残香


 この部屋の扉を開ける時は、いつも緊張する。幼い頃は何でもなかったけど、いつしか特別な場所になっていたから。顔を見知った年上の女性というだけだった住人が、次第にそれ以上のものになっていったから。
 数年間も曖昧な想いを持っていて、あの夜。本当に、俺にとって、特別な人になった。月日はずいぶんと過ぎたのに、未だに思い出すと平静ではいられない。
「ふーっ」
 大きく息を吐いて、ちょっと気合を入れて、ノブを握った。
「朱鷺恵さん、居ます?」
 言いながら、ドアを押し開けて一歩踏み込む。姿が無くて見渡しかけたら、扉の影から声がした。
「ん、志貴くん?」
 返事に安堵し、もう一歩入って顔を向ける。途端に、動けなくなった。予期せぬ格好だったから。
「久しぶりね」
 穏やかに微笑む朱鷺恵さんを前に、俺は絶句した。
「あれ、どうかしたの?」
 どうもこうもっ、何でそんなに落ち着いてるんですかっ。
「と、とき……ごめんなさいっ」
 やっとそれだけ口にした。でも、まだ硬直は解けず、むしろ真っ直ぐに石化の元凶を見詰めてしまう。
 朱鷺恵さん、まともに服を着ていない。着替えの途中だったのか、白いシャツ一枚。スカートとかストッキングとか穿いてなくて、要するに下は裸。なまあし。いや、ブラやパンツは着けてる。でも、シャツの前もちゃんと留まってない。
 息をするのも忘れているくせに、そんな風に隅々まで目線で舐めていた。
 ああ、そうだ俺、意志を振り絞るのに気を取られて、ノック一つしなかったっけ。
 シャツの布地は純白だけど、その下に覗く肌もやっぱり白い。血が通って柔かそうで、きっと温かくて……遠い記憶を鮮明に反芻してしまって、頬が火のよう。その温かみがまた、顔を擦り寄せた感触を想起させた。指先にも、肌触りが蘇る。
 なんでこんな姿の朱鷺恵さんと向き合っているのか、判ってはいても意識が付いて行かない。
 朱鷺恵さん、腰細いな。胸は結構あるのに。考えた途端に朱鷺色って言葉が浮び、乳首の色を連想したのだと気付いて脳が沸く。
「志貴くん?」
 うあっ。
「すいませんっ、出て行きますっ」
 やっと我に返って、急いで振り向く。まだ半裸の姿態が焼きついてる。臍の下のあたりが熱くなっていた。
「待って」
「はい?」
 呼び止められて、また固まる。
「ドア、閉めて」
 慌てるなと言ってくれたんだと思って、気を静めてから出て行こうとする。
「待ちなさい。出て行ったりしたら、大声出すわよ」
 出て行ったら大声……?
「ほら、志貴くんは部屋に残ったままでドアを閉めるの」
 それって?
 訳も判らないまま、ともかく従った。
「ついでに、鍵かけて?」
 えーっと?
 混乱に、またもや硬直していると、手を添えてドアノブに付いたボタンを押してくれる。指が重なっただけで、ぞわりと背中を走るものがあった。
「こっち向きなさい」
 言われて、ためらいつつ俯いて振り向く。まるで隠す気は無いらしく、伏せた目に、半裸の朱鷺恵さんがいっぱいに映る。平らなお腹の縦長なお臍の窪みとか、白いショーツを飾るレースとか、その布地を微かに透ける翳りとか、丸っこい膝とか。
 うしろめたいのと裏腹に、余さず眺めてしまう。
「志貴くん?」
「あっ、はいっ」
 びくん、と顔を上げる。目を合わされて、床に転がってでも逃げたくなりながら、やっぱり動けなくなった。
「何か、用事だったんじゃないの?」
 聞く人を落ち着かせるような、しっとりした声も、今の俺には役立たない。
「いえ、そのっ、大したことじゃ無いんでっ」
 返事がうわずっていた。
「そう? じゃあ、大した用事もないのに、女の人の部屋にいきなり入ったんだ」
「いや、その……」
 怒ってなんかないのは明らか。でも、全面的に朱鷺恵さんの言うことが正しいから、返す言葉も無い。
「ごめんなさい」
 全面降伏する以外に、取れる途も無かった。やっと視線を外して、下を向き、淡い色の乗った足の爪や引き締った足首やを見ていた。
「ふふふ、反省してる?」
「はいっ」
「ふーん」
 面白そうに言い、束の間、沈黙。
「そうは見えないんだけどなあ、さっきから。志貴くんの視線を追ってると」
 図星。今度は、膝の横にある小さな傷跡らしきものを見詰めていた。
「いや、そのっ、」
 しどろもどろで、辛うじて動いた体を振り向かせた。
「すいませんっ!」
 ただ、謝る。また短い沈黙の後、身じろぐ気配がして、視界の両端に後ろから腕が現われる。
「つ・か・ま・え・た」
 そんな囁きと共に、背中に柔らかな温もりが当たる。朱鷺恵さんの手が、俺の胸に触れてくる。息が首にかかるほど、寄り添われている。
「お仕置きとして、一時間ほどこの部屋に拘禁っ」
 ささやきを耳に吹き込まれ、胸を指先でなぞられて、拘禁どころか指一つ動かせなくなる。まだ何か耳打ちされたけど、途中で脳味噌をとろけさせながら、反対側の耳から抜けていくだけ。
「……はい……」
 上の空で、何か返事をしている。背中に押し潰されている弾力の良い塊が何であるのか、その簡単なことを当然に理解してしまい、その瞬間に乳首を擽られて喘ぎそうになる。
「……聞いてるの? 判った?」
「あ、はいっ」
 聞こえているわけもなく、まるで判っていなかったけど、肯定してしまった。酸素が足りなくて大きく息をしたら、正体不明の官能に鼻孔を満たされ、脳天までぐずぐずに崩れる。だから、シャツの胸元を開いていく手は見えていたけど、甘んじた。
 中に入って、ツーっと、指先が胸の傷跡を辿っている。
「びっくりしたな、これを見た時は」
 もう、それは遠い昔。見栄えの良いものじゃないから、人の目線はいつも痛みだった。
 ジーンズの中に覚えた痛みに少しだけ正気を取り戻し、胸を撫でていた手が下がってベルトに近くにあるのを理解する。言葉が出ず、慌てて、掴む。
「ん、もっと違うところ撫でて欲しい?」
「いや、そ、そうじゃなくてっ。離れて下さいっ」
 どうしたの? なんて言いながらも、甘美な緊縛は解いてくれた。
「朱鷺恵さん、服、着て下さい」
 後ろを向いたままお願いしたのだけど、こんな答え。
「どうして?」
「どうしてって」
 からかわれているのは百も承知、でも相手の調子から逃れられない。
「いや、そんな格好で居られたらっ」
「居たら? 何か困る?」
「……困ります」
 くすくす、笑っている。
「で、何をしに来たの?」
 問われて、詰まる。そもそも、用事なんて無かった。そう都合良く嘘も出てこず、顔が見たかっただけだって、白状する。
 まずいことを言ったと判っても、手遅れ。
「こんな顔で良いなら、好きなだけ見ていって?」
 そういうことになるわけだ。容赦無く、更に追い詰めてくる。
「こっちを見なさい。そっぽ向くの、禁止」
 ……朱鷺恵さん、それはきっと、理性が保ちません。
 思いながらも従うほか無い。
「良いじゃない、体中のホクロの位置まで知ってるでしょ、志貴くん」
 椅子に腰掛けて告げる朱鷺恵さんが少し照れていたから、ドキドキは変わらないながら、舞い上がった感覚が一歩だけ薄れた。
「着替え中だった訳じゃないのよ。わたし、部屋だと一日中でもこんな格好だったりするし」
 朱鷺恵さんがよくするポーズだけど、腕を組んだせいで何気なくバストが持ち上がる。駄目だって思いながら余所見なんてできず、谷間やら、二つの丘の天辺に識別できるような気がする突起やら、浮き上がったブラジャーの紐やら、次々と凝視していた。
「だから、捕囚の志貴くんの事情になんて合わせられないわね」
 言いながら、ひょいと脚を組むから、脚が翻るのに目を奪われた。いや、とっくにぱんつとかは見えているけど、両腿の下から小さく覗くお尻の方の布地とか、ふくらはぎの肉が押されて柔らかに寄るのとか、色々と見るものはあるし。
「あ、そうだ」
 不意に立ち上がり、朱鷺恵さんは背を向けて机の奥に手を伸ばす。上体を倒しているから、こちらにお尻が突き出される。シャツの裾もまくれ上がって、素肌こそ隠れていても、曲面は全く露わになる。丸くふたつ張り詰めて、その谷間の部分だけ布地が浮いている。太くなんか無いけど肉付きの良い真っ直ぐな脚が、そこからしなやかに伸びている。膝の裏が薄く窪んでいて、あのへんを撫でて蹴られそうになったのを思い出した。
「志貴くん?」
「うわっ」
 まだ見惚れていたから、呼ばれて跳び上がる。
「少しも困ってないと思うんだけどなあ、やっぱり」
 こっちにお尻を向けたまま、首だけ捻っていた。それで、さっきからの仕草が全部意図的だったんだって、判った。
「ホントは、服を着て欲しいんじゃなくて脱いで欲しいのかな?」
 机にもたれて、小首を傾げる。
「いや、そんなことはっ」
 慌てて否定。冗談でもイエスと言ったら、平然と脱いでしまいそう。
「えー、わたしの裸なんて見る価値も無い?」
「いや、そっ、そんなことはっ!」
 大慌てで、やっぱり否定。
「可笑しいわね、見たいのに脱いじゃ駄目なんて」
 ウインクまで、された。思わず視線を落として、厚手の布地越しにでも見て取れるほど自分のものが大きくなっているのが判った。
「いいわ、志貴くん。さっき決めた罰ゲームしましょ?」
 ん?
「罰ゲーム?」
 全然記憶にない。
「あ、やっぱり聞いてなかったわね? でも駄目よ、男の子が『はい』って言ったんだから、責任は取りなさい。こっちへおいで」
 朱鷺恵さんは、ベッドに腰掛ける。
「えーっと、その、罰って言うなら受けますけど、できれば内容をもう一度教えて頂けませんでしょうか」
 お腹を見せる犬みたいに丁重にお願いしたけど、執行人は厳しい。
「来れば判るから、おいで」
 覚悟を決めて出頭する。朱鷺恵さんの隣に座らされる。顔が見られず、流石に他のトコロにも目を向けられず、黙る。
 どうしたって、思い出す。あの時、空回りして焦るばかりだった俺を、この人はしっかりと抱きとめてくれた。その胸の温かさを覚えている。さっきから思い切り肌を見ているから、すっかり記憶から裸体が再生できてしまう。
 有間の家に遣られて、そこで何の苦労をさせられたものでもなくとも、幼心に寄る辺なさは感じていたんだろう。子供の頃には充分に遠い道のりだった時南病院で、初めどんな風に出会ったのか、それは実はもう覚えていない。ただ、すぐに懐いた。
 安心して話のできる、少しだけ年上のお姉さん。それだけのはずだった。
「懐かしいね」
 ぼそっと、朱鷺恵さんが呟いた。その響きに、夢から覚めたみたいに顔を上げた。
「ふふふ、そろそろ罰ゲーム執行よ」
 手を頭に伸ばして来て、引き寄せるように仰向けに倒される。命じられて脚をベッドに上げ、寝る。後頭部に柔らかなものが当たり、見ようとしたら、目の前に顔があった。
「膝枕の刑、刑期はわたしが満足するまで」
 無理に真面目くさって言い、堪らず噴き出している。
 膝枕の刑、という言い方を反芻し、やっと枕にしているのが他ならぬ朱鷺恵さんの脚だと飲み込めた。気持ちは良いけど、これは確かに罰ゲームだ。息苦しいのか何なのか、頭が飽和してる。見上げたら、開いたシャツの内側が全く露わ。今も手触りを思い出せるような胸の膨らみ。あの時よりルージュの色は紅いけど、味は記憶と変わらないだろうなんて思う、唇。
「ねえ、好きな人、出来たんでしょ?」
 顎に片手を置いたまま、問われる。答をためらったら、指が蠢いて首筋を責められる。ああ、罰ゲームと言うより拷問だ、これ。
「はい」
 耐えきれず、答えた。色々と、照れくさいことばかり喋らされる。
 唇を行き来して俺に口を割らせて行く指を、つい舌を伸ばして舐めたくなる。名残ほどの石鹸の香りがしていて、記憶が確かなら、これは朱鷺恵さんが昔から使っているお気に入りのブランドだ。昔一度、こっそり使って怒られた。なんで判ったんだろうって、不思議だった。匂いで瞭然なのに。
 あの晩には、使わせてくれた。
 思い出す。抱き締めてくれた胸は、この匂いがした。
 ブラジャーの外し方が判らなくて引きちぎってしまいかけ、結局自分で取ってくれた。そんなことを意識する年になってから初めて間近で見た、女の人の胸。綺麗なふたつの丘を握り締めてて、痛がらせてしまった。肌に朱い跡が付いて、消えなかったらどうしようなんて思った。
 引き合うように手に馴染んだ柔肌。顔をくっつけたら、笑いながら頭を撫でてくれた。乳首とかに吸い付いたら、もっと笑いながら、喘いでくれた。ただ夢中で、拙くて、独りよがりだった愛撫を、ほとんど文句も無く許してくれた。
「覚えてる?」
 二人で、昔のことを話している。月に一度、会うか会わないかの人と、こんなにも想い出がある。よっぽど好きだったのかな、なんて、今さら思う。
「何をですか?」
「わたしの太腿の内側にあった小さいホクロ。お尻の近く」
 覚えている。
「はい、左右で同じぐらいのところにある……」
「うん、正解。あれ、まだあるんだけどね」
 思い出す。ブラジャーなら、外し方が判らないって言い訳は通る。でも、ショーツの脱がし方が判らないなんてことはあり得ない。興味があるに決まっていた。見たいに決まってた。布地が潤いを帯びて、黒い翳りが少し透けていた。手が動かなかった。
 そんな時に、内腿の、ほとんど付け根近くに、左右揃ってホクロがあるのを見つけた。それが何か可笑しくて、過剰な緊張が解れた。
 わざわざ口にしてしまい、何を見てるの、なんて言われながら、やっと白い布に手をかけた。全身の力を入れる気分でやっと下ろして行き、お尻で引っ掛かる。また焦って、でも今度はすぐに助けてくれた。僅かに、腰を浮かせて。
「今の姿勢のままであのホクロの位置を示せたら罰ゲームお仕舞い、なんてのはどう?」
「判らないですよ、そんなの」
「手探りすれば良いでしょ?」
 うっ、く。
 冗談きつい。今そんなことしたら、どうかなってしまう。
「いや、それは……」
 拒んだけど、ほとんど舌を噛んでた。
「そう、膝枕の刑がそんなに気に入ったのね」
 また、からかわれる。
「そうじゃないですけど」
 それから、じゃあわたしの膝枕は嫌か、いや違う、なんて再放送みたいなやりとり。結局、朱鷺恵さんの膝枕が好きだと言わされる。昔から、言葉では敵わなかった。
 ――こんなこと、するつもりだったわけじゃ……
 翌朝、少し冷静になった俺の言い訳がましい台詞に、面白そうに、だけど印ほどの不機嫌さと共に、返された。
 ――でも、こんなこと拒むつもりも、無かったでしょ。
 まるっきり、そのつもりだったって見抜かれていた。
 ――朱鷺恵さんには、敵いません。
 そういう俺を、またそっと抱き締めて、囁いた。
 ――でも、夕べの志貴くんには、敵わなかったわ。
 あれは、どういう意味だったのか。ともかくあの日、俺は少しだけ、前の日とは変わった。
「ねえ志貴くん、こっち向かない?」
 言うが早いか、体を転がされて、横向きになる。視界をお腹と脇腹が大きく占めることになる、裸の脚に頬をくっつける姿勢。やっと衝動が納まってきていたのに、元の黙阿弥。朝から風呂に入っていたのか、指より強く石鹸の匂いがする。
 いや、俺にとっては、他ならぬ朱鷺恵さんの、匂い。
「好きな子とは、上手く行ってるの?」
 問われて、素直に答えていた。
「はい。まあ、色々ありますけどね」
 何気ない日常にも、そのつもりで目を開いていれば、幸せの欠片は幾らでも転がっている。ちゃんと、拾い上げながら過ごせていると思う。同じぐらいに転がっている不幸の欠片は、ちゃんと避けながら。
「そう。あんな風に抱いたわたしのことは放っておいて、他の子とよろしくやってるのね」
「いや、それは……そう言うつもりは……」
 悪戯に笑っているけど、真意は読み取れない。
 あの夜、初めて朱鷺恵さんの中に入ったとき、朱鷺恵さんは血は流さなかった。でも、破瓜に必ず出血が伴うわけじゃないと、知識だけは持ってた。無我夢中で、よく調べる余裕なんて無かったから、見て触って口付けてしていても、初めてなのかどうかなんて判っていなかった。いや、自分のことばかりで、頭がそっちに行ってなかった。
 後から、意を決して尋ねてみたけど、答えてはくれなかった。
 ――男の人にとってね、女は永遠に、謎なのよ。
 なんて。映画か何かの台詞らしい。
「じゃあ、どういうつもり?」
 さっきの続き、問い詰められている。どう言うつもりも何も、あれは俺には、一夜の夢みたいで。
 それを言いかけて、じゃあ、朱鷺恵さんには何だったんだろうって。そんなことに、幾星霜過ぎた今やっと考えが及んだ。
「ふふふ、良いわ。ホクロ探しゲームに勝ったら、赦してあげる」
 言葉を交わすうち、そんなことになっていた。片手で内腿を探って、例のホクロのある位置を当てろと言う。
 どう考えたって、誘われているか、からかわれているかのどっちか。あるいは、両方。
 だけど、女の人は、やっぱり謎で。朱鷺恵さんの真意が判らない。
「ほら、スタートっ。勝ち負けはわたしが決めるから」
 手を導かれて、膝に触れる。胴の方に辿っていって、数センチも行き過ぎたら女の人の部分に届いてしまうような位置を手探りするなんて、心臓が保たない気分。それでも、掠めるぐらいに指を滑らせる。
「んふっ、そんな触り方したら感じちゃう」
 はうっ。手が止まる。ズボンの中で、男が猛ってしまっている。襲いかかってしまわないのが、不思議なぐらい。
 壊しちゃ駄目な関係だと、判っているのか。
「わたしがそのあたり弱いのは知ってるはずよ?」
 確かにあの時、乳首とか性器そのものとか以外にも感じる場所はあるんだってこと、ここを触って教えて貰った。
 もう少し、しっかりと触れて、手を動かす。張りと柔かさと潤いと肌理細かさと温もりと滑らかさと。爪先まで、電撃が走る思い。
 震えつつ手を進める。チキンレースだ。行き過ぎてショーツに触れてしまうのは、危険。
「あん、焦らし責めするの無しーっ」
 慎重に動いてたら、今度はこんなことを言ってくる。指を動かすたびに甘い声を上げられて、おかしくなりそう。上手になったわねえ、なんて言われる。
 気合いを込めて滑らせたら、手を重ねられた。びくりとしてしまい、朱鷺恵さんが笑う。
「……勝負あり」
「え?」
「志貴くんの勝ち。でも、このゲーム、おかしいと思わない?」
 そりゃ、こんな馬鹿げた遊びも無いけど。
「見ていない志貴くんには、わたしが勝ち負けを好きに言っても判らないのよ?」
「ああ、そうですけど。でも、確かめることは出来るでしょ?」
「そうね。じゃあ、志貴くんの勝ちと言うことで、確かめて?」
 促されて、手を動かさずに起きあがり、照れながらも朱鷺恵さんの内腿を覗き込む。
 指の下にはホクロなんて無かった。
「あの時は、もっと鋭角的な下着してたから外だったけどね」」
 指を摘んで、僅かにショーツの下に潜り込ませる。うわっ、なんて咆えてしまった。
「今は、このへんかな?」
 言われても、見えないし、感触で判るわけでもない。ただ、糸みたいなものに指先が触れて、それが何か理解して、卒倒しそうになる。
「わたしが判定するんじゃなかったら、志貴くんに勝ちは無かったわね、きっと」
 言って、謎めいた笑いを見せる。
「朱鷺恵さんの意のまま、ですか」
 いつだって、そうだったけど。
 返事は無く、また笑って腿から俺の手を剥がし、掌に口付けてくれる。
 まだ、くらくらする。半裸の朱鷺恵さんと二人きり、ベッドの上で向かい合わせ。手を出したら、拒まれはしないだろう。立ち去っても、追われはするまい。
 だから、この謎の答えは、たぶん――――
 じっと見詰め合っても、何も読み取れない。そんな裏技は認めてくれないらしい。
 いや、そんなところに答えは無い。
 朱鷺恵さんの手を取り、夢のように仄かに香るその掌にキスした。
 まだ沈黙を守っているから、腹を括った。
「えっと。ゲームに勝ったんだから、拘留は終わりで良いですか?」
 答えの代わりのように、静謐にもう一回、微笑む。
 何も言えず、身じろぎも出来ないでいたら、今度は向こうから静寂を破ってくれた。
「そうね。でも、最後にもうひとつだけ。目を瞑りなさい」
 黙って、従う。
「男の人は、ね。ずっと、最初の人のことを覚えてるものだそうだけど」
 気配で、朱鷺恵さんが近づいて来たのが、判る。胸に手を添え、シャツの下に潜り込んで、撫でる。ここに頬擦りしてくれた姿が、目に浮かぶ。
「女の人は、ね――――」
 頭の後ろに手が当てられ、顔がすぐ傍に来る。息がかかる。想い出ほどの、石鹸の香り。
 額に、柔らかな感触。
「だから、好きな子のこと。ちゃんと、幸せにするのよ?」
 それで恩赦を得て、はい、と答えて辞去した。頃合いだと、思って。
 送り出してくれた朱鷺恵さんは、結局解けない謎のまま。だけど、永遠に謎で満足。問いには、ちゃんと答えを決めたのだし。
「――――いっつも、最後の人のことしか、覚えてないものなのよ」
 自分で扉を閉じた後も、香りは、残っていた。

 

/残香・了

 


 

 予告どおり、コトには及びませんw とろけて頂ければ幸い。

 

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©Syunsuke