たいはずだ」
「衛宮くん」
とても他の人前では言えないようなこんなクサイ台詞。だが、『今回』は特に恥ずかしさを感じることもなく、三枝のことをまっすぐ見ながら言うことが出来ていた。
また、それに対して三枝はそんな俺の視線を微かに避けつつも、少しだけ嬉しそうな笑みを浮かべていた。
このときに初めて覚えたデジャヴという名の違和感。それは日を重ねていくごとに重みを増していき、同時にそれはもはやデジャヴと呼べるようなものではなくなっていた。言うなれば、それは既に『記憶』という名のものに変貌を遂げていた。
しかし、そこでまた疑問に思う。日常なんてものを果たしてきちんと記憶できるものなのか、と。
「一昨日の晩御飯は何を食べたか?」などという脳の働き次第ではどうとでもなるような記憶ではなく、「いつどんなことをして、どんな話をしたか?」というようなことを毎日、それも場面ごとにきちんと記憶できるものなのか、ということ。それも特別記憶に残るようなもののみならず、普段交わすような無為な雑談程度のものまで正確に。しかも、それは当然『反復練習』できるものではなく、たった一度きりしかなかったものだということも忘れてはならない。
そして、今日もまた……。
「よぉ、衛宮。久しぶり〜」
そんな中、フランクな態度で呼びかけ肩を叩いてくる誰か。その声だけでも容易に判断できるのだが、今の俺にはその声すら聞かずとも誰だか判断できていた。
「俺の記憶が確かなら一昨日会ったはずだったが……蒔寺?」
そうして振り返った先にいたのは……はい、正解。蒔寺楓だ。
「まぁ、衛宮とはほぼ毎日会っているからな。蒔の字にとってはたった一日でも会えないのが寂しいのだろう」
で、今度は氷室鐘。さっきとは逆の方を振り返ってみて……はい、これも正解。
「ちょ、おま――っ! な、なな……なに言ってんだ、鐘は!? そんなわけねぇだろ! 誰がこんなヤツと……」
「そうムキになって否定するところがますます怪しいな、フフッ」
「な、なんだと〜」
俺はうんざりとばかりにため息をつく。
二人が繰り広げるこのやりとりに対してではない。言うなれば、くだらない自問自答をしている自分自身に対してだ。
(で、ここで三枝が割って入ってくる、と)
……ほら、また。本当にくだらない。
「もうっ。蒔ちゃん、鐘ちゃん。朝から喧嘩しちゃダメだよぉ」
「由紀っち」
「由紀香」
「……」
振り向きはしたものの、俺の口からはこの場に登場した彼女の名が出ることはなかった。
「おっ? 今日はだいぶ元気そうだな。なによりなにより」
「う、うん。ごめんね、ずっと心配かけちゃって。もう大丈夫だから」
やはり、もう疑いようもないことなのかもしれない。
この数日間の経験で、『デジャヴ』は『記憶』へ。そして今また、『疑問』が『確信』へと変わった。
(俺は『今日』という日を以前に経験したことがある)
仮にこれが『未来予知』だったとするのなら、『比較』はできない。言い換えれば、今現在進行形で起きている出来事を次々に言い当てていることが『未来予知』だとするのなら、以前経験したことの『記憶』との差異を認識できないはずだ……ということ。
そして俺は今、その差異を確かに認識できている。それこそがつまり「同じ日を繰り返し経験している」ということの証明でもあった。
でも、どうして? どうしてこんな事態になったのか? また、周りの様子からして、どうして俺だけがそれに気付いているのか? その疑問は未だ解決できていなかった。
「ん? どうかしたんですか、衛宮くん?」
突然目の前に迫られた三枝の顔に俺は驚かされ、思惑の渦から引っ張り出される。
「えっ!? あ、あぁ……いや、何でもない。ちょっと考え事してただけだから」
「そうなんですか? 顔色が悪かったので、どこか具合が悪いのかと」
「そんなに酷い顔してたか? 自分ではそんな……に……」
そのとき、ふと足元がもたつき、視界が大きく揺れる。
「え、衛宮くんっ!?」
三枝の歪んだ表情が傾いていく視界のせいで余計に歪んで見え、もはや俺は目の前にいる人物を人物として認識できなくなっていた。
「――――」
直後、俺の全身に重い衝撃と鋭い痛みが走る。本来ならばその痛覚信号は我慢という理性すら突破してしまいそうなほどものだったが、意識はまるで覚醒に向かわず、瞼も閉じようとする一方。
「衛宮くんっ!? ……みや……ん! しっか……して!」
また、意識と同時に遠くなっていく声。本当は懸命に叫んでくれているものなのかもしれないが、今の俺にはまるで蚊の鳴くような声にしか聴こえない。
それもこれも全ては目まぐるしく激変しつつあるこの数日間のせい。そのせいで満足に睡眠をとれていないせい。
だが、今俺を襲うこの虚脱感は過労や睡魔から来るものとは違う気がする。まるでタールか何かの中にズブズブと引きずり込まれていくような感覚。抜け出そうとしても抜け出せない。もがこうにももがけない。今の俺にできるのは、ただそれに身を任せるだけ。
「――――」
だから俺は、無抵抗のまま意識を放棄した。
痛いほどの静けさ――というのは今のことを言うのかもしれない。
俺が再び目を覚ましたのは、瞼の裏を焼くような光でも脳を揺さぶる振動でもない。無音という名の音が耳の鼓膜を刺激したせいだった。
「……んっ」
瞼の開幕を出迎えたのは穏やかな茜色とその色で染められた綿でできた薄布の感触。その後に追って得るのは、鼻をツンとつく薬品の臭いと掌を包む微かな温かみ。
「ここ……は……、保健室?」
何度か瞬きを繰り返した後、俺はようやく視界に焦点を結ぶ。元は白のシーツに白のカーテン、白の壁面。まさに清潔さという概念を具現化したような場所である、そこは。
「倒れた……ってことだよな、つまり。でも、もう夕方…………、うん?」
一瞬流そうとしてしまったが、光景や嗅覚以外にもう一つ感覚があったはずだ。確か、掌……。
「ま、蒔寺っ!?」
ベッドに横たわったまま、目線だけを自分の腕に沿って動かしていって辿りついた先に見たものは、蒔寺の寝顔だった。これには流石に驚かざるをえず、つい大声をあげてしまいそうになったが、その寝顔があまりに穏やかなものだったため、なんとかそれを制した。
部活の途中だったのか、彼女はいまだユニフォーム姿であり、俺の手……正確には俺の指を掴んで眠り込んでいた。
だが、そんな様子は把握できてもそれに至る状況はまるで把握できない。登校時に倒れて以来、俺がずっと眠ったままだった……という推測くらいは出来る。だが、蒔寺が今ここでこうしていることの説明がつかない。今がまだ始業前とかであれば、倒れた俺を心配した蒔寺がそのまま看ていてくれたということが考えられる。が、辺りを見れば分かるように今はもう夕方であり、彼女は制服ではなく部活のユニフォーム姿である。
部活中に抜け出してわざわざ看に来てくれた? それでそのままつい眠ってしまった?
可能性はゼロではないが、限りなくゼロに近いだろうことは疑うまでもない。
「んっ……、ううん……」
暫くして、俺の目が覚めてからいくらか身じろぎしてしまったせいだろうか――蒔寺は少しだけ不機嫌そうに寝顔を歪めた後、しぶしぶといった感じで瞼を開いた。
「……おはよう、蒔寺」
そう言うと、蒔寺の顔がクルリと回り、二つの目が俺の顔を捉えてくる。そして緩やかな表情で応えてきた。
「うん、おはよー……えみやぁ」
「…………」
寝ぼけているのは火を見るより明らか。だが、蒔寺もこんな表情をするのだと驚きもし、また感心すら覚えた。
しかし、それを見られたことに気付いた彼女自身も驚きだったようで、それこそまるで火の如く赤く、熱く表情を一変させた。
「なっ、なな、な……、えっ、衛宮っ!? なんで起きてんだ!?」
「なんで、と言われてもな。目が覚めたから……としか言いようがないが」
「じゃ、じゃあっ! な、なんであたしの手を握ってんだ!?」
「そう言われても困る。握っているのは蒔寺の方だろ?」
「…………」
すると蒔寺は途端に押し黙り、プイと目線を大きく逸らした。当然、手も離して。
どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。
一度顔を背けると、それ以後全くこちらに顔を向けず、何も喋ろうともしなかった。だが、それでもこの場から立ち去らずに、そのまま椅子に座ってくれているというのは果たしてどう考えるべきか。
俺はそんな空気を変えるため――というのは名目上に過ぎないかもしれないが、先程まで考えていた疑問を投げかけることにした。
「なぁ、蒔寺? 蒔寺はどうして保健室に? もしかして部活中に怪我とかしたのか?」
「怪我? 怪我したのはお前の方だろ。あたしはその付き添い」
「俺が……怪我? そうか、倒れたときにどこか打っちまったのか」
額に手を当ててみると、確かに異様な違和感。滑らかな曲線を描いているはずの己の額の中腹に、明らかに唐突な丘が隆起している。しかも手でなぞると、ひりひりと痛い。
「……っ痛ぅ。どんな倒れ方したんだ、俺は? こんなにでかいタンコブが出来るなんて」
「倒れ方? さっきから何言ってんだ、衛宮は。言ってることがちょっとおかしいぞ。そのタンコブは野球のボールが直撃してできたものだろ?」
「野球の……ボール?」
なんだ? どういうことだ、それは?
俺は確か登校中に倒れたはずだ。登校日の朝、蒔寺たちと一緒にいて、それで……。
記憶が明らかに錯綜している。特にここ数日間は『記憶』通りに事が運んでいたせいで、余計にそう感じてしまう。
「ちょ、ちょっと待て。俺は登校中に睡眠不足かなにかで倒れた。だから、保健室で寝ていた……そうだよな?」
「はぁ? やっぱ当たり所が悪かったんかな。さっきも言ったように、衛宮は頭にボールを直撃されてぶっ倒れた。それに登校中とかなんとか言ってるけど、今日は『日曜日』だぞ」
「な……に……?」
蒔寺の方こそ何を言ってるんだ? 話が完全に噛み合っていない。まるでボタンを掛け違えているかのように。
「日曜は昨日。今日は月曜……登校日のはずだろ?」
それに対し蒔寺はもはや反論すらせず、ためいきをついて首を横に振った。
よほど見当違いの答えだったということだろう。今日は登校日でもなければ、俺は睡眠不足で倒れたわけではない。つまり、俺が気を失う前の記憶と現実で明らかに時間の流れがずれているということ。
「なぁ、蒔寺? ついでにもう一つ訊いてもいいか?」
「……何だよ」
「今日は……何月何日だ?」
――はっ。なるほど。これなら合点がいく。
蒔寺から返答を聞いて俺はようやく理解した。とは言っても、原理がどうとか、そういうことまでは一切わからない。だが、今の俺はさっきまでの俺より「一週間も早い時間の中に存在している」……それだけは理解できた。
それに考えてもみろ。「同じ日を経験したことがある」ということはつまり、その日を経験した後、記憶を維持したまま時間が巻き戻ってしまったということ。そんな『魔法』みたいなこと……、
(魔法? まさか、な)
こんなことは魔術では不可能。万が一に魔法だと仮定しても、何故こんなことに魔法を行使するのかが理解できない。魔法使いなんて存在が無意味なことに労力を割くとも考えにくい。いや、魔法使いなんて存在だからこそ、常人にはその思考を推測できないのか。
でなければ、ただの夢か。こうやって時間を繰り返しているのも何もかも、単なる夢の中の出来事だからだろうか。
確かにこれが一番可能性が高そうな気がする。だが、夢を見ている人間がその夢の中で眠ったり、夢を見るなんてことがあり得るのだろうか。……分からない。
「なぁ、衛宮? もしなんか悪いようだったら、誰か呼んで来ようか?」
「えっ? あ……いや、大丈夫だ。ちょっと寝ぼけてただけだと思うから。それに、呼んで来るもなにも、今学校に誰か居るのか? さっきから気になっていたが、あまりにも静か過ぎるんだが」
そうだ。俺が目を覚ましたのは、この異常なまでの静かさのせいでもある。まるで俺と蒔寺……この二人しか世界に存在していないかのような、そんな気にすらさせるほどに人の気配が感じられない。
日曜日だから人がいない――そう考えれば、特におかしなことでもない気はする。部活があったんだとしても、もう夕方で終わった――そう考えれば、特におかしなことでもない気はする。
だが、これは異常だと、俺の……そう、第六感ってやつが告げている気がするのだ。人の生活臭と言うか温もりと言うか、そういったものが今この場所から完全に欠如している気がする。
「うん? あぁ、言われてみればちょっと静かだな。あたしがちょっと居眠りしたっつっても、ほんの数分程度だったし。当然だけど、あんたが倒れてあたしが此処に来る直前までは陸上部だけじゃなく、野球部もいたからな。変って言えば、変だわな」
「……」
「じゃあ、あたしはもう部活に戻るよ。ちょっと疑問は残るけど衛宮もなんとか無事みたいだしさ。それに、この静かさもちょっとは引っかかるしさ」
「あぁ、俺も戻る。ちょっと待ってくれ」
「いや、衛宮はゆっくりしてな。なんだかんだ言っても、野球の硬球が脳天直撃なんだぞ、おまえ。もう少し安静にしてた方がいいと思う」
「蒔寺」
俺は自分の言葉に驚きの感情を抑えることができなかった。
『でも誤解しないでくださいね? 蒔ちゃんってあれでいて、実はすごく礼儀正しくておしとやかで、それですごく優しいところもあるんですよ』
いつだったか。三枝が言った言葉を思い出す。
確かに普段はだいぶ乱暴で男勝りなところがあるのは否めないが、時折妙に女らしいと言うか、穏やかな一面を見せてくれたりもする。その意外性がそんな思いをより一層高めてくれる気もするのだ。
「そっか。じゃあ、お言葉に甘えてもう少しだけ休んでることにする」
「そうしとけって。じゃあ、あたしはこの辺で……」
蒔寺は丁寧に椅子を元の場所に片付けつつ、足を出口の方へと向ける。小さくなる背中に若干の物悲しさを感じながら、俺はつい再び言葉を投げかけていた。
「あ、蒔寺。ちょっと待て」
「うん? なんだ、まだ何かあるの……か……?」
振り向いた彼女の顔をちょうど覆い隠すように、見事なタイミングで俺は物を放り投げた。
「うわっ……ぷ。な、なんだ!?」
傍から見ると異様な物体にしか見えなかったが、いくらかもがいた後に蒔寺の顔がその物の中から姿を見せ、それは彼女の肩を覆うように被せられていた。
「……これ、上着?」
「あぁ。保健室は暖房効いているからいいが、外は寒いだろ? 貸してやるから着ていった方がいい」
「……ふん。ま、まぁ、そうだな。わざわざ付き添ってやったお礼として借りとくことにしとくよ」
その言葉を最後まで言い終わらない内に蒔寺はその上着をふわりと翻しながら再び背を向ける。
「じゃあ、そういうことにしとく」
さらには、その台詞を聞き終わらない内に蒔寺は保健室の外へと駆け出していった。
……さて。
蒔寺にああは言ったものの、こんな状況で暢気に寝ているわけにもいかない。この異常な静かさも問題だが、自分の身に起こった奇妙な『巻き戻り現象』について把握する必要がある。
俺は起こした身体を腰を中心に90度回転させ、ベッドの下に揃い並べられていたスリッパに足を通して立ち上がる。まだ頭が軋むせいか、立ち上がった瞬間多少の立ちくらみを覚えるが、すぐに頭を振って意識をしっかりと掴み取った。
「よし」
そして俺もまた、この場所を後にした。
探索を始めて早十数分。案の定の異変にはすぐに気付いた。
人が全くいないのだ。校舎の中にも、そして校庭にも。蒔寺も今はもしかして部室に行っているのか、校舎内の窓から眺めていても姿を認識できない。
職員室にも立ち寄ったが、鍵がかかっている上に中を少し覗き見ても、やはり誰の姿も見当たらなかった。また、休日とは言え、部活等で学校が開放されている以上滞在しているはずの宿直の人も部屋にはいなかった。
この異常な空気に当てられたためか、俺は咄嗟に校舎から外へと飛び出す。そこにきてようやく俺は俺ではない人間と相対することができた。
「……蒔寺。それに氷室もか」
蒔寺は先程別れたときのままの――ユニフォームに俺の上着を羽織った姿だったが、氷室は既に制服に着替え終えていた。やはり部室に居たということだろうか。
「衛宮か。もう頭は大丈夫なのか?」
「……その言い方は少々癪に障るが、もう大丈夫だ。それよりも氷室はやはり今まで部室に? 部員たちは?」
「ふむ。衛宮も蒔の字と同じことを訊くのか」
その言葉につられて俺はふと蒔寺と顔を見合わせることになるのだが、彼女の方からすぐに逸らされてしまった。
「そのことなんだがな。私は後輩たちより一足先に部室に戻ったのだ。しかし、着替え終えてもまだ誰一人として戻ってこなかったものでな。どうしたのか気になって外へ出てみたら蒔の字と鉢合わせになった……といったところだ」
なるほど。つまり言い換えてみれば、今最大の疑問である「どうして誰もいないのか?」ということの答えを氷室も知らないということか。
だが、その事実からもう一つの事実が浮かび上がってくる。
「ってことはつまり、三枝もどうしてるのか分からないってことだよな?」
「……」
それに対しては、蒔寺、氷室両名はただただ無言をもって応えた。
やはり彼女ら自身も違和感を拭えないのかもしれない。俺なんかがいるというのに、三枝がいないということに。三人が常に三位一体で行動している……ということは流石に誇張表現だとしても、やはり三人の仲の良さは傍目から見ても際立つほどのものだったから。
また、恐らくは彼女らも既に気付いている。この『世界』が普通ではないことに。こうも人がいないのも、決して皆がもう帰ってしまったから……などとは思っていないだろう。だからこそ、余計に三枝のことが気になるのかもしれない。
だが、俺は一縷の望みにかけて敢えて提案してみる。十中十の確率で無駄なことを承知していながらも。
「もしかしたらもう皆帰ってしまったのかもしれない。俺たちもいつまでもここに居ても仕方がないから、とりあえず学校の外に出てみないか?」
「着替えもせずに、荷物を持ちもせずに帰るというのか? あり得ないだろう?」
「確かにそうかもしれない。けど、万が一ってこともあるだろ? 急用ができてしまったとかで」
「部員全員がか? それも陸上部員のみならず、他の運動部員までも」
「それは……そうだけど」
と、俺の語尾が弱くなったところで痺れを切らしたのか、蒔寺が強引に間に入り込んできた。
「あー、もうっ! 何がどうとか、そういう難しいことはどうでもいいけどさ、とりあえずは衛宮の言った通り外に出てみようぜ。あたしらも結構調べて回ったけどさ、校舎内にはマジでもう人がいないみたいだったから」
「別に私も外を調べてみることに依存はない。それにお前にもさっきそう言ったばかりだろう?」
「そんなら衛宮にぐだぐだ言ってないで、素直にそうしようって言えばいいじゃん」
「まぁ……、そうなんだが」
少しだけ眉の下がった氷室の表情。いつもならポーカーフェイスの得意な彼女がそんな表情を垣間見せたことによって、俺はその心境をはっきりと読み取ることが出来た気がする。
恐らく氷室は……不安なのだ。この異常な世界に対して。
当然と言えば、至極当然だ。いきなりこんな世界に直面させられて、平静でいろと言われても難しいだろう。多分、大声を張り上げている蒔寺も同様に。
俺自身はそもそも「一般人の日常世界」とは異なる世界に直面したことがある故、彼女ほどの動揺はない。それに、この数日間の奇妙な体験も意外にも動揺を抑えるのに一役買っているとも言えよう。
ならば、今この事態を何とか出来るのは俺しかいない。正直言えば、遠坂にでも頼りたいところでもあるが、彼女はイギリス留学のために卒業式を待たずして渡航してしまっている。
それに、恐らくこの事態は待ったところで何も収束しない気もする。とにかく自分から動いて、情報を集めなければ……。
気持ち新たにして俺たちは校門に向かったのだが、そこでこれまで以上に異常な出来事に遭遇することになる。
ありのままに話せば、こうだ。
俺は自分の右側に蒔寺を左側に氷室を伴わせながら、この校門へとやってきた。このときばかりは何故かいつものように校門をくぐることができず、三人ともその一歩手前で躊躇してしまった。
それから三人は互いの顔を見合わせて拍子をとり、まるで二人三脚ならぬ三人四脚のようにそれぞれの一歩を踏み出したんだ。
そうしたら……何故か俺たちの目の前には学校の校舎がそびえ立っていた。つい先程までは自分たちの後にあったはずの校舎が、である。
何を言っているのか分からないと思うが、俺自身にも何が起こったのか、まるで分からなかった。
その後に今度は俺一人でくぐってみたら、今度は何故か俺の目の前には蒔寺と氷室の姿があった。
「――嘘、だ」
思考がどうにかなりそうだった。単に「閉じ込められた」とかそんなチャチなもんなんかじゃ断じてない。この絶望感――それはもっと恐ろしいモノの片鱗にすら感じられた。
「ちょ、ちょっと待てよ、衛宮。何それ? もしかして手品師だったとか?」
明らかに冷汗と分かるそれが蒔寺の額から鼻筋を通って流れ落ちていく。
「――――」
蒔寺のこんな冗談じみた問いかけに、俺も冗談で返せれば彼女らの気を紛らわせることが出来たのかもしれない。だが、俺にはそれが出来なかった。
俺が何とかしなければならないと言うのに、俺もまた何がどうなっているのか分からずに困惑することしか出来なかったから。
「お、恐らくこれは『夢』……なのだろうな。でなければ、こんな……」
半ば震えた口調でそう言いながら、氷室はその校門に向かって片手を差し出す。
するとビックリ。彼女の手――肘から下の部分がその空間の所で切断されたかのように見えなくなっていて、その見えなくなった部分が彼女自身に向かって伸ばされていた。
「まるで……『結界』だな」
俺はふと呟いた言葉にハッとなる。
そうだ。例えるならば、これはまさに結界。閉じ込められるというのではなく、ここだけがまるで現実から切り離された単独の世界を成しているようなもの。結界という名の『世界』と言い換えてもいいかもしれない。
しかしこんなのを見せられれば、彼女らは超常現象というよりも恐らく手品とでも思えてしまうだろう。もちろん氷室自身が手品を行使しているわけでも、蒔寺でも俺でもない。誰も手品をする人がいないのに手品のようなことが起きるということは、つまりこの『世界』自体が手品の仕掛けのようなもの。さらに言えば、こんな手品のような世界など『夢』でしかありえない、と。
「だ、だよなぁ。鐘もたまには正しいこと言うよな。そう……そうだ、これは『夢』だ」
氷室の言葉を受けて、蒔寺もそんなことを言い出す。明らかにうわずった声で。
ここで俺が彼女らに対して「ああ、これは夢だ」と言ってやることは容易い。だが、それでどうなる? そうすれば、この『現実』から逃れられると? 目が覚めさえすれば『元の世界』に戻れると?
だが、このままでは……まずい。今のこの現実を現実と受け入れられずにいれば、普通の人間であればいつかは心を平静に保てなくなる。それも、この箱庭と化した空間でしか居られないのだから。
しかし、糸口の見つからないその疑問に対する終止符は意外にも早く打たれた。
「そうだよ。これは夢だよ。蒔ちゃん、鐘ちゃん……それに、衛宮くんも」