朱鷺恵ねえさん


 

 何らおかしなことは無いのだと自分に言い聞かせようとしながら、秋葉は、落ち着かない思いを抱えていた。
 ティールームで向き合っている、時南朱鷺恵という女性のことだ。
 兄が幼い頃から世話になっている医者に娘が居たところで、何の不思議もない。それ以前に、秋葉にしても初めて会ったわけではない。
 その人と、兄とが顔見知りでないのだとしたら、むしろ驚く。
 ヴァレンタイン近くの日に遠野の屋敷を訪れる用事があって、手みやげのついでに志貴にチョコレートひとつ余分に買って来たというのも、無理のある話ではない。この時期にケーキ屋に入れば、イヤと言うほど目にするのだから。
 そしてチョコレート自体も、特別な想いを込めて贈る類のものではなく、社交の印に相応しく大人しい包みだった。
 なのに引っ掛かるのは、結局、チョコレートを受け渡すときの二人の態度せいだ。
 帰宅して、秋葉とお茶を飲んでいるのが朱鷺恵だと知った瞬間、息を飲んだ志貴の顔。黙り込む志貴に掛けられた、朱鷺恵の言葉。
「お帰りなさい、志貴くん。……また、久しぶりね」
 そんな平凡な挨拶が、秋葉を不安にさせた。
 志貴は、あからさまに動転して、しばらく返事をしかねていた。
「ちょっと早いけど、ヴァレンタインに受け取ってくれる?」
 志貴が、鼻の下を伸ばして受け取ったのなら怒ってやれば良い。しかし、そうではなく、ただ単に思いがけず贈られて戸惑ったのだと見えた。
 それだけの光景なのに、わずかな時間、朱鷺恵と志貴の二人は破りがたい空間を作っていた。
「と、とりあえず、着替えに……。ええと、秋葉に変なこと話さないで下さいねっ」
 逃げるように志貴が立ち去った後、やっと秋葉は思い至る。
 ――――この人は、自分の知らない兄を知っている。
 それだけのことが羨ましいのだろうかと呆れながら、意を決するように、問う。
「朱鷺恵さん、変なこと、って何か心当たりはありますか?」
「思いつかないな。でも、志貴くんが小学生の頃から知っているわけだから、妹の秋葉さんに聞かれちゃ恥ずかしいこともあるんじゃない?」
「どんなことですか?」
「駄目よ、言わないで下さいってお願いされたんだから」
 穏やかなのに、秋葉をしてそれ以上問わせないだけの芯の強さを見せる。堅くなった空気を解すように、朱鷺恵の側から話を継ぐ。
「志貴くんのこと、知りたいのかな?」
「はい。兄さんは、こちらに戻ってくる前のことは、あまり話して下さいませんから」
「そっか。……わたしとのことも、もう何年も前だけど。何か、志貴くんのことで困ってる?」
 柔らかな受け答えに、知らず秋葉は心を許していた。
 仮にも、遠野家のお抱えとも云うべき医師の娘なのだ。少々、私的なことを話してしまっても拙いことにはならないだろうと。
「ええ、その……もっと、遠野家の長男としての自覚を持って頂きたいのですけど」
「そうね、普段はちょっと頼りなく思えるかな、志貴くんって。でも、肝心の時には強いところも見せてくれるでしょ?」
「それは……そうですけど」
 だからこそ、今の秋葉と志貴との関係がある。命のやりとりまでして、勝ち取った日々が。
「そういう感じで良いんじゃないのかな?」
 ですが、と言い返し掛けて、朱鷺恵の言葉の続きが耳に入る。
「……旦那さんって人は、ね?」
「だ、旦那さんって、その、朱鷺恵さん?」
「あら、そうするつもりじゃないの?」
「いえっ……」
 どうしてまた、兄である志貴について配偶者としての価値基準を問うのか。そうするつもり、というのだから、一般論を話しているのでもあるまい。
 慌てて、問う。
「……どこまで、ご存じなんですかっ?」
 どんなルートで、どこまでのことが漏れているのか。知られては拙いこともある。世間に対しても、遠野の分家に対しても。
 それを問い詰めるはずが、結局、秋葉はこれまでのことを様々に話してしまう。自分と志貴との関係については、血縁者ではないことを語るにとどめた。血生臭い部分についても、できるだけ伏せる。それでも十分に異常な話だろうに、朱鷺恵が平然と受け入れたのは、やはり遠野家の事情を知っているが故だろうか。
「そう……じゃあ、心配ないわね」
「何が、ですか?」
「これでも医療に関わる身だから、やっぱり近親婚は拙いかなあとは思ったのよ。でも、血縁がないなら安心でしょ?」
 あまりに平然と言われ、ためらった自分がおかしいのかと思えてしまった。
「それだと、実の兄妹と思いながら旦那さんとかって仰ったんですか?」
 鬼の血や魔についてなら、秋葉には当然のこと。引っ掛かるものといえば、社会の常識や倫理というものだ。それ故に、さっきも自分と志貴とのことは隠したというのに。
「そうよ、そこまでの事情は知らなかったもの」
「でも、そんな……」
 血を分けた兄妹と思いながら、その姦通をそれ自体は平然と受け入れるなど、秋葉には想像しがたい思考だった。
「さっきまでも、志貴くんの話ばかりしていたし。わたしが志貴くんにチョコレートあげるって言ったら、凄く焼き餅焼いてる感じだったし」
 指摘されて、秋葉は口籠もる。嫉妬したのは事実だから仕方ないけれど、見せてしまったのは失敗だ。
「でも、それより何より、秋葉さん、志貴くんとは仲良くしちゃってるわけでしょ? 事実が先にある以上は、そこから話をしないと」
「そ……」
 絶句し、赤面した。
「ふふ……昨夜あたり、ちょっと激しかったんじゃない?」
「なっ……何を……根拠に……っ!」
「あら、あたり?」
「!」
 図星を突かれて、秋葉はますます言葉を無くす。顔から火が出そうに思う。ひょっとして、旦那さん、ってあたりからカマを掛けられていたのか。
「それとも、毎晩だったりするのかな?」
 何を口にしても状況を悪くするばかりだから、噤む
「そう。秋葉さん、志貴くんのことで困っているって、そう言う話ね?」
「いえ、その……っ!」
 無論、そんな話をする気は欠片もなかった。ただ、その点に困っているのは、紛れもない事実だ。
 だからといって、やっぱり、その手の相談などする気にはなれない。
「しょうがないわね、志貴くんって、ベッドじゃ随分とやんちゃだものね」
 朱鷺恵の言っていることを解するまで、たっぷり数秒。
 慌てて何事かまくし立てようとして言葉だけが追いつかない秋葉に、朱鷺恵は落ち着いたもの。
「何?」
「ベッドではやんちゃって……それは、その……」
「言ったじゃない」
 朱鷺恵は立ち上がり、秋葉の肩に手を置いて囁く。
「わたしと志貴くんとは、もう何年も前のことだって」
 それでやっと、秋葉はさっきの志貴の態度を理解した。
 自分が怒っているのか、酷く嫉妬しているだけなのか、それさえ秋葉には判りかねた。
「落ち着いてね、こちらに戻ってくるよりも前の話よ。当たり前だけど、あれ以来は何もないわ」
 怒る筋合いのことではない。焼き餅ぐらいは許されるだろうけれど、格好の良いものでもない。
 それでも、平然としてはいられない。
 どんな態度を取って何を口にすれば良いのかと秋葉が頭の中をぐるぐるさせる間に、問いかけられる。
「それで、志貴くんはどんな風に秋葉さんを困らせているのかな?」
 あからさまに楽しんで尋ねているのは判りつつ、それをどうこうする余裕がない。返事ができないうちに、更に問われる。
「求めて貰え過ぎる?」
「そ、それも……あります、けど……」
「それって、幸せじゃない? 求められない方が良いの?」
「そんなことはっ……」
 とんでもなく恥ずかしいことを喋らされているのには気付きつつ、それ以上に言葉に載せられていく。
「じゃあ、何か、志貴くんのしたがることが駄目?」
「まあ、そんなことも……」
 思い出して、また頬を火照らせる。
「どんなこと?」
「そんなことっ……」
 言えるわけが無い、と口ごもる。
 ゆったりと秋葉の沈黙を見守った朱鷺恵だが、やがて破る。
「志貴くん、秋葉ちゃんにそんな口にも出せないような凄いこと求めちゃうんだ」
「そんな、兄さんを変態みたいに仰らないで下さい!」
「ふふ、じゃあ、別に変態みたいじゃないことなのね?」
「いえ、その、変態みたいなんてことは……ないと思います……けど……」
 不安ではあった。自分の兄が、そんな異常なことを望んでいるわけではないと信じてはいるが、あまりに恥ずかしいと思うことならばあったから。
「不安だったら、言ってしまった方がすっきりするわよ?」
「でも……」
「恥ずかしい?」
「はい……」
 今の秋葉は、若き当主として威厳も忘れ、恋に戸惑う少女だった。
「ふふふ……でも、恥ずかしいのってちょっと嬉しくない?」
「ええっ?」
「あら、秋葉ちゃん、志貴くんにそれを求められるのは嫌なの? そんなことしたがる志貴くんのこと、嫌い?」
「いえっ、嫌いだなんてっ……ことは……」
「じゃあ、嬉しいわけじゃない? 恥ずかしいこと求められるのも」
 話の筋が捩れているが、気付く余裕はなかった。
「そういう言い方なら、そうです……」
 そんな風に、乗せられてしまう。
「なんだ、結局は惚気たかっただけ?」
「違いますっ……」
「じゃあ、わたしと志貴くんとのことを知って、ちょっぴりあてつけ?」
「そんなつもりはっ」
 慌てた。
 そんなつもりは無くても、そうなっていたかも知れないと。
「そう。やっぱり、困っているのは困っているのね」
「はい」
「うーん、やっぱり、志貴くんが何をしたがるのかちゃんと聞かないと何とも言えないわね」
「……じゃあ、その……言います……」
 普通にしゃべることも出来ず、ごにょごにょと俯いて囁くだけ。ここは隠しておこう、なんて思っても鋭く問い詰められて、赤裸々この上ないことまで言わされてしまう。
「大したことないのね、そのあたりは」
「……いえ……存じません……けど……」
「いま頭にあることが、秋葉ちゃんにとって『大したことない』って言えるかどうかを考えてみるの」
 そんな言い方をされると、黙っているわけには行かない。
「やるわねえ、それって秋葉ちゃんには何でもないんだ?」
「とんでもないですっ……」
 結局、融けて消えてしまいそうになりながら、志貴との夜を語ってしまった。
 話し終えても朱鷺恵はなかなか返事をせず、やっぱり何かしら途轍もなくおかしなことをしているのではないかと考え始めた頃、ようやく耳元に囁かれた。
「秋葉ちゃんってば、すごーい」
「ちょっ、その……、そんな……」
「求めちゃう志貴くんも志貴くんだけど、秋葉ちゃんも……ねえ?」
「やっぱり、そんなに……凄いことでなんですか……これって」
 必死で尋ねているのに、悪戯に笑うばかりで、すぐには応えてくれない。いい加減、腹を立てかけていて、やっとまた囁かれる。
「ふふふふふ、大人しそうなのに、大胆なのねー」
「からかわないで下さいっ」
 羞恥と腹立ちで震えていても、いなされる。
「んー……。それほどでも、ないかな?」
「じゃあ、そんなに吃驚するようなことでも……ない?」
「そうね……ふふふ、わたしも、したことだし」
「あ……」
「確かに志貴くん、好きだったなあ」
 その声の調子が、さっきの志貴への挨拶と同じだったから、声が出せなかった。
 志貴と朱鷺恵との関係は、正確にはどんなだったのか。
 ひょっとして、志貴は、この朱鷺恵という人と重ねた行為を自分で繰り返しているのだろうか。そんな益体も無いことを考えてしまい、でも尋ねもできず、悶える。訊きたくて、訊けなくて、揺れる想い。
「ねえ、秋葉ちゃん。……志貴くんに、こんなことはされた?」
 そっと耳から注ぎ込まれる、とても想像もできなかったような行為。
 あまりに破廉恥と思うのに、どうしても心惹かれてしまうような悪い遊び。
 そんなことを求められたら、恥ずかしくて死んでしまいそう。でも、求められたら応じてしまうだろうことは充分に理解してる。
 もう、聞いちゃ居られないと思いながら、しっかり耳はそばだてている。
「そんなこと……本当に、兄さんと……したんです……か……」
 行儀悪く姿勢を崩してしまい、朱鷺恵に支えられながら、やっと秋葉は訊き返す。
「んーっと、ね……。そうだ、志貴くんに尋ねてみたら?」
「そんなこと出来ませんっ!」
 一つ一つ、思い出すだけで発火して燃え尽きてしまいそうに恥ずかしい。それを自分の口から志貴に訊くだなんて。
「ふふ、少なくとも一つは、したわね」
 どれなんだろうと、秋葉の頭の中を様々な光景が走り回る。聡明な頭脳は想像力にも優れていて、少しは男女の営みについての経験も積み始めているものだから、無闇に鮮明に思い描けてしまう。
「少なくとも一つは、してないこともあるかな」
 本当に、どれもこれも、志貴に望まれたら困ってしまう。困ってしまうのは、自分が結局は承諾してしまいそうだから。
「でもね、拒む時は、拒まないと駄目よ?」
 その言葉に、僅かながら安堵する。
「秋葉ちゃん、もう随分と志貴くんに染められちゃってるみたいだし」
「そう……でしょうか……」
 そうだろうと思いながら、認めたくないような、そうでもないような気分。
「男の子って、そんな感じよ。拗ねたり甘えたり、ちょっと横暴にしてみたり優しかったり、ねだったりお願いしたり……」
 志貴のそんな調子は、覚えにあり過ぎた。
「それで、秋葉ちゃんが気が付く頃には、もうとっくに志貴くん好みの色に染められてて、元には戻れないようになってるのよ」
「そんな……」
 そんなこと、認められません。
 そう言おうとして、一体何を認めないのだろうと考える。
「そんなこと、駄目?」
「……いえ、その……」
「志貴くんの望むように染まるのは、嫌?」
「いえ……嫌だなんてことは……ありません、けど……」
「良いじゃない? それなら」
「でも……」
 結局、恥ずかしいだけで、少しも嫌がっては居ないのだと理解させられる。
 恥ずかしいのが嬉しい。さっきの言葉を再認させられた。
「でも……」
「ん、なあに?」
「幾らなんでも……その……お尻とか……足とか……」
 ごにょごにょごにょ、とその後を誤魔化す。
「そういうのは、ねえ。でも、気持ち良く思っちゃうんでしょ?」
 返事をさせないで欲しいと思いながらも、小さく頷く。
「嬉しいんだけど、何かとってもイケナイことをしてる気がしたりして」
 どうしてこんなに正確に判ってしまうんだろう。
 自分より経験に富む女性だからというだけなのか。
 相手が、同じ志貴だからなのか。
 こんな話が出来る相手が居たことを幸いに思いながら、その相手と志貴との関係には複雑な気分にさせられる。
「ふふふ、仕方ないわよ。志貴くん、秋葉ちゃんのことが体中隅々まで愛しくてしょうがないのよ」
 そういわれると、やっぱり嬉しく思うのは確か。
「でも……」
「じゃあ、良いことを教えてあげるわ」
 顔を上げて、救いを求める。花顔に華やかな笑いを咲かせて、悪戯に告げる。
「同じようなこと、秋葉ちゃんも志貴くんにしてあげるの」
「あ……」
 また、頭に描いてしまう。
 志貴相手に、途轍もなく恥知らずな行為をしている自分の姿。
 また火を吹いて燃えてしまいそうだけど、志貴の方もきっと同じような気持ちになるはず。
 秋葉の頭の中身を読み取ったように、また囁かれる。
「ね、楽しそうでしょ?」
「……はい……」
 きっと楽しい。
 だから、困ってしまう。困ってしまうけど……少しも、嫌じゃない。
 それに、きっと……幸せだ。
「うん……まだ、悩んでる? 秋葉ちゃん」
 そう、そもそもは、志貴のことで困っていると言う話だった。
 しかし、気付かされてしまった。
 いや、元々判っていたことを、再確認させられただけ。
「いえ……大丈夫、です」
「そう……」
 穏やかに、秋葉の目の前の女性は微笑む。少し寂しそうで、だけど後ろ向きには思えない。しっかり導いてはくれたけれど、さんざんに秋葉をからかったのも確かだった。
「なーんだ、結局、秋葉ちゃんに志貴くんのこと惚気られただけかぁ」
「もう、朱鷺恵さん……」
 志貴にとっての、特別な人。きっとそれは、永遠に同じ。
 なら。
 自分が、志貴の色に染められてしまうのなら。
 志貴のことは、自分の色に染めてやろうと、秋葉は思う。
「どうも、ありがとうございました」
 礼を言いながら、一方では残香に宣戦布告。
「どういたしまして。いや、ごちそうさま、かな」
 寂寥の名残も、微笑からは消えていた。
「よし、これ、秋葉ちゃんに上げるわ」
 と、朱鷺恵がハンドバッグから取り出したのは、さっき志貴に渡したのと同じような包み。
「はい……。チョコレートですか?」
「違うの。……本当は、こっちを志貴くんに上げるつもりだったんだけどな」
 許しを得て包みを解き、秋葉はテーブルに突っ伏した。
「ね、必要でしょ? 駄目よ、ちゃんと使わないと」
「そうですけどっ。こんなもの、兄さんに上げてどうするつもりだったんですかっ!」
「え? 別に、秋葉ちゃんに上げるのと同じでしょ?」
 そんな瞬間に志貴が部屋に戻ってきて、大慌ててで包みを隠す。

「秋葉のことは、絶対に俺が幸せにします」
 どんな話の流れだったのか、思い出せない。
 だけど、朱鷺恵と言う女性に向かって志貴の発したこの一言には、涙が出そうだった。
 十年分も恥ずかしい思いをしたようで、最後に残ったものは、チョコレートのように甘い、幸せな気分だった。

 

 

/朱鷺恵ねえさん・了

 


ヴァレンタインよりも前に掲載するべきところでしたが、まあそこは一つ。
朱鷺恵さんは月姫系最強の女性なのですw

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