B−Ash.様
一日が始まるのか終るのかどちらとも判断のつきにくい曖昧な時間に、ベッドの上で寝っ転がりながら浅い浅いため息を一つ。
この一つをどれだけ数えたか分からない。実はもう数十回も蟠った空気を吐き出しているのかもしれないし、ついさっき気がついたばかりなのだから、ひょっとしたらこれが僅か二度目ということもある。でも正直な所、回数なんてどうでもいい。きっとわたしの中にある蟠った空気は、いくら吐き出そうとしても出て行かないのだから。
蟠った空気の正体は……自分でもよく分からない。
よく分からないんだけど、ここまでどろどろになっているともう志貴と会うだけで全部吐き出して楽になれるということはない。もしかしたら、会ってしまうことで余計にドロドロになってしまうことだって在り得る。だって志貴のことを考える度にため息が、ほらまた一つ。わたし、どんどん息苦しくなってそのうちに窒息しちゃいそう。早くこの胸にまとわり付くものから開放されたい。だから悪化してもいいからとにかく志貴と会って少しでも楽になりたいんだけど、今はあの屋敷に行くことができない。
志貴と妹から散々言い聞かされた「テスト期間」今はその三日目で、それは明後日まで続く。この期間中、学生はそれまで学んだ成果をちゃんとした資料として残すべく奮闘して、自分がそこで何かを成したことを残すものなのだという妹の説明は半分くらいしか信じていないんだけど、でも志貴もテストだけはしっかりやっておきたいって言っていたから、わたしはテスト中に会わないっていう約束をした。志貴は「屋敷にさえ来なければいいんだぞ」。なんて言って妹に怒られてたけど、それだとわたしがダメ。会わないっていうくらいの決意じゃないと、きっと我慢できずに会いに行くだろうから。
志貴と会わないわたしの生活は、ドーナツの穴だけ食べているような感じ。無意味な時間だけがカチコチカチコチと刻まれて行く。するべきことなんてほとんど無いし、したいことだってあんまりない。いや、したいことはいっぱいあるんだけど、そういうお楽しみはなるべく一人より誰かとやりたかった。だからなるべく一人で楽しむことだけをして過す。読書、音楽、ちょっとした裁縫、などなど。
けれども、楽しんでいるというよりは時間を忘れるためにしている。だから読書した本の内容は半分くらいしか覚えてないし、音楽だって途中から寝てしまったし、ちょっとした裁縫の成果は以前作ったものよりも二周りも大きい志貴っぽい人形だった。
枕元に置いておいた二代目シキにんぎょうを抱きしめる。ふぎゅう。綿を少し多めに入れておいてよかった。少しは抱きしめている感じがする。ちょっとだけほぐれた空気を今の内にと吐き出す。対して変わらない息苦しさに気が滅入りそうだった。これが本当の志貴だったらもっと楽になれたのかな。今はそんな簡単なことにさえ答えを迷う。
今までなるべく考えないようにしてたけどもうムリだ。志貴のことを考えよう。今頃は屋敷で一生懸命に漢字を覚えたり数式を解いたりしているんだろう。わたしに散々テストの偉大さを説いた妹のことだから変なことはしてないだろうけど、でも妹も琥珀もメイドも居る屋敷っていうのは、少なくとも志貴にとって女には事欠かない環境だったりするのだろうか。きっとそうだ。なんだかんだと言って妹はまだ諦めてないし、琥珀もメイドも妹に気を使って隠してはいるけど普通に好きっぽいし、なにより志貴がその三人に対してまんざらでもないっぽいし。加えて学校に行けば、シエルが居る。あいつのことだからこれをチャンスにと勉強を教えたりしながら志貴に近づいていたりして。ありえる。ふつーにありえる。志貴もまたシエルのことは嫌いの反対ぐらいに思っているみたいだし、何より志貴はそういうことに一々気を使ったりするようなタイプじゃない。
そういう所もひっくるめて、わたしは志貴のことが好き。大好き。超大好き(この前超とつけたら何故か怒られた。なんでだろう)なんだかんだと言ってそんな環境なのにわたしの所に通い詰めてくれているってことは、わたしが一番なんだってことだ。なによりそうして気を使わない志貴が、わたしにだけは気を使う。これはもう勝ったも同然だろう。だから会わないなんて約束をした。志貴が誰と何をしていても志貴の中でわたしが一番であればそれでいいのだから。
ふと、一抹の思い付きが不吉な風を運ぶ。
今は本当に、わたしが一番なのだろうか。
確かに志貴とわたしの間には、愛情以上の何かが通っている。でもその何かと志貴の心を確かめる術をわたしは持ち合わせていない。
一度知りたくなってしまうと気になってしょうがない。ちゃんとわたしは志貴の一番で居るのだろうか。愛情以上の何かはちゃんと存在しているのだろうか。テストが終わってもちゃんとこっちまで通ってくれるのだろうか。またデートに連れて行ってくれるのだろうか。他の女になびいていないのだろうか……考えれば考えるほど良くない方向に走っていく。そんなことはない、なんて言葉を羅列はしてみるけど、自分で信じられていないのは明らか。そのうちにわたしはどんどん息苦しくなっていく。ギアを一段階上げたみたいに加速するドロドロ。これ以上は良くないと思ってもう考えるのは止めるんだけど、胸に残った空気はドロドロのまま。もう吐き出すことさえできない。
なんでこんなこと考えたりしちゃったんだろう。考えなければ良かったのに。
やっぱり……あれかなぁ。
数少ない知識の中で一つだけ、こういう事態に陥るのは不味いという状況を知っている。で、今のわたしたちは見事にその状況に当てはまってしまっている。最初はそんなのまさかだよ、気にすることないって。と思っていたんだけど体験してみてよく分かった。その状況に陥るということをわたしは深く理解していなかった。
その不味くなる状況というのは、性生活が乏しくなることだ。
志貴はわたしが吸血鬼だっていうことを考慮してるのか、そういう話はあんまり持ち出さないし行為に及ぶこともない。そりゃ、しないなんて事はないんだけど一月に一回あるかないかなんてペースは流石に少ないと思う。男の人ってそんなペースだとやっぱり不満だよね。わたしだって不満かも、なんて思い始めてしまったのだから間違いない。
いや、一つ嘘をついた。確かに吸血鬼だっていうことも考慮してるけど、本質は違う。わたしがそういうことに疎いことを志貴は考慮してるんだと思う。
はっきりと言ってわたしにその手の知識はほとんど無い。ほとんど無いから志貴とやってるときはわたし総受け志貴総攻め。提案するのも二人して我慢がピークに達した時。逆に不健全なことこの上ない。せめてわたしから話を切り出したりエッチなことを仕掛けられればいいんだけど、それもままならない。
別に嫌いなワケじゃないのよ?
ただ、うん。やっぱりわたしは怖がってるんだと思う。
志貴があんまり好きじゃなかったらどうしよー、とか。スケベな女だって呆れられたらどうしよー、とか。らしくもなく先のことを考えて歩みを止めてしまっている。それもこれも宙ぶらりんな好きっていう感情が悪いんだけど、地に下ろすためにはやっぱり志貴から直接確かめるしかなくて、直接確かめるにはやっぱりエッチなことしか思いつかないわけで、という堂々巡りを繰り返しているウチにもう胸が苦しくなって思考放棄。ぽむんとシキにんぎょうの頭に顔を埋めて頭を冷やす。
結局わたしは不安なんだろう。胸に蟠っている空気の名前も、多分それ。
愛なんて不確かで曖昧なものがはっきりと確認できないからという、贅沢で甘くて重大で辛い理由で、わたしは不安に押しつぶされているんだ。
あーもう。どうしようどうしようどうしようどうしよう。こんなんじゃ寝られないよ。好きと普通と嫌いという一直線上の点で結んだ一次元の間に、どうして中間の感情があったりするのだろうか。ただわたしは好きで居たいだけなのに、心はどうして点の上に留まってくれないのか。
誰か……この切なさをどうにかして!
わたしが読書をしていることを知ると、決まってみんなツチノコに遭遇したみたいな驚き方をする。失礼よね。暇くらい一人で潰せるようになりなさいって言ってきたのは向こうなんだから褒めてくれてもいいくらいなのに。
読書自体は、映画と同じで始めてみるとこれが意外と面白かった。文字を羅列する、ただそれだけの行為なのに、同じような事を色んな形で表現しているし、作家によって独特の言い回しがあったりしてほんとに飽きない。中にはみんなと同じ表現しか使ってない作家も居たりして、しかもそういうのに限って書店で売れてるらしいけど、あんまり読んでて楽しくなかった。わたしが欲しいのは安定した面白さのストーリーじゃなくって、その作家らしさが全面に出ているエネルギッシュな物語と文体だった。和より個だった。妹曰くわたしが好きな系統は「邪道」らしいけど、邪道を王道のように歩いている妹が言うことは少しアテにならないと思う。
あとダメなのは純文学というジャンル。これは仕方が無かった。だってわたしは吸血鬼なんだから、人が人らしい側面をどうこうする部分を全面に出されても理解できない。その逆でミステリやライトノベルみたいなエンターテイメント性の高いモノはすんなりと読めた。血の滲む努力の果てにライバルを打ち倒すなんていう展開や、やる気の無い慢性的な記憶喪失障害の主人公が精神的な病として悪魔扱いされている人間を払っていく姿を叙述トリック多用で描くエセミステリなんて感じの、楽しさが強調されている作品は吸血鬼だって面白いものなのだ。あとそういうエンターテイメント性の強い作品で、特に吸血鬼が出て来ると素直に面白くなる。ま、吸血鬼が出てくるのは志貴の読んでる「漫画」の方が多いんだけど、人間の想像力の豊かさに感心してしまう。こんな吸血鬼を想像するんだ。人間って。
さてここで、昨日読んだ本のお話。
目が見えない女の人間が一人暮らしをしている所に、殺人の容疑で追われている男の人間がやってきて、目が見えないのをいいことに隠れさせてもらうというストーリーの本。ラストに入る前に寝ちゃったんだけど、途中まではそこそこ楽しんで読んでいた。目が見えない状態の奇妙な同棲。女の人間は男の人間が居ることを知らないんだけど、徐々に気がついていってしまうのだ。面白いのはそれから、普通は殺人容疑の男が居るなんて分かったら怖くなって通報するなりなんなりするんだろうけど、その女の人間は歩み寄り始めるのだ。こういう常識的とは真逆の展開がわたしは大好き。
見えないという常に不安を抱えている女の人間が、爆弾級の恐怖と相対した時、けれど恐怖から感じ取れた優しさを明りに進んでいく姿は中々自分にタイムリー。硬球が顔面直撃ぐらいのショックがあった。わたしも不安に大してこんな感じに勇気を持ちたい。
問題はそんな単純なきっかけで屋敷の前まできてしまった、わたしの不甲斐なさと単純さだろう。こんなこと言ったらきっとシエルや妹から馬鹿にされるんだろうな。気にしてないと思ってるんだろうけど、みんな嫌なことはわたしだって嫌なのに。
時刻は午後の四時半。この時間帯なら志貴は絶対に屋敷に居るだろう。窓の近くまで行けば顔が見られると思うと今すぐにでも行きたくなるんだけど、でもそれじゃいけないって何かが訴えてくる。今はだめだし、今のままでもだめ。わたしがここに来るには早すぎる。
でも足はその場から離れてくれない。早くこの切なさをどうにかしたい。志貴の顔をみてついでにちょっと話をして安心したい。約束を守らなくちゃという理性と今すぐにでも会いたいという欲求と、今はいけないという直感みたいな何かがわたしの中で鬩ぎ合う。いつもならこんな難しいこと考えてないでごーごー! ってお邪魔するんだろうけど、今のわたしには到底できそうにもない。志貴がわたしを嫌いになってしまいそうな行動は、呼吸だろうとしたくなかった。
いっそのこと誰かに相談してみるとか?
でもシエルは同じくテスト中だし、妹は聞いてくれそうに無い。メイドは逆にメイドが困りそうだし、琥珀は……ちゃんと聞いてくれそうな気はするけど、何が起こるか分からない。って、そういえばこの近所でわたしの知り合いって言ったらこのくらいなのよね。うーん。きっと誰かに一杯の言葉を預ければ纏めた答えが返ってくるんだろうけど、してくれる相手が居ない。当たり前っちゃ当たり前なんだけど、今だけはとても悲しいことのように思えてしまう。
もう琥珀でもいいから実行してしまおうかな。
でも屋敷に行かないといけないし、そしたら我慢できなかったことになる。
愛情以上の何かを信じるからでこそ今はちゃんと我慢しなくちゃいけない。八百年に比べればあと一日くらいどうってことないじゃない。そんな自分を言い聞かせるためだけの言葉で頭を埋めて反転。そのまま歩き出そうとして人にぶつかってしまった。ごちーん。額と額がぶつかりあって文字通り星が見えてしまった。お互い悲鳴をあげながら尻餅をついてしまう。
「いたたたた……もう、しっかり前見てよね!」
とっさに怒鳴りつけてしまう。でも明らかに悪いのはわたし。
「あいたた……ごめんなさい、怪我はなかった?」
わたしが悪い。それは相手にだってわかっているはずなのに、ぶつかった人間は怒鳴ってきた相手に対して優しい声音で尋ねてきた。
流石にこれはひっこむしかなかった。「うん。大丈夫だけど……貴女も大丈夫?」わたしの体が人間と接触したくらいで怪我をするハズがない。むしろ相手のほうが心配。「大丈夫よ。このくらいなら」このくらいなら、というのはまだ立ち上がれなかったりする理由だろうか。なんだかバツが悪いので、わたしから先に立ち上がって手を差し出し起こしてあげる。
その人間はわたしと同じくらいの身長で、女の人で、落ち着いた雰囲気をしていた。もちろん初対面。この近辺で見かけた事はない。
「もしかして、遠野のお屋敷に何か御用でしょうか? さっきからずっと見てたみたいですけど」
あ、不審者に見られたかな? でもわたしは不審者なんかじゃないので堂々と返す。
「用事があるとするなら、そこの屋敷のドラ息子になんだけどね……」
「あら志貴君に? なんでしたらお取次ぎしましょうか?」
言って門に手をかけようとするんだけど、わたしは気がつけば慌てて止めていた。不思議そうに首を傾げる人間の女の人に、けれどこちらから気になる部分を質問する。
「もしかして妹の知り合い?」
「妹って言うと……秋葉さんのこと? 知り合いだけどちょっと違うかな。お父さんがこの屋敷の専属医をしていて、私も時々お手伝いに来てるの」
それだけだろうか、いやそうじゃないだろう。この人間の言った「志貴君」からはもっともっと、それこそ妹の「兄さん」やシエルの「遠野くん」より近い距離を感じる。なんでだろう。ただ名前を呼んでいるだけなのにこんなに親しみが込められているなんて。ムカつく。
知らず知らずのうちに声に怒気が入ってしまうんだけど、今のわたしには到底抑えられそうになかった。
「……今は志貴に会いたいんだけど、けど会っちゃダメなの。だから今から帰るところ」
「そっか。学生さんはこの時期テストか」
「っていうか貴女何者よ。なんでこう志貴の周囲には女が多いわけ?」
「……あ、もしかして。貴女が志貴君の新しい恋人さん?」
────え? いまこの人間なんて言った!?
恋人って、なんで!?
声に出すことなく驚いていると、ああやっぱりなんだぁという納得の声が返って来た。
「へぇ。志貴君ってば、随分と美人な人を捕まえてきたみたいね」
「な……なんで分かったのよ」
「秋葉さんや琥珀ちゃんから色々聞いてたの、貴女のこと」
「あんまりいい話じゃなかったでしょ」
「そうね。ある意味で聞いてる通りだし」
「なに、貴女も志貴がわたしと付き合うことに反対してるの?」
「ううん。二人には悪いけど志貴君がちゃんと新しい恋人作れてわたしは嬉しいわ」
「なんで貴女が嬉しがるのよそこで」
「うーん。離れてった身としてはやっぱり後のことって気になるし」
「気になるし?」
「志貴君のことが嫌いになったわけじゃないから」
「……貴女も志貴のこと狙ってるの?」
「ふふ、違うの。わたしはどっちかっていうと諦めた方で、もう終えちゃった方」
「終えちゃったって……なんで?」
「わたしのこと、志貴君から聞いてない?」
「全然」
「そっか、話してないんだ。じゃあわたしから話さない方がいいかな」
はっきり言って良くない。また志貴のことを思ってる、それもわたしの知らないヤツが出てきてこのまま返せるハズがない。普段だったら気にしないんだろうけど、今のわたしにはできない話だった。それじゃあ志貴君から聞いてね。と言って去ろうとする手を捕まえる。あら? と驚いてる顔に、緊張する顔で告げる。
「どっちかっていうと話して欲しいわ」
「でも志貴君が言わなかったなら、わたしから喋る権利なんて無いわ」
「いいから話して。それで志貴が後から文句言うんだったらわたしの責任でいいから」
そんなわたしのちょっと切羽詰ってる空気を察したのか、帰ろうとしていた女の人間はもう一度こちらへと向いてくれる。そして、「そんなに言うなら、分かったわ」と前置きしてから、言う。
「端的に言っちゃえば、志貴君とはもう分かれた元恋人。かな」
提案を聞き入れて場所を変えて今は町にある喫茶店の中で向かい合って座っている。歩きながら話を聞き進めるうちにこの人間の女は時南朱鷺恵という名前であること、二年前に大学進学のために上京したこと、その時に付き合っていた恋人と一時別れたこと、付き合っていた恋人が遠野志貴だということ、最近こちらへと戻ってきて志貴と完全に別れたこと、さっきはこの近辺に来たついでに琥珀と話をしに来たことを話してくれた。
席について注文は任せて、ウエイターが引っ込んでいってから朱鷺恵がさて、と前置きする。やわらかくも落ち着いている態度は今の志貴の周囲には居ないタイプで、なるほど志貴と居ても絵になるなという説得力が感じられた。
「その様子だと、志貴君の優柔不断なところが全面に出ちゃってるみたいね」
そして妙に志貴のことに詳しかったりあんまり喋ってないのに的確に状況を読まれていたりと、なんだか面白くない展開が続く。
「そう。志貴ってばわたしが居るのに、妹のこともメイドたちのこともシエル……あ、志貴の学校の先輩ね、のことも完全に断らないの」
「志貴君らしいなぁ。そのことで悩んでるの?」
「ううん。別にそのことで悩んでなんかいないわ」
ちょっと意外そうな顔をする朱鷺恵。運ばれてきた紅茶をくっと一口飲んでから言葉を続ける。
「それも志貴の優しさの現われだと思うし、そんなんだからわたしとこういう関係になったんだから、その部分を嫌いになるハズが無いわ。むしろ有り難いくらいに思ってる。それに志貴の中でわたしが一番ならそれ以上に望むことなんて、ない」
これを聞いた朱鷺恵はなるほどなるほどと頷く。
「そっか、うん。思ってたのと全然違う」
「……思ってたより、どうなのよ」
「可愛くてステキだなって。志貴君が好きになったのも分かるなぁ」
「えっ? ……そ、そう」
この時、はっきりと言えばわたしは初めての感情を覚えていた。嬉しいような恥ずかしいようなこそばゆいような、そんな感じ。
「ええ。わたしも気に入っちゃうくらい」
「……ほんと?」
「ほんと。下卑することなんてないわ」
ああもう、なんなんだろうこの気持ち。顔がひとりでに緩む。こう、にへらって。
「それじゃあ、多分こう悩んでるのかな
『肝心の志貴の気持ちが分からない』って」
にへにへと緩んでいた顔が一気に固まる。図星。まったくもってその通り。一字一句間違いが指摘できないくらい完璧。さっき言った言葉を少し訂正したい。なんでこう志貴の周囲には普通じゃない女が多いわけ?(自分含め)
図星の肯定は返事をする必要も無く、朱鷺恵の方からそうなんだと頷いてくれる。そして運ばれてきたケーキを、手を添えてゆっくりと上品に一口食べて、ゆったりとこちらのことを見つめてくる。優しいと感じてしまう視線は今のわたしにはとても有り難い。これで妹みたいなキツい眼で見られたら変な方向に転がってしまいそうだった。
心を落ち着けるためにわたしも一口。うん。美味しい。ラズベリーのきゅっとした甘酸っぱさが舌を通じて胸にまで届く。
食べたり飲んだりした分だけ、言葉は喉から漏れてくるものなのだと琥珀が言っていたことがある。それを今実感する。紅茶をさらに一口含むと、わたしは何気なく喋り始めていた。
ケーキが半分くらいになったところでわたしから吐き出せる言葉は尽きる。
ずっと頷くように聞いてくれていた朱鷺恵は、もう一度ゆっくりと頷いた。
「もう、こっちが困っちゃうな」
「あ……ごめんなさい。急にこんな、愚痴なんか言ったりして」
「ううん、それは全然構わないの。志貴君がらみのことは相談してくれた方がわたしも嬉しい」
「……じゃあ、困るって?」
「あなたの事。もう可愛くて可愛くて仕方なくなっちゃった、ってこと」
──なんなんだろう。志貴に言われないと嬉しくない言葉なのに、朱鷺恵が言うとなんか、こっちまで変な気分になる。
困ってしまってわけもなく紅茶をずずーっと飲んだりするんだけどそれもあんまり意味が無くて、そうこうしているうちに朱鷺恵からそれじゃと声が上がる。
「そういう悩みは女の子なら誰でも持つわ」
「……そういうものなの?」
「だってわたしたちは自分の心すら曖昧にしか分からない生き物だもの。他人の心なんて、それこそ分かりきれる人は居ないわ」
わたしは別に人間じゃないけれど、朱鷺恵の言う事はすとんと腹に落ちた。
確かに、わたしは今わたしが分からない。それなのに志貴のことが知りたくてしょうがない。そりゃ分からないハズだ。難易度を一桁くらいすっ飛ばしているのだから。
「だから確かめるしかないの。色んな方法でね」
「色んな方法って?」
「デートしたりして、それこそいっぱい方法があると思うけど……ああ、でも一つ勘違いしちゃいけないのは、セックスじゃ確認は難しいってことかな。男の子と女の子じゃどう頑張ってもセックスは別の捕らえ方しかできないから」
え……うそ。
セックスじゃ、確認できないの?
「そう。有体に言うと男の子にとっては結果で、女の子にとっては過程なのよ。この差はどう頑張っても乗り越えられないの。恋愛でのズレって、これが一番多い原因なのよ」
確かだと思っていた足場がスコーンと抜き取られたような気がした。同時にバットの真芯で捕らえられたような衝撃。きっと志貴は気にしてないんだろうけど、わたしのズレは今朱鷺恵が言ったことまさしくその通りだった。
「……あ、もしかしてその数の多いケースの一つ?」
胸に言葉が詰まってしまったので、こくんと頷く。
声無き返事を受け取ると、朱鷺恵はふぅむと言ってしばらく考え込む。たっぷりと、わたしが残りのケーキと紅茶に手をつけてそれでも吐き出せないのだろうかと悩み終わるくらいの時間をかけて考えてから、琥珀が時々見せる類の、何かを含む微笑みを見せた。
「ふふ。あなたさえ良ければ、手伝ってあげるわ」
「手伝うって、何を?」
「志貴君の心をちゃんと確かめることと、そのズレを直してあげること」
「! できるの!?」
「もちろん。それに、どっちかって言うと志貴君が悪いんだから……ね」
志貴が悪いっていうのは賛成したくなるような甘い言葉だけど、果たしてそれは本当なのだろうか。わたしが悪いっていうこともあり得るし、って言うか悩んでるのはわたしなんだから原因はわたしにあるんじゃ。
ああもう。やっぱり志貴が悪い!
「でも……貴女、まだ志貴に気があるんじゃないの?」
「あるけど、ちょっと心残りだったの。
安心して。わたし、あなたの事すごく気に入っちゃったから。志貴君のことならいつでも応援してるし相談もしてあげたいくらい。あとあなたがOKしてくれるとわたしの心残りも取り除けるの。そうなったら心配しなくても志貴君とは復縁しないわ」
どうなんだろう。朱鷺恵の言っていることは嘘なのか、はたまた本心なのか。
……ばか、わたしのばか。そんな贅沢なことを考える余裕なんて無いのに。
「…………それって、どんな方法なの?」
その言葉を待ってましたと言わんばかりに、朱鷺恵がその内容を言った。
わたしは、この時朱鷺恵が見せた顔をしばらく忘れられなかった。
優しくて妖しくて、危ないって分かってるのに飛び込みたくなるような笑顔だった。