休日にも関わらず桜が朝の支度をしに来てくれたのだけど、今日は俺も早起きしていたから、もう半ば済んでしまっていた。
食後、そのぶん意地になったみたいに、片付けはわたしがやりますからと厨房に入れてくれない。そんな桜の背中に、知らず、声を掛けていた。
「桜、予定が無いんだったら、弁当作ってちょっと出かけないか?」
自分でも唐突な思いつき。実のところ、行き先が浮かんだのはその後だった。
見渡せば、この世のものとも思えぬ絶景。
柳洞寺にもほど近い郊外の森の中、小高い丘の上からあたりを眺めている。十月、秋の木の葉はすっかり色づいて、赤と黄色と緑と、その間のあらゆる色に樹々が染め分けられている。
だというのに、頭の上に咲いているのは、桜の花。
春に咲き誇る染井吉野のような、物狂おしい艶やかさは無い。だけど、葉っぱの錦を遠景にして、数本の木は花盛り。その淡い色は、清楚で涼やかだった。
遠い空は青く、くっきりとした白い雲が流れている。
何故か再び現界しているサーヴァントたち、どことなく漂う緊張感。夜の街に覚える不穏。そんな懸念ごとさえ、ここにいる間だけは忘れさせてくれそうだ。
「これは、贅沢と言うのでしょうね? 士郎」
この場所を教えてくれたライダーが、大きな朱塗りの杯を手に、抑えた声で言った。
原点が地母神であるライダーなら、この遙か異国の秋の風景にも、何か俺とは違うものを見ているのかも知れない。でも、わざわざ連れて来てくれたのは、純粋に美しさに感じ入ってのことだと思う。
風が吹けば、ひらひら花びらが舞うのと共に、ライダーの長い髪が踊る。
こうして一緒に眺めると、自然の美の極致と、それを人型に投影した姿が相対しているみたいだ。ライダーが具現化している美は、地中海の目映い海の光景かも知れないけど。
「今度は、桜とかも連れて来てやらないとなあ」
「はい。是非、サクラと二人きりで。私などは抜きにして」
「なんでさ、ライダーも来れば良いじゃないか。それに、桜と二人じゃ、あの崖はキツイ」
この季節に咲く品種らしい珍しい桜は、上手い具合に丘の真ん中あたりにあって、お陰で下からじゃ見えない。その上、まわり一周が崖なものだから、容易には登って来られない。そんな具合で、ここは秘密の楽園めいた場所になってる。桃源郷ならぬ桜幻郷とでも言ったところだ。
そうでなきゃ、この絶景、とっくに知れ渡っていたはず。実際、ここにはライダーに担ぎ上げて貰ったのだ。自分で登れなくはないにしても、ちょっと厳しいだろう。
「ここにお連れしてから、しばし退散しますよ。今日は士郎を独り占めしてしまっていますし」
確かに、元々は三人で来る予定だった。
今朝、セイバーは何事か頼まれて凛の家に出掛け、イリヤと藤ねえは顔を見せなかった。つまり、俺と桜とライダーの三人だった。そんな折に、珍しくライダーが自ら切り出したのだ。
「季節はずれの桜の花を見に行きませんか?」
と。柳洞寺の付近に異変を感じて調べ回っていたうちに、たまたま見つけたのだそうだ。
行こうと決めて、桜と一緒に弁当の用意を済ませたころ、電話が掛かってきて、
「はい、衛宮です……ああ、はい、桜です。えっ?」
弓道部のことで急用ができたと、桜は学校に行ってしまった。
「先輩、ライダーと二人で見てきて下さい。私はまた今度にしますから」
桜が来られないなら中止しようかと思った矢先に、そんな風に念押しして。
ライダー共々、どうしたものかと困りながら、少し嬉しくもあった。狂わされた予定にも落ち込んだりしなかった桜が、頼もしくなったように思えて。
同じようなことを考えた憶えがあるのかちょっと気になったけれど。
「……なあ、ライダー。こんなこと、前にもなかったっけ?」
「……あったような気もしますね」
何か、『凄かった』とだけ無意識に刻まれている気がした。
――いや、地獄のような極楽でした。
思い出すのは危険だと、隣のレーンを走る知らない自分に警告されたみたいで、思考を停止する。
「延期を考えたところだっただけど。桜、がっかりするだろうな、俺たちが出掛けなかったら」
「そうですね。私などと二人ではつまらないでしょうが、お願いできますか」
「つまらない、なんてことはないぞ」
決して、嘘は言ってない。ただ、正直なところ、二人だと間の持たせ方が判らないのも事実。
だから、ライダーが酒屋に立ち寄ったことには、むしろ安堵していた。手持ち無沙汰は解消するし、秋の森を眺めつつ少しは付き合うのも悪くないだろう。
「桜には内緒でお願いしますね」
その目配せも、値千金。俺の方は、飲んだことが判らないほどには強くない。でもライダーなら少々は水みたいなもんだ。その少々ってのが一升とかだったりするのが怖いところではあるのだけど。
「独り占めって」
ライダーの頬が桜色なのは程よく酒が回っているからに違いないが、そんな様子で言われると落ち着かない。
「独り占めですよ。付き合って下さるのも珍しいですし……もう少し如何ですか?」
注いであった酒を乾して、見事な朱杯を俺に差し出す。一つしかないから回し呑みになってて、ライダーが唇を付けたものから飲むわけだから、子供っぽいと思いながらもドキマギしてしまう。それに、早く返さないと悪いと、ペースが上がっていた。
「うん。でも、少しだけ」
注がれる透き通った液の面に、薄紅の花びらがひとつ、舞い落ちて浮ぶ。そのままゆっくり、花びらも一緒に、味わう。
沁み沁みと感銘を覚える景色は、確かに酒を旨いものにしていた。お酌してくれる凄絶な美人もまた。
俺自身も感じているおかしな気配、ライダーの言う柳洞寺あたりの小さな異変。それも、一緒に飲み乾してしまえる。
世界は、こんなにも綺麗だ。
俺は、こんな麗しい世界に生きている。
「……士郎?」
控えめな声に、つかの間のトリップから覚醒すれば、ライダーが酒瓶を持った手を示している。杯、俺が持ったままだった。
「ああ、ごめん」
壜を受け取って、注ぎ返す。
途端に、くらりと――――
「あっ」
手元が狂って溢れさせてしまった。
「悪いっ」
服に濡れが拡がっているから、慌ててタオルを掴んで、拭く。染みになったりはしないと思うけど、一応は桜には内緒で飲んでいるわけで、痕跡は残さない方が良いし。それにしても、ちょっと調子に乗って飲み過ぎたか。
「んっ……」
もう半分くらい無くなってる、思ったより軽くて傾け過ぎた。いや、大方はライダーが飲んだはずだけど、俺が酔ってたら服に付いた匂いがどうこうじゃなしにバレるか。でもまあ、ともかくちゃんと拭かないと。
「あんっ……」
なんか柔らかくて拭きづらいな、これじゃ染み込んだのが取れない……って、何が柔らかいんだ?
「ふふふ?」
ライダーの悪戯な笑いが聞こえて、何が柔らかいのが自覚する。
横座りしたライダーが口元に添えていた杯から酒が零れたわけで、それは当然、ライダーの服を濡らしていた。
つまり、俺はさっきから、思いっきりライダーの胸元を擦っていた。
恐る恐る、目線をライダーの顔に向ける。魔眼殺しはちゃんと着けているけど、俺としちゃ石化していた。
「今日は大胆ですね、士郎?」
上気した顔で、ライダーが微笑む。
「うわっ、とっ、ごめんっっ!」
動けず、気付いてからもまだ胸を触っていたわけで、跳び上がって離れる。
「いや、何も、そ、そういうつもりはっ」
もっとちゃんと謝らなきゃならないのに、頭がくらくらしていて出てこない。恐る恐るライダーの顔色を伺うと、狙い澄ました様子で口を開く。
「ちょっと気持ち良かったですよ? 士郎」
いや、き、気持ちよ……って……っ!
焦って言葉を無くしてると、手招かれる。逆らいも出来ずやむなく従えば、触ってしまった胸の膨らみが傍になって余計に焦る。そんな俺の耳元に、ライダーは口を寄せてくる。
ふーっと息をかけるように、耳打ちされた。
「士郎のえっち」
「うわぁっ」
また、飛び退く羽目になる。
心臓をばくばく言わせている俺を尻目に、ライダーはいきなり服を脱ぎ始めていた。
「って、何してるのっ」
聞こえていないみたいに平然と脱いでしまい、ブラジャーしか着けていないライダーの上半身が露わになる。
ごくん、と何やら飲み込みながら、眼は空とライダーの間を行ったり来たり。
「脱がないと拭いて下さらないようですから。いえ、私は先程通りでも構わないのですが」
「いや、それでしたら是非お脱ぎになっていて下さい」
もう一回あんなこと、判ってするなんて無理だ。
晒されたライダーの肌は、ギリシアあたりの白亜の家の壁みたいに白くて輝いている。引き締った体の躍動感は羨ましいぐらいなのに、曲面はあくまで優雅に女性的。どう足掻いても人の手に触れられるものではないはずの美しき女神の半裸体。
って、何じろじろ見てるんだ、俺っ。
そして、俺が一人でばたばたしてる間に、ライダーは自分で服を拭っていた。
えーっと。
「あの、自分で拭くんだったら、脱ぐ必要なんて無かったわけじゃ……」
「そうですね。でも、士郎が是非脱いだままでと?」
「いやっ」
違う、と言いたかったけど、違わないから黙る。どうしても目をやってしまうから、体ごと後ろを向いた。
途端に、ライダーが言う。
「そうですか。そうでしょうね」
拗ねたみたいな口ぶり。
「いや、なにさ?」
「脱がせてみたのは良いものの、見るに堪えなかったというわけでしょう? そっちを向いてしまったのは」
「いや、馬鹿、違うっ!」
ライダーは、あれ程までに綺麗なのに、どうにも自覚がないのか、すぐにこんなことを言う。いや、頭では知っている様子なのだけど、自信とか実感とかが無いのだろう。今のことも、からかわれているに違いないとは思い、でもそうとは言い切れない。幾ら賞賛されても、意識の奥底に刻まれてしまったコンプレックスみたいなものがあるみたいで。
「何が違うのですか?」
面白がっているようで、でも笑い飛ばして済ませたいみたいにも聞こえて。
「ライダーは綺麗だって、いつも言ってるじゃないか」
口にして、口説いてるみたいで頬が熱くなる。
「なら、どうしてそっぽ向いてしまうのですか?」
「いや、見ちゃ悪いと思って……」
「ふむ」
落ち着いた声になって、安堵したのに更に続いた。
「見たら気分が悪いのですね、私など」
「馬鹿、なんでそんな解釈するんだっ」
ひっくり返りそうになりつつ、否定する。
「それは、士郎が見て下さらないからですよ」
いや、からかわれているには、違いない。ただ、そこに本心からの怯えのようなものが、ひと欠片ぐらいは無いでもない気配だ。
クラクラしてるのはアルコールのせいか。意を決して、酒なんかよりよっぽどフラフラにされそうなライダーの方に向き直った。
服を着てくれていることは、望んでいたのかいなかったのか。どちらにせよ、ライダーはブラ一つな上半身を臆せず俺に向けていた。
お陰様で、いや、そのせいで、二つの峰がまともに目に入る。富士山かエベレストかって具合、カップの浅いブラから零れそう。間に生まれているのは千仞の谷。布地の黒と肌の白とがどちらも艶やかで、目の覚めるようなコントラストだ。
「ふふ……見たら怒るくせに、見なくてもやっぱり怒る……なんてことも、親密さの度合いによっては女性にはありますから」
そんな、無体な。でも確かに、言うとおりかも。
「じゃ、どうすれば良いのさ」
「そうですね、じゃれ合いのうちと楽しんでしまうか、上を行くか、そんなところでしょうね」
ライダーが嬉しそうなのは、俺が目を向けたからなのか。それとも、あれは赤いあくまの危険な笑いの同類なんだろうか。
「それで、士郎。もう一杯いかがですか?」
そう言って、ライダーは杯を向けてくる。
「いや、これ以上飲んだらまた何かしでかしそうだから」
ミスの結果でライダーの下着姿を堂々と拝んでいるんだし、そんなミスならしても良いかなとか思ってしまいつつ、それは駄目だと理性の在庫を確認する。あまり、豊富とは言えない。
「つれないですね……。しかし、それなら一連の粗相の罰杯と言うことでどうですか」
罰杯って、それはまた都合の良い習慣をご存じで。飲んべえの神様ってのもタチが悪い、けど日本の神様ってそんなが多い気もする。いや、目の前の神様も、パンパン手を叩きたくなるようなお見事な……って、いやいやいや。
「それは、粗相に粗相を重ねるだけだろうから、やめとく」
理性を新たに発注しつつ、なんとか拒む。
「つれないですね……では、代わりに注いで頂けますか?」
それは喜んで、と、今度は零さないように慎重に杯を満たす。
身を寄せられるとライダーから目を離せず、でもまともには見られなくて視線を下げられず、結局顔ばかり見ている。大杯を傾けて、口の端から一筋、雫が伝い落ちていく。こくんと喉の動くのが見えた。
ごくん、と釣られて俺も喉を鳴らしていた。
おかげで、やっぱり飲みませんかって誘われて、酒とライダーの姿とならどっちが耐えやすいかなんて考える。でも、飲んだらきっと理性が売り切れてどっちにも耐えられない。
杯を押し返したら、つれないですね、とまた呟く。
残念そうだから申し訳なく思っていると、不意に妖しい笑いを見せた。
「士郎、これが不満なのですか?」
大杯を示して訊いてくる。
「ん、なんでさ?」
「これを突き返しましたから、今。もっと他の杯からなら飲まれるのかと」
「他って、それしか無いんだろ?」
あったら、初めから回し呑みなんてしなかったわけだし。
いや、ひょっとして隠してた?
「用意はありません……しかし、私を杯にするのは如何です?」
「ライダーを、杯に?」
意味するところを頭が判ろうとしないうちに、肌で掴んでしまう。途端にまた、理性をごっそり取って行かれた。
「はい。一番簡単なのは、ここですね」
小首を傾げつつ、ほころばせた自分の口を指差す。するりと下唇を一撫でしたあと、いきなり壜からラッパ飲みで酒を含む。
顔を寄せて、目を閉じて唇を突き出して来る。
なるほど、と頭が追いついた。確かに、これはライダーを杯にする格好だ。世界の何処を探したって、これ以上に口当たりの良い杯はまず望めないだろう。
ではまあ、ひとつ――――?
「てっ、らいだーっ、冗談っ」
あんまりナチュラルな仕草だったから危うく応じかけて、辛うじて我に返って身を退いた。触れてもいないのに、唇が熱くなった。
「酔ってるだろ、ライダーッ」
駄目だ、理性の新規入荷はまだかっ。
こくん、と喉が動いて、ライダーが自分で飲んでくれる。
「つれないですね、本当に」
本気で落胆したみたいで、でもどうにも計算尽くみたいでもあり。
「私はこれぐらいでは酔いませんよ。酔っていると認める酒飲みなど架空の生物でしょうけど」
途端に、しゃんとして真っ直ぐ見据えてくる。真剣な表情だけど、レンズ越しの眼に魅入られて動けなくなる。魔眼なんてなくても、ライダーに見詰められたら痺れてしまうことに違いはない。
「酔った振りをすることはあるわけですが……ふふっ」
ライダーが、また一升瓶を掴む。両の腕が胸を左右から押し付け、持ち上げ、ただでさえ大きなバストの肉が動く。今にもブラのカップから先っぽが飛び出しそう。深い峡谷が強調される。こんな奇景を見るなと言うのが無理な話。
やがてそこに雨が降って、水たまりが出来る。
そんなわけがない、見れば、ライダーが壜から酒を胸元に零している。
「ライダー?」
くいっ、と更に胸を突き出し、笑う。
「唇が駄目なら、この杯からなら飲んで貰えますか?」
「なっ、そっ、そんなっ!」
寄せて上げられた胸の間に、大吟醸の泉が出来ている。
「そんなこと、出来るわけないだろっ!」
生唾をごくんごくん飲みながら、叫んでいた。
ごくんごくん。
「でも、飲みたがっていますよ、士郎の喉は」
「いや、駄目だってばっ……だからライダー、酔った振りだろ、これ?」
「いえいえ、私はまったく理性的に行動しています」
ああ、さっきから次々に売れていく理性はライダーがお買いあげに。ごひいきにありがとうございます、またのお越しをお待ち……してどうするっ。
「飲めませんか?」
また唾を飲んでしまいながら、激しく首を振る。
「そうですか。私の肌に触れたものなど飲めないんでね、そうですよね……」
「ラ……ッ」
いっそう激しく、首を振る。
ちらちら上目遣いで俺を見ながら、ライダーは笑っている。
ここまでされてるんだ、乗ってしまってもバチは当たらないと思う。そもそもライダーが神様なんだし。
いや、でも。
「士郎、申し訳ないです、嫌かも知れませんが、勿体ないですから飲んで頂けませんか」
「馬鹿、嫌だなんてことはっ……ないけど、そんなことっ」
遊ばれているとは思うけど、ライダーの声は真摯に詫びている響きもちゃんとある。
ふにゅん、と力の掛かり具合が変わって杯の形も変わる。液面が揺れている。
「飲んで下さらないと、肌着が濡れてしまいます。そうすると、それも拭かなければならないことになりますが、宜しいですか?」
肌着って、ブラジャー……を、拭く……。
コトの発端であるさっきの俺の失態が、早送りでプレイバック。
それはつまり、触るか、ソレも脱ぐかト言うコトデスカ?
――そんな事は、望めない。
そんなおいしいことは、望めない。そんなことをしたら、帰って来れない。
「……ワカリマシタ、らいだーサン」
そーっと、間違って他の所に触れたりしてしまわないように、胸の谷間に口を近付ける。アルコールの匂いが鼻に届き、でもそれとは違う何かが香って鼻孔を満たし、脳天まで突き抜ける。飛ぶように理性が売れていく。砕け散っていく。
ライダーの白い肌が婀娜っぽく赤らんでいて、だけど無色の液の底あたりは、酒が冷たいのか、真っ白に見える。くにゅ、と肉がまた動く。
「ライダー、頼むからじっとしてっ」
耳に届く忍び笑いからは、どうにも態とやってる気配が濃厚。でも、精一杯、理性の在庫を積み上げて、御神酒でも頂くように厳かな心持ちを奮い起こす。
じゅっ、と唇を浸して吸う。いっぱいいっぱいだから、まるで酒の味がしない。何を飲んでいるんだか判らない。ライダーを飲み込んでいるみたいなヘンな気分。いや、ライダーを飲み込むって、その言い方は駄目だ。危険な考えが浮んでしまう。まだもっと飲まないと無くならないのに、その言い方は良くない。飲んでいるのは酒だ。それに、ライダーを飲むとは普通は言わない、それを言うならライダーを食べる――――
――不穏な思考を、停 しロ。
ノむ、のハ、お酒 だ。
飲むにつれ当然ながら酒が減って、それは有り難いけど、より谷間の奥に沈んでいく。もう、頬に胸が触れるか触れないかってぐらいで、いや、触れた気がするけどそれは気のせいだと、言い聞かセる。
「ライダー、ちょっとだけ力を緩めて」
何の力とは言わなかったけど理解してくれたらしく、谷間が広くなって接触事故は避けられそう。
更に唇を突き出して、飲もうとしたら液面が逃げた。ん? と思う間にも更に下がった。
理由に気付いて、
「ライダー、ストップッ」
胸の谷間から落ちたら決死のダイブが結局無駄に。思ったら叫んでいたけど、間に合わずライダーは力を緩め過ぎていた。
「駄目だってっ!」
咄嗟に手が出て、押えていた。ぎりぎり間に合ったというべきか、零れはしたみたいだけど胸の谷間に泉は残っている。
ほっと安堵して、残りを飲む。やっと味のした大吟醸は馥郁と、手にした杯はふっくらと。
……。
…………。
………………ふっくら?
不意に、ライダーが俺の耳元に唇を寄せて居るのが感じられた。
どういうわけか、紡がれる言葉を未来視にでも目覚めたかのように、正確に予知する。僅かの後に届いたのは、実際、イントネーションまで含めてその通りだった。
「士郎の、えっち」
ライダーの胸を押えたのだカラ、つまり、いま俺は、ライダーのおっぱいを、また思いっきり触っている――――っ!!
早く離れろって脳みそからの命令を無視した両手がむにむにと独りでにひとしきり揉んでしまったりした後。
ぎゃーーっとばかり、きっとギネスブックものの座りジャンプの記録を出しながら、飛び退いた。
フルマラソンをスプリントしたみたいに心臓が打ちまくっている。掌に、指に、夢のように柔らかで弾む感触が残響している。
「士郎?」
だけどライダーの声は冷静で、それがパニクった頭に冷水を浴びせてくれる。
「ら、らいだー?」
ともかくも、怒った様子ではないのが幸い。この状況で怒られちゃ理不尽だと言いたいけど、ソレはソレだし。
「ちょっと傷付きます……」
え?
思いっきり掴んでしまって、そこからさっきのジャンプだから、引っ掻いたりしたかも……。
「そんな、いくら私がこの世全ての蛇蝎の母のようなものであるにしても、一応は女の姿をしているのです。その胸に触っておいて、毒虫でも握ったみたいに慌てられては……」
「ばっ、ちがっ」
幾らなんでも、これは遊ばれている、でも、泣き崩れんばかりの姿はやっぱり充分な迫力。どうしても、真っ当に反論せずに居られない。
「違うっ、ライダー、まさに女の人の胸に触ったりしたことに慌てただけでっ」
「ほんとうに?」
「本当に!」
怯えた風な視線をくれる。での口元は不穏に笑っている。
「では、この胸の痛みを除いてくれますか?」
「胸の痛みって、どうすれば?」
目を向けると、結局ブラジャーも濡れていて、酒まみれの肌は艶を増して余計に輝いているだけ。名残惜しんで逸らしがたい眼を、頑張って逸らす。
「そうですね。では、『痛いの痛いの飛んでけー』って、して頂けますか?」
なんでさ。
「いや、怪我じゃないんだし、そんな子供のマジナイみたいなこと」
「いいえ。ほら」
胸の間を指さす。ためらいつつ見ると、黒いブラの上から覗く真珠色のバストに、確かに紅い筋が付いている。やっぱり、爪で引っ掻くとかしていたみたい。
「ですから、『痛いの痛いの……』って。母親が子供に使えば充分に効果を示すマジナイですよ? ほら、痛いところを撫で撫でしながら一度だけ言って下されば充分だと思いますから」
撫でながらって、それじゃ、また触ることに。
……そんなことは、望んでもいいのカナ?
理性の流通が滞っているみたいで、品薄になる一方。
ためらっていると、ライダーがまた拗ねて見せている。
「悪い人ですね、士郎。人を傷ものにしておいて、謝罪の意も見せて下さらないんですね」
「待てマテ、傷ものってっ」
「傷ですよ、間違いなく。判りました、『痛いの痛いの……』には抵抗があるみたいですから、その代わり、舐めて下さい」
「なっ、舐めるっ?」
もう、さっきから同じ反応しかしていない。
「はい、唾を付けて欲しいのです、士郎のを。自分でも届かなくはないのですが」
言って、やって見せてくれた。
手で膨らみを押し上げ、ライダーは俯いて舌を突き出す。柔肉の変形する様子に、感触が手に蘇る。そこに、生々しい肉色の長い舌が延びて、ちろちろと肌を舐める。蛇が卵を呑もうと探っているところを思わせ、これっとわりとグロテスクな連想のはずなのに扇情的。
食い入るように見て、自分が気持ちいいトコを舐められているのを妄想してしまっていた。
お客様、もう理性は品薄です。数量限定にご協力をお願い申し上げます。
「それもして下さらないとなると、残念ですが、桜に報告を……」
「ちょ、とぁあっ、まったあっっっ!」
それは困るっっ。いや、どう考えてもライダーの方にも色々と原因の十パーセントとか半分とか九割とか九分九厘とかありそうだけど、桜にこの事態を告げられると、それまたどう考えても困った結論になるのが1ppmの間違いもなさそう。
それは、ライダーだって判っているはず。
だから、玩具にされているのは重々判りつつ、でもやっぱり一滴ばかりの真剣さはあって、冗談だけでは済ませられない。
「判った、するからっ。いっそ、どっちもさせて頂きます、はいっ」
言って、勢いを無くさないままライダーの胸の紅い筋に手を伸ばす。触れると同時に、呪文を口にする。
「痛いの痛いの……」
指に触れるライダーの肌は、しっとりと柔らかく、ぞくりとするほど滑らかで、とろけそうに温かくて、ぴんっと健康な張りがあって、たっぷりと潤っている。湿り気は、酒じゃなくてライダーの唾だ。いや、汗かも。ともかく、撫でているだけで逝ってしまいそう。
「トんでけ〜」
口の中が乾いて、声が裏返っていた。
満足してくれたのかどうか、ライダーは黙って俺を見ている。
今度は唾を付けるのを待っているんだと、気付く。
もう、理性は売り切れ寸前。再入荷の望み無し。
ほんの今、口の中がカラカラになったと思ったのに、まだ残っているあの紅い跡に唾を付けなきゃならないとなると、溢れるほど湧いてくる。
どうにも現金というのか何というのか、自分で呆れた。
意を決してそーっと顔を寄せると、また芳しい匂いに鼻腔を満たされる。ブラジャーの薄い生地が結局は濡れて肌に張り付いて、グレープフルーツみたいな丸みのてっぺんに、危うい位置でブラに隠れて、ツンと尖ったところが――っ。
保た、ない。
だから、忘れる。舌に唾液を載せ、突き出して、引っ掻き傷を舐めようとする。
そんなこと、俺に出来るのか? 己を疑う。
しかし。
難しい筈は無い、
不可能な事でもない。
もとよりこの身は、ただそれだけに特化した――――??
やってのけた。舌に触れたライダーの肌は、ほのかに甘いようで、ちょっとだけ塩気があるようで、舌触りは極上。念入りに裏漉ししたみたいに肌理細かくてクリーミー。まったりとして、そのくせ、しつこくは無い。イメージするのはクレームブリュレ。トッピングに生クリーム。
って、何を批評してるんだ。
知らず、何度も繰り返して、ぺろぺろ舌を這わせていた。それどころか、唇を押し当てて吸い付いていた。
これで飛び退いたりしたら同じことの繰り返しと奇跡的に思い当たり、静かに離れようとした瞬間、くすくす笑う声と共に頭を抱き締められた。
そのまま、ライダーの胸の間に顔を埋めてしまうことになる。
理性、完売。
あるいは、完敗。
さっきから、ほんの少しずつ味わっていた肌触りとか芳香とか温もりとか、いっぺんに顔全体で感じてしまって、突風のように何か、ごっそり持って行かれた。
抗う術などない。堪えようとした事など、ここではあまりにも人間らしい。
「ライ、だぁ?」
息を吸ったら、ライダーの匂いを感じてしまうから、吸えない。
息を吐いたら、女神を穢すみたいな気がして、吐けない。
いや、それ以前に単純に、豊満な胸に溺れて息が出来ない。
両手をばたばたさせて、もがく。少しだけ隙間が開いたら、今度は官能を擽る香りの空気を肺にいっぱいに吸ってしまう。きっと致死量を軽く超えている。血管を伝って全身に運ばれて、末端まで痺れさせられて行く。
「普通は女性にこのようなことをされたら、嬉しいものなのではないのですか?」
「うれしいに、きまってるっ」
「そのわりに、必死で逃げようとしているように見えるのですが。やっぱり私などでは駄目なのですね」
いや、ライダー、幾らなんでもちょっとしつこい。ライダーにこんなことされて嬉しくないやつなんて、男じゃないっ。
「嬉しすぎて死にそうだっ。から、もう勘弁して……」
「ふふふ……優しいですね、士郎は」
くすくす笑う声がしばし続いて、開放してもらえた。
やっと普通に息が出来る。深呼吸して、鼓動を鎮めようとする。その途中なのに、
「おや?」
声に引かれて、ライダーの方を見た。
見てしまった、と表現するのが正しい。
「士郎、いつのまに……」
ライダーの胸元から、黒いものが消えていた。
呼吸を忘れる。
体は自由なのに。
石化の魔眼を喰らったのと変わらぬほどに、硬直した。
この世のものならぬ美しさに、人の身で姿を見れば視力を失う。裸体を眼にしようものなら即死は免れ得ない。
メドゥーサのことではないけど、そんな伝承を思い出して、まだ目が潰れず、命もあることが不思議だった。
ブラが外れて、ライダーは腰から上が全くの裸体なのだから。
二つの膨らみは白い宝珠、頂には尚のこと光る薔薇色の輝石。
時間は止まっていた。
おそらくは一秒すらなかった光景。
なぜなら、もう一度、むぎゅって抱きしめられたから。
時間はこの瞬間のみ永遠となり、
彼女を象徴する紫の髪が風に揺れる。
母なる海に浮かんでいるみたいな、子宮に帰ったとでも表現するような、優しい感触。でも、俺の男の部分は母性より異性を感じていて、安らぎより劣情を覚えている。疲れ果て、傷付き、渇き、すり減り、ひび割れ、ささくれ立った魂さえも、包んで宥めて休ませて潤して鎮めて愛撫して歓びに満たしてしまう、圧倒的な快感。恍惚。
絶頂が吹いている。
秒速百メートルを優に超える超風。
ゆえに。
この喜悦ならば、たとえ地獄に落ちようと、鮮明に思い返す事ができるだろう。
「ふふ、私も嬉しいです。こんな大女の胸でも、見たいと思ってくださったんですね?」
「その、何の、ハナシ?」
ぐずぐずと官能に溶けて、温かなライダーの海に沈んで同化していく。
「さっき、こっそりブラのフロントホックを外していたのでしょう? やりますね、士郎も。意外でした」
「いや、そんなこと……」
したつもりは、無いけれど。
記憶の消失を止められない。
「士郎が優しくしてくれたお礼です、お好きなだけ味わって下さい」
理性の在庫ゼロ、店頭にも残っていません。
さっきは、まだしもブラジャーの生地が聖骸布のように守ってくれていた。
今は、ライ の胸に、 肌に、直に 触れ、て――――。
「さっき胸にキスして下さったのも、嬉しかったですよ。今度は吸ってみますか? そのためのところを」
そのためのところ。 っぱいの、吸うためにあるところ。それは。
ち び。
吸った。
白くとける。
体も意識も無感動に崩れていく。
それにともなって、陽だまりに寝そべってまどろむような、安らかな法悦に変わっていく。忘却の椅子に腰掛けたように、自分が誰か、何をするかを、きっと無くしてしまっている。世界が終わるまで陶酔していても良いと思えてくる。
「手で触っても良いですよ、士郎……」
更なる堕落に誘う蛇の囁きが耳から流れ込んで、媚薬のように沁みていく。禁断の木の実を手に取れと。お前こそがお前の主、一番大事なのはお前だと。
欲しいだけ、むさぼれ。思うままに味わえ。好きに楽しめ。生とは快楽の追究であり、それがない人間は獣と同じ。
だから、ライダーの胸に抱かれて溺死しても、それは、間違い、なんかじゃない……! 綺麗だったから憧れた!
――この道が。今の自分が、間違ってないって信じている。
届かない。
もう声は聞こえない。
光に包まれて何も見えない。
それでも、やがて力が緩んで、地獄のような極楽の体験ツアーから奇蹟の生還を果たす。
空が、見える。
ほんの少し、ただ腕を伸ばすだけで、空へ抜ける。
開放されて、後ろに倒れて遠く澄んだ青空を仰ぎ、精神が時差を克服するのを待った。
やっと気付いた。俺は――――こんなに気持ちいい(こともある)世界に生きてるのですね。
手を伸ばす。
柔らかい大気は肌に、温かい陽を受ける。
たまたま薄紅の花びらが落ちて来るのを見て、桜の顔が頭に浮んだりして。
「――――ああ、覚えてる。桜――――花を見に行こう」
何の脈絡も無く、そんな言葉が頭に浮んだ。
見渡せば、この世のものとも思えぬ絶景。
柳洞寺にもほど近い郊外の森の中、小高い丘の上からあたりを眺めている。十月、秋の木の葉はすっかり色づいて、赤と黄色と緑と、その間のあらゆる色に樹々が染め分けられている。
だというのに、頭の上に咲いているのは、桜の花。
春に咲き誇る染井吉野のような、物狂おしい艶やかさは無い。だけど、葉っぱの錦を遠景にして、数本の木は花盛り。その淡い色は、清楚で涼やかだった。
遠い空は青く、くっきりとした白い雲が流れている。
「これは、贅沢と言うんでしょうね、先輩」
この場所を堪能しているもう一人である桜が、抑えた声で言った。
穏やかに風が吹いていて、ひらひら、ひらひら、少しずつ花びらが落ちてくる。
「うん。凄いところだろ?」
「はい。でも、もっと大勢で来れば良かったのに、どうして私だけ連れて来て下さったんですか?」
「ん……」
言われれば、その通りだ。
遠坂やら藤ねえやら、それに、一成とか美綴とか。みんな、呼んでくれば良かったのに。蒔寺とか氷室とか三枝とか、美綴の弟とか、声ぐらいは掛けても良かったのに。
「何でだろう? 桜と二人で来ないといけない気がしたんだけど」
口に出したら、それが誰かの願いだったように、思えた。
――はい。是非、サクラと二人きりで。
そう、約束していた。
「ふふ、それなら、今日は先輩を独り占めさせて頂きますね。皆さんとは、今度また」
そうしよう。さっきも苦労したし、あの崖を登るのは一仕事だけど、その価値はあると思うから。
「それにしても、ここのことって、前から知っていたんですか?」
「いや、ちょっと変な話だけど、つい最近思い出したんだ。俺も誰かに連れて来てもらったはずなんだけど、誰だったんだか」
入力先を間違って紛れ込んだみたいな、朧気な記憶の断片。
「切嗣さん、ではないんですか?」
親父ってのが一番ありそうではある。だけど、どうにもそうではないと思う。
「いや、多分、女の人なんだ」
「へえ。先輩、そんな良い人がいらっしゃったんですね」
自分の発した短い言葉に篭もった、過ぎ去った日々への叶わない憧憬みたいなものに、自分で驚いた。
ちょっと拗ねて見せたような桜の口ぶりは、そのせいだろう。
「馬鹿、そんなこと」
言いながら、その誰かが笑った気がした。どことなく、隣に立つ後輩に似ていて、だけどもっと、お姉さんな感じがする。
視界が滲んだ。また並んでこの花を見上げられたらって、切に願う。
だけど。
もう会う機会が無いってことだけは、魂が理解している。
あれは――――誰だったんだろう?
見知らぬ想い出のような記憶がほのかに薫って、だけど、花びらと一緒に舞い散った。
/エリュシオンの花・了
思えば(初めのアイデアから)遠くへ来たもんだ。
いつか、泣けて抜けて笑える多重次元屈折SSを書きたいものなのですが( ゚ ゚)ヾ
↑何か判らない人は、気になさらないでください。
(このSS、萌え/燃え/笑い/泣き/抜き/欝/馬鹿/ほのぼの/その他、何でしょう?)
©Syunsuke