凰牙 様
血のように濃密な赤と砂丘のように広衍な黄の絵の具を二対一の比率で混ぜたような色がこのグラウンドというキャンパスに塗りたくられている。その「これでもか」というくらい暖色な光景ではあるが、その実は色に反して随分と寒々しい。
季節は現在の暦であと半月ほどで春というところにまで迫ってはいるが、しかし結局のところ今が二月……冬であることは紛うことなき事実。実際このグラウンドを隅から隅まで見渡せば、所々に昨日降った雪の残骸が積み重ねられていることに気付くだろう。
そんな夕焼けすらも寒々しく感じるこの空の下で、その寒さをもろともしない活発な声を上げる一人の女性がいた。
「……ったく。現役を退いて半年も経つ者に勝てないヤツが部のエースだっていうんだから、おちおち卒業だってできないじゃないか」
地に這いつくばっている女生徒たちを見下ろしながらそんな言葉を吐いているのが彼女、『蒔寺楓』である。今は引退した元陸上部の短距離走のエースであり、「穂群の黒豹」などという仰々しい異名をもつ彼女(自称)は、なんと去年の大会でインターハイにも出場するほどの実力の持ち主。そこで「決勝進出! 一歩及ばず惜しくも三位!」などというなかなか華やかな成績を残せた……というわけではないようだが、インターハイ出場というだけでも素晴らしい成績であることは言うまでもない。
そんな彼女の容姿はと言うと、特徴的なのがまずその短髪の黒髪。いかにも日本人らしい色の深みと艶があり、もしこれが腰まで伸びる挑発だったらさぞ日本人形さながらの美しいものだったろうと思わせることは間違いない。が、その日本人形とは似ても似つかないもう一つの特徴的なのが彼女の褐色の肌。まるで常夏で日焼けしたが如くその色、そして以前陸上部として鍛え抜かれた肉のつき方は、夏のサーファーを思わせるような活発さそのものだった。
この寒さだというのにジャージも着ない本格的なユニフォーム姿で、肩も太腿も大きく露出した姿は見ている側には色気よりも寒さを訴えてくる。しかし、当の本人は本当に常夏にいるのか、それとも熱血先生よろしくのまるで心ごと燃えているかのような……見るからに熱そうなご様子だった。さらには目下の後輩からこぼれる愚痴も一蹴し、即コースへ連れ戻すという有様。こんなヤツを先輩にもった後輩たちには同情を禁じえない。
一方、そんな彼女とは対照的に黙々と行動し、淡々と後輩に助言する者もいた。それが『氷室鐘』である。こちらも去年引退した元陸上部員で、彼女の方は高飛びのエース。蒔寺のようにインターハイまでは行くことは出来なかったものの、県大会ではなかなか優秀な成績を残せたとかなんとか。
彼女の容姿は蒔寺とはだいぶ対照的。灰色……いや、おさまりのわるい銀色とでも表現しようか。そんな色の長くボリュームのある後ろ髪、そして眼鏡にかからないように切り揃えられた前髪が特徴的。いつもは丸くフレームのない眼鏡をかけているのだが、今は高飛びの練習中ということもあってか眼鏡を外し、後ろ髪は束ねてポニーテール状にまとめてある。しかし、その髪型がちょうどマッチしていると言うべきか、高飛びのジャンプ中に跳ねるその髪が美しく躍動感ある馬の尾を連想させ、見ていてつい感嘆のためいきを漏らしてしまうほどのものだったりした。
性格も蒔寺とは対照的で、後輩たちに言葉少なくも冷静で適切なアドバイスを与えていく姿がよく見受けられる。そんな後輩たちを恨めしそうに見つめる先程の後輩たちに……再び同情した。
そんな女生徒たちの様子をこのように何故逐一述べられるのかと言うと、それは何故か俺が陸上部の備品であるハードルやら何やらを修理させられているからということに尽きる。ちなみに断っておくが、その俺は陸上部でもなければ、彼女らのような引退した元陸上部でもない。
三年、衛宮士郎。無所属……まぁ敢えて言うなら元弓道部、と言ったところだ。
というようなあまりにも無関係な俺が何故こんなことをさせられているのか、その馴れ初め……と呼ぶにはあまりにもおこがましいが、そこには唐突で理解しがたい点がいくつも見受けられるので今回は割愛しておく。ただ、さっき言った蒔寺楓、氷室鐘……そしてもう一人の元陸上部員である『三枝由紀香』という三人の人物が関係しているということだけは明白な事実なので先に断っておく。
ちなみにその三枝由紀香というのは……そう、校庭のトラックから少し離れた場所でストップウォッチとスコア表を持ってボーっと立っている人物のことである。
肩口あたりまで伸びたセミロングの茶色の髪、丸くタレ目がちな何とも穏やかそうな瞳、そして自分の胸の中にすっぽり収まってしまいそうなほどの華奢な体躯。その愛らしく小動物的な彼女はこの陸上部のマネージャーにしてマスコット的な存在でもある。もちろんそれは姿形のみならず、大人しいが気は利くし面倒見もよく、優しさが体現したかのような笑顔が皆から先輩後輩問わず愛されてきたことの所以かもしれない。
だが、今の彼女はどこからどう見てもそのマスコット的な存在である『三枝由紀香』からは縁遠いように見受けられた。
何故か――それは彼女の顔を見るだけで一目瞭然。眉は下がり、眉間にはしわが寄っている。加えて目もややきつく、頬は随分と強ばり、口は真一文字に閉じられている。本来の彼女の顔のパーツと今組み込まれているパーツの全てが明らかに異なっていた。三枝由紀香という人物のことをそれなりに知っている者であれば、これがいかにおかしなことか容易に気付くことができるだろう。
しかし、彼女とて一人の人間であり、年頃の女の子でもある。機嫌が悪かったり、気分が優れなかったりする日も当然あるだろう。もしかしたらあまり話しかけられたくなく、一人でいたい……そんな場合もありうるかもしれない。
だが俺はどうしても『心配』――という名のお節介なのかもしれないが、彼女に何か声をかけてあげたいという衝動を抑えることはできなかった。
「あ、あ……っと、三枝? どうかした……のか?」
だというのに、情けない。その声はどこかに戸惑いを残したうわずったものとして俺の口から発せられていた。
「えっ? あ……、衛宮くん? 衛宮くんの方こそどうかしたんですか? 突然」
振り向いて見せられた三枝の表情。それは先程遠目で見たそれとはだいぶ異なり、満面とまでは言わないまでもそれなりの笑みが湛えられていた。
「…………」
だがしかし、やはりその笑みはいつもとはどこか違う。何と言うか、無理して笑っている――そんな風にすら見えてしまった。
「いや、別に用ってほど用じゃないんだけど、なんか今日の三枝調子が悪そうに見えたから」
「そ、そうですか? そんなにおかしな顔してますか?」
「い、いや。おかしな……って言うか」
三枝はまるで福笑いでもするかのようにぺたぺたと慎重に顔の表面を探っていく。しかし当然のことだが、そんなことをしたところで表情が変わるはずもない。けれど、その少し間の抜けた様子はどこかいつもの『三枝由紀香』を感じさせ、俺に僅かながらの安堵は与えてくれた。
「別にどこも悪くないとかならいいんだ。ちょっと気になっただけだから」
「あ……う。実は、その……」
たぶん俺に心配をかけてしまった――とでも本気で思い、後悔の念でも覚えてしまったのだろうか。心根があまりに純粋すぎるというのは確かに素晴らしい美徳ではあるが、隠し事の一つもできないというのは少々厄介なところなのかもしれない。
「やっぱりどこか悪いのか?」
「い、いえ。悪いというほどに大袈裟なものじゃないです。ただ、最近寝つきが悪くて、あまり寝れてないんです」
なるほど。言われてみれば確かに目の辺りにうっすらと隈のようなものが出来ているように見えるし、心なしかやつれているようにすら見える。
「大丈夫なのか? 帰ってゆっくり休んだ方がいいんじゃないか? なんだったら、明日学校休んだっていいと思うし」
「それは……ダメ、です」
「なんでさ? 三枝ならもうとっくに出席日数だって足りてるだろうし、短大にだって合格してあとは卒業を待つだけだろ? 一日くらい休んだってバチは当たらないだろ」
そう。先程も言ったように今はもう二月も半ば。三月の卒業式まではもう二週間かそこらにまで迫っている。故に三枝たちなどのように進路も決まり、卒業の単位にも問題のない生徒たちはもう学校に来る必要はない……所謂、自由登校という時期なのである。
だというのに、こうしてわざわざ後輩指導のために学校に来ている彼女らはなんと後輩思いなのだろう……そう褒め称えたかったが、何故か部外者の自分までそれに付き合わされているという理不尽さにその賞賛の言葉は咽喉の奥で留まってしまった。
とにかく、そんなわけあって身体に鞭打ってまでして学校に来る必要はないのである。今はゆっくりと休んで、万全の体調で卒業式を迎えられることが最も望ましい。もしこのままの状態を引きずって肝心の卒業式を欠席などということにでもなったらもう目にあてられない。
「無理はするなって。俺でさえ気付くぐらいだ。蒔寺や氷室なんてとっくに気付いてるだろうし、すごく心配だってしてるはずだ」
「かも……しれません。でもダメなんです。どうしても」
「まさか皆勤賞を狙ってるとか、そういうの?」
少し冗談交じりで問いかけるのだが、予想に反して三枝の表情は真剣そのものだった。
「まさか。そんなんじゃないです。ただ……『見ていたいな』って思うから」
「見ていたい?」
俺は辺りを見渡す。徐々に紺が混じりつつもあるが、変わることのない校舎、変わることのないグラウンド、その中心には三枝が毎日のように出会っている親友たちと陸上部員。その光景は手垢を残すほどに繰り返し見て、本当に見飽きるほどに見てきたもの。それを彼女も俺に倣って見渡した。
「蒔ちゃんも鐘ちゃんも楽しそうですよね」
「ん? あぁ、そうかもな。受験から解放されたことによる憂さ晴らしでもあるんだろうけど」
「ですね。でも、見ていたいんです。二人が楽しそうにしてる姿ならなんでも」
「三枝……」
そんな風に言う彼女の姿を見て、改めて彼女らの絆の強さを知ったような気がする。
だが、その逆だって正しいはずだ。三枝がそう思っているのと同様に、二人だって間違いなくそう思っている。
「なら、蒔寺も氷室だって三枝の具合悪そうな姿なんて見たくない。笑ってる姿が見たいはずだ」
「衛宮くん」
我ながらなんてクサイ台詞を言ってしまったんだ、なんてことは自覚していた。
故に三枝の視線を頬に感じながらも、俺は目の前の光景から視線を外すことはしなかった。そしてそんな俺の態度を見て、三枝は少しだけ微笑んだ……そんな気がした。
その後、結局はほとんど最後まで付き合った三枝は蒔寺と氷室に押し切られてようやく家に帰ることとなった。その後姿は少しだけ寂しそうに見えて心苦しかったけれど、元気のない三枝をこの後も見続けることに比べればずっと楽だった。恐らく二人にとってもそれは同様だろう。
だから安心していた。明日にはきっと元気な姿が見れると。
だから気にもかけなかった。単なる寝不足なんだと。
だから考えもしなかった。彼女が何かに悩んでいるなどと。
だから思いもしなかったんだ。まさか後日にあんなことになろうなんて。
もし分かっていたのなら、俺はあんな暢気にここ最近の日々を送っていなかっただろう……。
夜――闇のヴェールに包まれて深山の町自体が深い眠りにつく頃合。
その町のとある一角にある家においてもそれは例外ではなく、睡魔と静寂にまみれていた。
その家の一つの部屋にはいくつもの布団が敷き並べられ、そこに『川』の字よりもさらに何画か多い数の人が横たわり眠っていた。ここだけは少し静寂という雰囲気とはかけ離れているかもしれない。音程もリズムも大きさもまるで異なるいびきが不協和音のごとく響き渡っている。
そんな中、一番隅……そこには他のよりも若干大きな布団が敷かれているのだが、そこらは周りとは異なり、微かないびきすらも聞こえてはこなかった。
「…………」
ゴソリ。微かな衣擦れの音を立てながら布団の包まれたその塊が動きを見せる。そしてその中からゆっくりと小さな頭が顔を出した。
三枝由紀香――それが彼女の名前である。
暗がりのせいで周りからは視認できないが、その表情は明らかに悪い。
もう何時間も前に日付が変わっているくらいの時刻にはなっていて、彼女とて本来ならばもうとっくに寝ている時間である。だというのに、今日もまた彼女は眠れていない。
周りのいびきが煩いから? そう思われるのが至極普通のことなのかもしれないが、彼女に限ってはそうではない。何年もの間、彼女はこの部屋で、この弟たちと共に眠っている。故にそんなのは彼女にとって今更のことであり、このせいで眠れないということは特になかった。
「…………」
由紀香は再び目を瞑る。だが、やはりすぐに目を開けてしまう。
よく「無理にでも眠ろうと意識してしまうと、逆に眠れなくなる」というようなことが言われるが、彼女の場合はそれともまた違う。言うなれば、眠ることを拒んでいる……そんな感じにも見えるのである。
「……うぅ」
その理由は分からない。彼女自身は気付いているのか、彼女自身すら分からないのか。
しかし眠らないにしても眠れないにしても、気分を紛らわせるために何か別のことをする……というわけにもいかない。時間が時間であるゆえに、横で寝ている弟たちや別の部屋で寝ている両親にも迷惑をかけてしまうから。
だから彼女はするのである。周りに迷惑をかけず、それでいて今の気分を紛らわせることができることを。
「んっ」
由紀香は手をそっと身体と敷布団の間に潜り込ませる。指先が冷えているせいか、身体に敷かれてやんわりと熱をもった布団がその手を温かく包み込む。そしてその温もりに導かれるようにして指はさらに奥へ……自身の下腹部へと歩みを進めていた。
「……く、ぅ」
その、中でも一際柔らかい肉が厚手の服を伴って、弾力よく指を押し返す。
「っ、ふ……ぅん」
もどかしい感触と感覚に、由紀香の口からは自分以外の耳には届かないほど微かなためいきの音がこぼれる。というよりも、むしろ自分以外の耳には届いてはいけないのである。自分の弟たちに自分のこんな声を聞かせるわけには……。
「……くふっ。んぁ!」
だが、この禁忌的な状況が由紀香のことをより高ぶらせ、たまらず少し大きめの声を漏らしてしまう。
(いけない……こんなこと。こんなはしたないこと、やめなくちゃ……)
だから必死に抑えようとする。だが、それはまるで逆効果のように気持ちが抑えつけられなくなっていく。これはある意味、先程の『意識』の問題と同じかもしれない。無理に眠ろうと強く意識してしまうことで逆に眠れなくなってしまうのと同様に、無理に止めようと強く意識してしまうことで逆に止められなくなってしまうという……そんな意識の。
「っ!!」
だから由紀香は頭から布団を被り、どうしても止めることの出来ない声を遮断させる。
布団の中という篭もった空間。閉鎖された空間。
部屋の中とは言え、二月の冷たい外気からは遮断された生温い空気がその中には充満している。熱だけでなく、匂いも伴った空気が。
「はぁ……、はあ、はぁ」
その中で由紀香の行為は一層激しさを増していく。
最初はただパジャマ越しに下腹部を指で『触る』だけだった。だが、次第に動きは『触る』から『撫でる』へ。そして『撫でる』から『擦る』へ。息の荒さとともに指の移動距離はどんどん増していった。
「あ……はっ、んあぁ……。やぁめ……だよ。ま……、……ゃん、え……くん」
ついにはためいきではない明らかな喘ぎ声……そして意識的な言葉すら漏れ始めた。
ゴソリ。また布団と着衣の擦れる音が響く。最初のときの音と比べるとそれは明らかに大きく、見た目的な動きも大きかった。
布団が山なりに膨らんでいる。彼女がその中で腰を曲げ、持ち上げたからである。そしてショーツごとパジャマを太腿あたりにまでずり下げ、剥き出しになった下腹部に両手を添えている。
「ふ……、んんっ。ん……ぅ」
しかし顔だけはしっかりとシーツに押し付けて、必死に声を殺していた。
これが彼女の……三枝由紀香のここ最近の『普段』の格好。
彼女はこうやって眠れない夜を過ごしていた。
最初は興味半分だった……と彼女は言う。気を紛らわせるための一時的な行為だと。
だが、回を重ねることによって明らかに意図は変化していった。人間が朝に起きて、昼になったら食事をしたりするのと同じように、この時間になって布団に入ったら『する』……それが日常、当たり前の行為となっていた。
「あっ、うぅ……。……ちゃん」
そう、日常的なものなのである。彼女にとっては。
「ふあぁ! 蒔ちゃん、鐘ちゃん…………、衛宮……くんっ!」
彼女ら、そして彼と共にいることは。
「……ひぐっ。ん、ん、んんぅぅーーっ!!」
そして彼女は達した。快楽という高みへ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
荒い呼吸……その吐息が目の前のシーツを反射して汗の滲んだ額を撫でた。また、その額以上に濡れているのは彼女の指、そして足元のシーツ。自分の下腹部から溢れ出た液体が両指に絡みつき、その指の隙間からも溢れ出てしまった液体はシーツにじんわりと沁みを作った。
「う、うぅ……」
また一つ、彼女の肌を伝って落ちた液体がシーツに沁みを作る。真下にできたその沁みを隠すように由紀香は自分の顔をそこに押し付けた。
「……っ、うぅ。……っ、っ」
そして、声にならない呻きをあげて…………泣いた。
あれから数日が経った月曜の朝のこと。空は突き抜けるほど高く、そして青々と頭上に拡がっている。
俺たちなどは自由登校の期間でも毎日学校に顔を出していたので特に何ら変わりもないが、その間学校に来ていなかった生徒たちにとっては久しぶりの学校ということで、互いに受験を終わらせた友人たちとの再会を喜ぶ者もいれば、わざわざ学校に来なければならないことに不平不満を抱く者もいた。
だが、久しぶりに三年生が戻ってきたことによって学校に賑わいが戻るというのは疑いようのない事実であり、この登校路である坂にも人が溢れていた。
「よぉ、衛宮。久しぶり〜」
そんな中、フランクな態度で呼びかけ肩を叩いてくる誰か。とは言っても、その声で容易に判断できるのだが。
「俺の記憶が確かなら一昨日会ったはずだったが……蒔寺?」
そうして振り返った先にいたのはその名の通り、蒔寺楓。もう言うまでもないことだが、いつも付きあわされている元陸上部員である。ちなみに昨日は休みだったせいで顔は合わせなかったが、「久しぶり」という言葉が出てくるほどに久しぶりであることはないのは確かだ。
「まぁ、衛宮とはほぼ毎日会っているからな。蒔の字にとってはたった一日でも会えないのが寂しいのだろう」
「ちょ、おま――っ! な、なな……なに言ってんだ、鐘は!? そんなわけねぇだろ! 誰がこんなヤツと……」
「そうムキになって否定するところがますます怪しいな、フフッ」
「な、なんだと〜」
朝も早くからこんな光景を見せられて、俺はうんざりとばかりにため息をつく。
果たして俺はこんなやりとりをどれほど目の当たりにしただろうか。一度や二度どころじゃない。恐らく両手足の指を使っても数え切れないほどだろう。
だが何度あったところで、俺にはこの状況を打開する策を持ち合わせていなかった。何故なら、こういうときは必ず……、
「もうっ。蒔ちゃん、鐘ちゃん。朝から喧嘩しちゃダメだよぉ」
このように彼女が間に入ってくれるからだった。
「由紀っち」
「由紀香」
「三枝」
三者三様の呼び方でこの場に登場した彼女のことを出迎える。
「おっ? 今日はだいぶ元気そうだな。なによりなにより」
「う、うん。ごめんね、ずっと心配かけちゃって。もう大丈夫だから」
可愛らしく拳を握り締めながらそう語る様子を見て、俺も安堵した。蒔寺の言う通り、今日の三枝はいつも以上に元気いっぱい……という感じだ。恐らく昨日部活が休みだったおかげで、きちんと休息がとれたのかもしれない。
なんにせよ、このように三枝が笑っているというだけで周囲の空気に華が咲いたように感じるというのだから驚きを越して感嘆すら覚える。
「ん? どうかしたんですか、衛宮くん?」
――う。流石にこの笑顔はまずい。可愛いということに異論はないが、それは異性としての可愛さではなく、同性異性関係のない可愛さというか……。あるだろ? キャラクターもののマスコット的可愛さとかそういうやつって。三枝のはまさにそんな感じだ。
「おや? 今度はなにやら由紀香と衛宮が怪しい感じだが……?」
「か、鐘ちゃん!? も、もう……何言ってるの」
「フフッ。こっちも同じ反応か。モテモテじゃないか、衛宮? ……ふむ。しかし、そうなると私だけ仲間はずれになってしまうというのは気分が悪いな。ならば」
と言って氷室が取った行動は…………俺と腕を組む、というもの。そりゃあもう、傍から見れば十中八九は恋人同士に見られるであろうほどに密接かつ親密そうに。
「ちょっ!? 何やってんだ、お前は!? 離れろっての!」
「はわ、はわわわ!? け、けんかはダメだよ……蒔ちゃんも鐘ちゃんも」
そしてそれを阻止しようとする蒔寺が俺と氷室の間に割り込もうとし、腕を組んでいる逆側では二人を制止しようとしながらもちゃっかりとポジショニングしている三枝。
四者が入り乱れたこの光景は、もしかしたら周囲の者……特に男子生徒が見たら羨むかもしれない。『両手に花プラス1』なんてのは普通ではありえないことだろうし。
だが、はっきり言って「そんなに良いものじゃない」と一言断っておこう。見た目以上に結構カオスだ……色々と。
「……はぁ」
学校へと続く道――その坂の向こうの空を見上げながら、一つ大きなためいきをつく。それは呆れと諦めに満ちたためいきではあったが、意外にも憂鬱とした気分から出たものではなかった。
確かに「そんなに良いものじゃない」けれど、「そんなに悪いものでもなかった」。こんな風に四人で馬鹿みたいにしてられるのも卒業までのあと二週間弱……そう思うと余計に。
「衛宮くん、また。もしかして具合とか良くないですか?」
「え? なんでさ?」
右側半分はもはや放置状態で、左側にだけ意識を向ける。
そこにはちょっとだけ笑顔が曇った三枝の顔。
「さっきもそうでしたが、突然黙ったりしちゃうから」
「いや、ちょっと考え事してただけだから。あと二週間でこの高校生活も終わりか……なんてこと」
「早い……ですよね?」
「そうだな。なんかあっという間だった気がする」
色々あった――特に二年の今頃は――が、なんだかんだで俺にしては意外と高校生らしいと言えば高校生らしい三年間を送れたのではないか、なんて思ってしまう。遠坂……はかなり論外だが、桜や一成、そして何よりこの三人と知り合えたことがその『意外と』を助長してくれた気もする。
そしてその意外さが、俺にこんな言葉まで口走らせていた。
「悪くなかった。……そうだな、楽しかったと言ってもいい」
「衛宮くん」
とてもじゃないが隣の二人には聞かせられないようなことを言ってしまっているが、三枝は馬鹿にすることも嘲うこともなく、真剣に聞き入れてくれた。
「そうですよね。楽しかった……ですよね? 本当にすごく楽しかったですよね?」
「えっ? あ……あぁ、そうだな。すごく楽しかったと思う」
だが、妥協を許さないと言おうか鬼気迫ると言おうか、とにかく真剣そのものの瞳で見つめながら、三枝は必死にそう語りかけてくる。
握り締められた左手が少しだけ痛い。
「それなのにもうおしまい。楽しい時間ってどうしてこんなにも早く過ぎちゃうんだろう?」
「三枝……?」
「あ……。ご、ごめんね、衛宮くん。朝からこんな話しちゃって」
「いや、別に。それにこれは俺が言い出したことだから」
この言葉で互いの会話は終了した。
三枝が言わんとしていることは俺にも理解はできた。だが、それと同時に俺も三枝もこのまま続けても、恐らく互いに「ごめん」を言い合うだけだと理解していたから。それに、この『悪くない時間』というものを浪費してしまうだけだと気付いたから。
「あっ、猫さん」
「?」
まるで狙い済ましていたかのようなタイミングで先程とはまるで無縁の言葉を三枝は発する。すると彼女は突然その場に座り込み、いつの間にか現れていた猫に手を伸ばしていた。
「すごい綺麗ですね、この猫の毛色。真っ黒なのに宝石みたいに輝いてて」
三枝がその猫の顎先を優しくくすぐってやると、非常に気持ち良さそうな表情をし、可愛らしい鳴き声をあげた。
「それに、すごく可愛いです」
「……あぁ」
そんな三枝と猫のたわむれている光景を見て、ついつい笑みがこぼれてしまう。やはり三枝はこういう優しい表情をしているときが一番良い。見ているこちらまで優しい気持ちになれるから。
いつもの『悪くない時間』がまた音を立てて刻み始めていく。
蒔寺がいて、氷室がいて、そして三枝がいて。その輪の中にほんのちょっとだけ俺もいて。そんな時間が……。
本来、三年生はもう自由登校の期間であるために卒業式までは学校に来なくてもいいのだが、なぜ今日皆が登校してきているかと言うと、それは卒業式の簡単なリハーサルであったり、学校に置いてあるものの整理や清掃だったり、成績表の受け渡しだったり……そういった雑務のためである。
最初は皆が面倒そうであったものの、始めると意外にも皆名残惜しさもあるのか、その最後のイベントをそれなりに楽しんでいるようでもあった。まぁ、元生徒会長として答辞のために壇上に立つ一成の様子は真面目一辺倒であり、その表情には楽しさの欠片も見当らなかったが。
そうして今日という日が過ぎていく。特に中身のない――大半の生徒にとっては取るにも足らない、いくらか経てば日常という奔流に飲まれ流されてしまうような一日が。どうせ今日が何月何日の何曜日でどんな出来事があったのかだなんて、あと何年もすれば記憶の彼方に消えてしまうのだろう。
俺にとっても多分そうだ。学校に行った。陸上部に付き合った。早めに切り上げてバイトに行った。それはあまりにも普通すぎて……普通すぎるから記憶できない。特定の一として。
だが、三百六十五の中の一としては記憶できないまでも理解はできる。
当然だ。一部例外はあれど、一年三百六十五日というのは世界のきまり。自分の記憶にもう無いからと、一年が三百六十四や三などに変わるわけもない。
だから自分たちに認識できるのは、『過ごしてきた日常』とか、『楽しかった時間』とか……そんな漠然としていて、かつ曖昧な己の道程くらいだろう。記憶の足跡はおそらく次の日になってもまだ残っているだろうが、さらに歩みを続けることによって離れていき、そして見えなくなる。後々は消えてしまう。それは人の脳というのがその全てを記憶しておけるほどのキャパシティを持ち備えていないから。
だが、歩いてきた道は確かに自分の後に存在していて、自分が歩いた分だけ進んだことも分かるだろう。つまり三百六十五歩分進んだとしたら、どこかで今日という一歩踏んだことは確かだ、ということである。
そうやって人は日々を過ごしてきたことを認識できる。もっと簡潔に言えば、「過去があるから現在がある」、「昨日があるから今日がある」と。そしてそれは、時間という一方通行な流れがあればこそのことだ、と。