「好き」の反対は、「何とも思わない」ことだと、昔誰かに聴かされた。
 無視されるのは怖いから。好かれるのは難しいから。
 せめて、憎まれようと思ったりした。――そうすれば、少なくとも、記憶には留めてもらえそうだと思ったから。
 感情の強さはだけは、同じだから。
 昔、人間って生き物は今の二人分の体を持っていて、今よりずっと優れていたって伝説がある。
 調子に乗りすぎて神の怒りを買い、全員二つの体に分けられて、男女になったそうだ。
 だから、そうやって分けられた半身を人は捜し求めるんだって。
 あるべき姿に戻ろうとするんだって。

反意綜合(裏表)


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 無理を言って外出許可を取って訪れたのに、伽藍の堂に目的の人は居なかった。橙子師も幹也も居ないんだ。誰も居なかった、と言わないのは、そうではないから。どういう訳か、四階の事務室のソファには式の奴だけが座っていた。  久しぶりに捕まえられたのに、二人とも出かけるところだった。トウコの仕事の打ち合わせとやらで、幹也も同行するらしい。仕方なく伽藍の堂の事務室で帰りを待っていたら、どういう訳か、鮮花の奴が現れた。
「なんで、あんただけこんな所に居るのよ」
 まるっきり単なる言いがかりだけど、わたしは腹立ちまぎれに声をかける。  幹也に会えないことに腹を立てたのか、鮮花が声を荒げてくる。
「オレだって休みなんだ、何処に居ようと勝手だろう? 幹也なら、トウコと一緒に出かけたよ」
 それはつまり、式がここに来た時点では二人はまだ居たということか。
 いつものように和服を着て行儀良くソファに腰を降ろしている、この式という奴は、整い過ぎた外見のために性別が見分け難い。女であることをわたしは知っているのだけれど、それが問題なのだ。
 こいつが男だったりするなら、恋敵になることもなかったのだから。
 わたしは――黒桐鮮花は――黒桐幹也を愛している。名前のとおり、幹也は実の兄で、目下、式は兄の恋人ということになっている。なにも、大好きなお兄ちゃんを余所の女の人に取られて焼餅を焼いているというのではない。趣味が悪いと言わば言え。わたしは兄として、家族として慕っているのではなく、ひとりの男として幹也を愛しているのだ。
 仇たる式は、もともとある種の二重人格者だった。精神医学的な解釈はともかく、式という人格の他に、男性である織なる名の人格を持っていた。交通事故で二年間も昏睡状態にあったのが原因で、織は死んだというのだけれど、わたしとしては死んだのは式であって欲しかった。この下らない議論は前にも一度幹也や橙子師の前でしたことがある。
 結論として、やっぱり生き残っているのが式であることを理解はしている。
 しているけれど――わたしは蒸し返すことにした。何か言ってやらないと気が治まらなかったのだ。
 私が来た時点では二人が居たことは、言葉から判ったようだ。
 いつもながらの隙の無い身なりした、この黒桐鮮花という奴は、一見して高貴な気配を持ったお嬢様だ。いや、名高き礼園女学院の生徒で、世間的にはお嬢様に他ならないが、それは私には問題ではない。
 そして、こいつが幹也の妹だと言うことも、実際のところ重要ではない。
 私には――両義式には――黒桐幹也が必要だ。名前のとおり、幹也は鮮花の実の兄で、目下、私にとっては恋人と言うことになっている。それに対して、血縁には関係なく、鮮花は私を恋敵と見なしているらしい。趣味の悪いのは承知の上。鮮花は兄として、家族として慕っているのではなく、ひとりの男として幹也を愛していると私に公言している。
 生まれつき私は、ある種の二重人格者だった。精神医学的な解釈はともかく、今の私である式の他に、男性であり織と名付けられた人格を持っていた。二年間も昏睡する羽目になった交通事故が原因で、織は死んでしまったのだけど、鮮花は今の私を識であることにしたがった。この下らない議論は前にも一度幹也やトウコの前でしたことがある。
 結論として、ここに居るのが式であることを鮮花は理解してはいるらしい。
 らしいのだけど――鮮花はこの話をたまに蒸し返してくる。私につっかかりたい時の格好のネタにしているようだ。
「式、前に訊いた時には結局はぐらかしてくれたけど。あなた、やっぱり男なんでしょう?」
 式の正面のソファに座って、わたしは言った。
 式は、綺麗な顔を少しだけ歪め、けれど感情の篭らない声で答えた。
 私の正面のソファに座って、鮮花は言う。
 別段、平静を装う必要も無く、単に事実として答える。
「おまえ、前にも言ったな、そんなこと。頭悪いんじゃないか?」
「ええ。でも、やっぱり答えないのね。織なんだ、やっぱり」
 また少し、機嫌を損ねたように顔を歪めて、式が言う。  しつこいな、と多少は機嫌を損ねながら、言っておく。
「おまえね、オレは女だって言えば納得するのか? 幹也なら帰ってくるから、今すぐ会えないからってそんなに腹を立てるな」
 わたしが単に喧嘩を吹っかけているだけだと判ったらしい。そんなことが判らないほど馬鹿だとは思っていないのだけど、まるで見通したような態度が気に入らなくて、わたしは絡み続ける。  ただの言いがかりとしか思っていないのを悟ったらしい。そんなことが判らないほど鈍感だとは思っちゃいないだろうけど、端から相手にしない態度が気に障ったのか、今回はしつこかった。
「幹也のことは関係ありません。女の体に男の人格で居るんじゃ、さぞかし不自由だろうなって思っただけです」
「性同一性障害に悩んでいる人は現実に居るんだ、あまり気安くそんなことを言うんじゃない」
 あまり他人に興味を示さない式らしくない言葉だ。だけど、苦し紛れに言った様子でもなかった。  面倒だから言うだけ言わせておくつもりだった。だけど、私には今のに腹を立てる理由があった。
「それに、な」
 不意に立ち上がると、わたしの方に歩いて来て隣に腰を降ろした。片手を伸ばして来てわたしの頬にあて、不穏な笑いを浮かべて言う。  立ち上がってテーブルの横を通り、鮮花の隣に腰を降ろした。片手を伸ばして来て鮮花の頬にあて、言う。多分、私は笑っていただろう。
「おまえ、オレの精神面のことを男にしたがるくせに、体の方のことはちっとも考えないんだな?」
 体って――――まさかっ!
 何をする間もなく、式はわたしの襟首を掴んでソファに引き倒し、両肘を押えて覆い被さって来る。見詰めてくる双眸は混沌の渦への覗き穴のようで、思わずたじろいだ。
 一瞬の不可解の表情――――理解と驚き。
 それ以上の間を与えず、襟首を掴んでソファに引き倒し、両肘を押えて覆い被さる。昔を思い出しながら目を見据えたら、鮮花は怯えた。
「教えてやろうか? オレが式なのか、織なのか」
 静かながらも確かな怒りの篭った声を、紅も引いていないのに朱い唇が発し、いきなり顔の位置を降ろした。  冷静に告げるつもりだったけど怒りが現れてしまいながらも唇を動かし、それから私は顔を降ろした。
「オレは、おまえを犯したい」

 


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