みつみつみつ

秋月 修二 様


 ねっとりと絡む吐息。湿っぽさが襟元に吹き込んで、ぞくりと総毛立つ。腕の中には細い、女の子の体がある。
 鼻先を甘い匂いがくすぐって、少し正気を失いそうになる。全身に力が入った。抱き合っている訳ではなくて、ただ手を添えているくらいのもの。なのに、布越しに徹る体温は、何だか俺をくらくらさせる。
 凄く、相手を意識してる。いざこうして二人きりになると、どうしても気になってしまう。
 でも――相手は、俺の恋人じゃない。
「……これ、どうするんだ?」
「声出すなよ……」
 暗く窮屈な掃除用具箱の中、美綴と身を寄せ合って、息を潜めている。この閉所でくっ付きすぎないよう、どうにか距離を保つため、二人ともかなり体に無理をさせていた。そんなことをしなければならない理由――外には、
『……それを俺に言っても、どうしようもあるまい』
『貴方以外に言わないで、誰に文句つければ良いのよ』
 喧嘩の真っ最中の、一成と遠坂がいたりする。何が原因で言い争っているのかは知らないが、友人と恋人が争っているのだし、止めたいという気持ちはどうしても俺の中にあった。
 けれど、出られない。
 こんな状況で出たら何を言われるか、解ったものではない。矛先が俺に向いて終わりな気がする。取り敢えず、出るタイミングを逃した以上、隠れているしかない。
 一体どうして、こんなことになったのか。
 くっ付いたままでは、おかしな気持ちになってしまう。なので距離を取ろうとするも、下手に動くと物音を立てそうで怖い。だから、半端な身じろぎを繰り返すだけで終わってしまう。
「ちょ、動くと危ないって」
 首筋にかかる掠れ声。それは解っていても、触れ合っているとどうしても意識してしまう。打開策を考えようとして、もどかしさに揺れている。それは美綴も同じなのだろう、隙間からの明かりに浮かぶ瞳は、落ち着きを失っていた。
 正直な所、中のことで焦っているのか、外のことで焦っているのか、判断がついていない。いずれにせよ、ただ疲れる体勢を続けている。変に抱き合って、密着する訳にもいかなかった。
 外では何やら、歩き回るような足音がしている。
 ……気付かれたか?
 唾を飲み込む。だが、よくよく聞いてみれば、近づこうとしている訳ではないようだった。あちらが動き回っている今なら、こっちも動けるかもしれない。
「少し、離れるぞ……」
「だから、動くなってば……!」
 行動が逸ってしまい、肘に微かな衝撃が走る。心臓が止まる。美綴が左手で何かを止める。
 視界の端に、細長い棒が映った。モップを倒しそうになった、らしい。ぎりぎりの所で、美綴が間に合ってくれた。腕の部分をぎゅっと掴む手が、緊張で震えている。
『その件に関しては、俺ではなくて当人に言ってもらわなければ困る』
『貴方だって当人でしょうに』
 幸い遠坂たちに気付いた様子は無く、相変わらずの調子が続いている。今のは危なかった。倒した時のことを想像すると、血が凍るような思いがした。
 俺と美綴は、ひたすら息を殺そうとする。いつ終わるとも知れない会話に、酸欠気味の脳味噌が待ち切れなさを覚えてしまう。体勢を変えることが出来ないので、切迫感が並ではない。
 お互いの体の間にある隙間は、そう大きなものではない。それでも、相手を意識するには充分過ぎて。
「あの二人、なんでよりによってこんな場所で……」
「生徒会室だからな……」
 当たり前のことを返すも、美綴の不満は尤もだ。俺もそう思う。せめて別でやってくれれば、こんな苦労はしなかったのに。
 これで美綴が男だったら、まあそれはそれで嫌なものではあるが、くっ付くのに躊躇いもしなかったろう。けれど、美綴はやっぱり女の子なのだ。普段気丈に振舞っていても、こういう時はもろにそれが出てしまう。掌にある柔らかさが女の子を雄弁に語っていて、異性に慣れていない俺を、どうにかしてしまいそうになる。
 本気で余裕が無い。美綴に触れたことは何度かあったが、長い間こうしていたことなんて無かった。肌の弾力に集中して、頭に血が上ってしまう。
「衛宮」
「何?」
 遣り取りが手短になる。こんな所にも余裕の無さが出る。
「……苦しい」
「我慢しろ……」
 そんなことは重々承知している。けれど、美綴は小さく首を横に振る。美綴の体は上下に小さく痙攣していて、脚に無理をさせているのが解った。下に雑巾か何かがあって、真っ直ぐ立てないでいるのだろう。
「このままじゃ、無理だよ。バレるって」
 そう言って、僅かな隙間を少しだけ埋める。言わんとしていることを理解して、知らず疑問を口にする。頭の中に、外で張り切っている遠坂のことを浮かべた。
 遠坂と美綴――外と中とを天秤にかける。しかし、考えたって、選択肢は一つのような気もした。
 ――現状維持、ってのは無理だよなあ。でも……、
「いいのか?」
「……変なこと、しないなら」
 それが一番心配なのだが。
 だが、お互いこのままでは消耗も激しい。お言葉に甘えて、体勢を変えることにした。美綴が俺の胸元に滑り込んでくる。恐る恐る肩に手を回して、体のつっぱりを緩めた。
 触れている……いや、抱いている、か。
 そう意識すると、何も考えられなくなりそうだった。見た目は割と細いように思うのだが、実際じっくり感触を味わってみると、そこには確かさがある。細すぎる訳でもなくて、太すぎる訳でもない。健康的な体だった。
 遠坂とは、柔らかさの質が違う気がした。俺は遠坂の体しか知らない。
 そこまで考えて……打ち消した。
 美綴は震えながら俯いているので、俺の喉の辺りに吐息がかかっている。生温い色気に、背筋がぞくりとする。
 けれど、何より拙いのは、髪の毛が鼻先をくすぐっていることだ。くしゃみをして、全部台無しにしてしまいそうな危機感。流石にそうなったら、ただでは済まない。
 外では変わらず、刺々しい会話が続いている。争いに乗じて声を出す。
「美綴、顔、顔」
「顔が、何?」
「鼻に髪が」
 断片的で、いまいち要領を得ない発言だった。それでも、美綴はちゃんと意図を汲み取ってくれる。肌と肌を擦らせながらも、美綴は顔を上げる。唇が顎のあたりを掠めて、吸いかけた酸素を忘れて、
「――っ!」
 息を飲んだのは、どちらが先だったろう。
 美綴はそこそこ上背があって、俺は逆に背が高くない。身長差のあまり無い二人が顔をつき合わせると。
 ――当然、間近で視線を絡めることになる。
 真っ直ぐで綺麗な瞳が、俺の視界に映っている。少し茶色っぽい目は、驚いた猫を思わせた。でも、驚いているのはこちらも同じで、慌てることすら出来なくなる。仕方が無かったとはいえ、この不意打ちにはやられてしまう。
 ちょっと動けば、鼻と鼻がぶつかりそうになる。何か喋ったりして、先に進んでしまおうものなら、まず間違いが起きる。そんな距離。
 口付けしそうな近さで、瞬きもせず見詰め合っている。頭の中は拙いとかヤバイとか、そんな言葉でいっぱいになっている。お互いさっきから表情に変化は無く、膠着状態のまま。なのに体温は伝わってくるし、鼓動も何となく読み取れてしまう。今の美綴は、熱くて早い。
 そして、俺も。
 どうすれば良いのだろうか。正気を失った頭は、まるで靄がかかったようになってしまっている。美綴が女の子だということは知っている。けれど、腕の中の女の子がこんなに可愛かったなんて、俺は知らなかった。神経は過敏なのに、頭は酷く鈍感だ。
 行き詰った時間が、ゆっくりと過ぎていく。これは本当に現実か?
『……だから!』
 と、両者の体が戦慄いた。
 遠坂が怒鳴ったのだな、と遅まきながら知る。呆ける手前、ギリギリのタイミングだったが、それで少しだけ醒めた。ようやく許された瞬きで、思考が戻ってくる。それでも心臓は暴れていて、美綴にどきどきしているのか、怒声にどきどきしているのか、線引きはまるではっきりしない。
 今更のように気恥ずかしさが込み上げて、どちらからともなく目を逸らした。意識しっぱなしだ。美綴は今、一体どんなことを思ったんだろう。あまり想像しちゃいけない気がした。
『……それは、貴方が解決するべきなんじゃないの?』
『俺には、貴様の言いたいことが解らないんだがな』
 トーンを抑えてはいるものの、感情は昂ぶっているらしい。遠坂と一成の会話は遅々として進展せず、平行線のまま煮えている。だが俺の中ではもう、喧嘩するなとかそれ以前に、バレませんようにと祈る気持ちが強くなっている。
 こちらはこちらで大変なことになっているのだ、外どころではない。唇を触れさせないように用心しながら、話しかけた。
「長く、かかりそうだな」
「そう、みたいだな」
 多少位置をずらした関係で、光が美綴の目に当たった。眩しげに閉じかけた瞼、瞳が大きくなったり小さくなったりしている。
 正直な所、会話の中身なんてどうでも良かった。ここに充満している危うさを、どうにかしたかっただけだ。けれど会話は長続きしない。
 時折思い出したように、美綴は小さく揺れる。行ったり来たりするその動作は、頭の位置を決めかねているのだろうか。あんまり動かないで欲しいのだが、制止の声を上げるのは躊躇われた。いきなり声をかけた時、どうなるかが解らない。唇同士が触れ合ってしまったら……その時はもう、止まれる自信がない。
 くっついているだけ余地があるはずなのに、狭苦しさは増した感がある。なかなか自由になれない。さっきから心臓の音がうるさくて、外の様子が掴み難い。
 温い呼気が鼻の辺りをくすぐっている。ミントの匂いがして、笑った時に唇から覗く形良い歯を連想する。
 そして、一つ連想してしまうと、次々と思考が飛躍していく。遠坂への意識が少し揺らいだ。
 ……あ、拙い。
 意識した時には――した所でどうしようもないのだが――下半身の方が反応してしまっていた。今まで緊張感で誤魔化していたのに、一度そうなってしまうと、血液がそっちに集中してしまう。
 股間が勝手に膨らむという慣れた感覚に、僅か腰を引かせる。でも、何かにぶつかるのが怖くて、離れきれない。このままでは美綴に気付かれてしまう。中にも外にもバレないようにと、大変なことになっている。
 おかしい。
 なんで俺はこんなことになっている?
 何か悪いことしたっけか?
 居心地の悪さに眩暈がする。こうなると現状は毒みたいなもので、美綴に触れている事実が俺の歯止めを怪しくさせる。もういっそ割り切ってしまおうか、なんて馬鹿げたことすら考える。慌てた頭では、まともな策が浮かばない。
「……衛宮」
 話しかけられる。産毛を撫でるような空気の乱れに、距離感を強く意識する。本当に、どうしようもないくらい近い。返事なんか出来なかった。今ちょっと立て込んでるから、後にしてくれないか。こんなこと、言葉にせずとも相手に伝わるのなら、外で口論なんて起こらないだろうに。ああでも、解ったら解ったで揉めるのか。
 混乱している。無関係な方向に行きかけた。
「衛宮、ってば……」
 俺の応答が無いからだろう、美綴は小さく身じろぎをして、気付いてもらおうと頑張っている。肩に置いた手が左右に振られた。指の関節が箱に触れて、俺はその冷たさに戦慄く。それと同時、下半身の敏感な場所が美綴で擦られて、のっぴきならない状況に追い詰められてしまう。
 美綴さん、本当、勘弁してください。
 するとその悲鳴が届いたのか、美綴は体を揺らすのを止めた。ああ、助かった。俺は手に力を込めて、聞こえていると知らせる。
「……一つ、訊いていいか?」
 少し顔の角度を変えて、美綴は問いかける。暗さなどの要因が絡んで、俺から美綴の顔は見えない。それはせめてもの救いだった。
「何だ――?」
 痰が絡んだみたいに、巧く喉が使えない。油断出来ないのは一向に変わっていなくて、それでも、何が来るかと待ち構える。この気まずさを和らげてくれれば、なんて半分逃避をしていると、
「この……何というか、太股に当たってるのは、形状記憶合金か何かか?」
 ――洒落た表現ですね、美綴さん。
 気付かれた、と意識が遠くなりかける。正直に話す訳にはいかない、けれどじゃあ、どう言い訳すれば良いのか。答えが巧く見つからず、堂々巡りを繰り返す。どう言ったって、裏目に出そうだった。
 ただでも気まずい雰囲気だったのに、ますます気まずくなってしまう。こちらが黙りこくっていると、男性器ではないという否定でも欲しいのか、美綴がせっついてくる。
 知らなければ良いことが、世の中にはこんなに溢れているのに。
 しかし、俺がやはり何も言わないでいるので、美綴も体を動かすことを止めた。というよりも、固まってしまったように見える。今までくっついていたものの正体を思えば、無理も無い。自分から擦り寄っていたも同然なのだから。
 美綴は弟がいるはずだが、男がこういう生き物だと解っているのだろうか。生理現象なのだし、笑って許してくれないかな、なんて変な期待をする。
 でも、当たっているのは変わりがない訳で。
 呼吸が荒くて、やたらと耳に響く。俺の呼吸か、美綴の呼吸か。焦っているのか、興奮しているのか。
 多分、両方だ。
 太股に性器を擦り付けているという現状に、眩暈がしそうになる。危うさが徐々に募っているのに、昂ぶってしまうのは何故だろう。とにかく距離を取れと、ちっぽけな理性が指摘する。
「……美綴、離れる」
「待てって」
 退こうとした腰を止められた。離れなければ拙いのに、ほんのちょっとの力で、俺は体を縛り付けられてしまう。
 告げる美綴の声は、隠しようもなく震えている。覚束無い制止に、酷い緊張が読み取れた。無理をさせているな、と思った。
 でも、そうと解っていても、簡単に熱は引いてくれない。触れ合っている部分の温度が、いつもと違う掠れた声が、柔らかい肢体が――正気を削っていく。
 自分のダメさ加減が助長されて、たとえ今見つかったとしても、甘んじて受けようという気になった。何故って実際、俺は美綴にどうしようもなく欲情している。危ないのは自分なのに、どうして美綴は止めるのだろう。
 反応を窺おうにも、俺の目からは美綴の首筋くらいしか見えない。そして、普段なら白いはずの肌は、朱に染まっている。鼻先を近づけると、少しだけ汗の匂いがした。なのに不快を感じさせない。
「……慌てない、深呼吸」
 勧めに従い、大人しく深呼吸する。酸素が薄いので、あまり効果が無い。加えてこの距離だ、肺が美綴で一杯になって、ますます狂いそうになる。
 それでも、どうにか覚悟は決まる。もう誤魔化していられない。ここまで来たら、もう白状してしまおう。事情が事情だ、離れないとお互いに良くない。
「な、なあ、俺は――」
「ストップ」
 そして、思い切って口を開く。だが、言い切る前に、それは遮られてしまう。
 まるで甘えるみたいに、美綴が俺の首に熱っぽい額を当てた。とにかく顔を隠したいのだろう、ということだけが読み取れた。けれど、たとえそうであっても、それどころではいられない。
 体温に、仕草に、やられてしまう。
 喋ろうとして、美綴は一度だけ頭を上下させた。顔を洗う猫の仕草。整った毛先が首筋を掃くと同時、鎖骨の辺りに湿気が忍び込む。それだけで肌が粟立つ。
 何を言われてしまうのかと不安で、緊張が走る。変態と罵られたって当然で、でもそうだったら、こうはならないような? あれ?
 ハテナばかりが浮かんでいる。
 思い切った調子で、美綴が切り出す。
「見つかるから黙って。それに……」
 ……恥ずかしいから、と。
 耳元で囁かれた言葉は、呆気無く俺を射殺した。
 まず最初に、幻聴かと考えてしまった。確かめるため横を向こうとしたら、顔を手で止められた。頬に指が触れて、どきりとする。かろうじて見えた耳は、真っ赤になってしまっている。意識してしまうから恥ずかしいのか、それとも、男性器をくっ付けられている今が恥ずかしいのか。或いは客観的に見れば、間が抜けているから、とか。
 どれもありそうで、ますます解らなくなってくる。外の喧騒さえ忘れて、俺は声を、唾を飲み込んでいる。少なくとも言えることは、理由はどうあれ、知っていて美綴は許したということだろう。
 自信は無いが、拒絶も無い。加えて言うなら余裕も無い。まだ姿勢には不自然があって、気を抜くと物にぶつかりそうになる。同じ格好で固まっていると、どうしても体に負荷がかかってしまう。
 いよいよ進退窮まった。チェックメイトだ。
『だからだな、あの時はそうするのが最善だと判断したまでの話だ』
『わたしは、どうしてそうなるのかって訊いてるのよ』
 遠坂たちの声が、鼓膜に沁みる。でも、どこか遠い気もした。
 外は白熱している。中も白熱している。熱すぎて感覚は麻痺しているみたいなのに、それでも鈍くはならず、鋭く鋭くなっていく。触れ合っている場所の全部に、焦がされている。美綴を性的な目で見たことが無かったとは言わないが、こうなると、予想以上に魅力的で参ってしまう。
 あれこれと想像する。この先どうするべきか、など。
 ……良いのかな、と考える。これは卑怯だな、とも。
 でも、ダメだったらどうしよう、とは考えなかった。
 想像でどうこうする訳ではなく、実際にどうこうする訳だし、迷いはどうしても出てしまう。けれど、足踏みを続けてもいられない。
 しかし。狭いし、苦しいし、暗いし、音を立てられないし……などなど理由は色々あったりもする。だから、今考えていることは、行動として間違ってはいない。そして、現状を否定されてもいない。
 言い訳かなあ。言い訳だよなあ。
 そう解っているのに、理性は何かに負けてしまったみたいだった。頭の中で、枷が一つ外れる。
 良い……んだよな。
 解らないが、もう、止まれそうにない。
 申し訳ないな、と思った。それは、誰に対してのものだったんだろう。
 息を止める。暴れる心臓をどうにか宥めようとして、結局失敗して、それでも美綴の肩に力を込めた。美綴の細い線がびくりとして、すぐに収まる。大丈夫かどうかを窺いながら、両手を背の方に回していく。俺に応えるかのように、美綴も恐々と手の位置をずらす。お互いの背に腕を絡める格好。
 抱き合って、しっかり身を寄せ合った。昂ぶりが強いのか、背中で鼓動が感じられる。掌を叩くリズムは早くて危なっかしくて、少しだけ強い。俺と同じ年の女の子の、美綴のリズムだ。
 二人とも、ドキドキしている。
 間を埋めただけお互いが支えになるので、ぐっと楽にはなった。けれど実際には、楽になった気がしない。相変わらず下半身は硬くなったままで、落ち着ける訳もない。
『そもそも、俺の決定はさておき、何故貴様がこの話に介入してくるのだ』
『納得出来ないからに、決まってるでしょう』
 喧騒はまだ、かろうじて耳に届いている。見つかったら拙いことに変わりはないが、外の争いにも多少は慣れた。スペース的には改善されたし、外の二人に気付かれる可能性は、多分少なくなったのだろう。慣れる暇すら与えられないのは、内側の方だ。
 抱き合っているとは言え、まだ腕は躊躇っている。抱き締めるまで大胆にはなれなくて、ただ手を宛がっているような状態。それだけでも気分は浮ついている。今触れている制服だって男子と女子では違うのだし、体つきとなれば尚更だ。変に力を入れすぎたら、壊れてしまうのではないか、そんなことを思う。
 でも本当は、抱き締めたくて仕方が無い。
 だから、いけないとは解っていても、所在無い掌は美綴の背をさすってしまう。上から下、下から上へと、暴れる心臓を宥めるみたいに。
 そうしていると、時々感触が変わることに気付いた。ブラジャーの感触だな、と馬鹿みたいに理解する。それで一気に血が巡って、手の動きが澱んだ。
「何……してんの……」
 か細い声で、美綴は問う。そんなこと、俺にだって解らない。こうしていると心地良いので、何となくそうなってしまうのだ。
 素直に解答も出来ず、俺は言葉に詰まった。その間も手は動いている。肘を軸にして動いてくれているのが、せめてもの幸いだった。何かにぶつかって自滅することもない。
「衛宮……あっついよ……」
「ん、ゴメン――」
 そう言うだけあって、吐きかけられる息は本当に熱い。そして、制服に沁みる美綴の酸素は、酷く湿っている。
 顔を肩に預ける体勢なので、美綴の耳は俺の首筋にくっついている。唾を飲み込む音、呼吸、血流。何もかも聞かれている。髪の毛が一房ずれて、鎖骨に落ちる。
「……美綴、くすぐったい」
「あ――」
 髪の毛をどけようとして、ふっ、と美綴が息を吹いた。ぞくりとしたモノが、背筋を抜けていく。余韻を残しつつ薄れていくこの刺激の正体に――少しだけ覚えがあった。
 今のは、快感というヤツだ。
 こちらの内心も知らず、一仕事終えたとばかりに、美綴は元の位置に戻る。戻る際に、背に回っている指がきゅっと制服を掴んだ。しっかり掴んでいる方が楽なのかもしれない。でもそれは、俺に激しい切実さを募らせる。
「……制服、皺になるかも」
「別に、それは良いんだけど」
 拙い、マズイ、まずい。
 耳の奥で警報が鳴っている。縋る仕草と囁きで、下半身の方がますます猛ってしまう。反射的に踵を僅かずらしてしまい、それに伴って美綴のバランスが崩れる。足の位置が定まっていなかったのか、腕の中で美綴はまた震えていた。俺の方に体重がかかっている辺り、爪先立ちになってしまっているのかもしれない。
「大丈夫、か?」
「ゴメン、無理」
 美綴の指に力がこもる。そして、俺の脚を割るようにして、片脚が忍び込んでくる。
「――っ!?」
 ちょ、ちょっと待った……!
 形振り構っていられなかったのだろうが、幾らなんでも、それは。
 硬直に太股が当たると同時、美綴は驚いたように身震いした。勃起したものが触れているどころか、ぴったりと押し付けられているのだ。驚いても仕方が無い。俺も俺で、軽く走った気持ち良さに、身じろぎすら出来ずにいる。
「え、えみ、やぁ」
 どうしたものか解らないのだろう、俺の左足を挟み込む格好のまま、美綴は両脚をもじもじさせる。布越しとはいえその度に陰茎が撫でられて、太股のハリが感じられてしまう。柔らかい肌なのに、押せば押しただけ跳ね返る。
 前後左右どこにも進めず、美綴は行ったり来たりを繰り返す。どれだけ頑張っても、太股が陰茎から離れきることは無い。だから、そうすればするだけ、俺は逼迫していく。
「……ぁ、く」
 鈍く嬲られて、ついに俺は苦呻を上げる。
 これは、止めないと。
「美綴、それ、ヤバイ……」
「だ、だって――これ、どうすれば良いのよ……っ」
 まあ後先を考えず、このままどうこうすれば、色んな意味でどうにかなるとは思うのだが。……って違う、そうじゃない!
 美綴はすっかり慌てふためき、俺は正気が毟られている。収拾がつかない。とにかくこのまま動かれても困るので、先程やられたように、俺も美綴の腰を止めた。華奢なラインは、勢いに負けて軽くしなる。
 下半身が密着して、酷く落ち着かない。でも、あのままだったら達していたかもしれない。まるで安心出来ないまま、体勢だけが変わる。
「衛宮、痛い……力緩めて……」
「……暴れられると、困る」
 言っていてふと、それが本音なのか建前なのか、判断がつかなかった。この心地良さに負けて、何だか、全部を滅茶苦茶にしてしまいそうで。
 外には遠坂がいて、そうでなくても美綴に手を出すなんて出来ないのに。
 油断しかかっていたら、美綴が不意に顔を上げた。間近で視線が合う。顔は全体的に紅潮していて、瞳が頼りなく揺れている。
 可愛い表情だなと思った。
 可愛いから――ダメだとも思った。
 その表情に、身勝手な期待を嗅ぎ取ってしまうから。
『どうしてそこで――ええい、少し待て。何か食い違いがある気がする』
『んん? 最初から説明すれば良いのかしら』
 外の争いのトーンが変わる。そこでようやく、腰に回した手が危うい場所にいると気付く。スカートは上着とは手触りが違うのに、熱に浮かされて忘れていた。小指は緩やかなカーブに触れていて、これより下がると、もうお尻に辿り着いてしまうと訴えている。
 もう限界だ。外はまだか。まだ行ってくれないのか。二人が行ったら、ここから出られるのに。
 でも、それを本当に望んでいるか?
 唾を飲み込む。汗がこめかみを伝って降りていく。
 視線の先は美綴でいっぱい。
「……美綴、平熱高い?」
「ん……そうでも、ない」
 吐息が顔の間に溜まる。鼻先で突付き合えるくらいの隙間しか無いのだから、当たり前だ。胸がばくばくして煩い。胸と言えば、今こうして当たっているのは――ああ、考えて良いのか? 踏み出してしまって良いのか?
 下半身が、痛いくらいに硬くなっている。押し付けられた胸の膨らみが、尚更それを硬くする。美綴が呼吸するたびに、感触が変わっていけない気持ちになる。体勢がどうなっているかなんて、とっくに解っているはずなのに、美綴はどうしてそのままにしておくんだろう。
「衛宮――ちょっとだけ、楽にして良い……?」
「大丈夫、だけど」
 余地がまだ足りなかったらしく、脚がそっと蠢いた。妖しく股間の膨らみを撫でながら、バランスを取ろうとしている。腕は背中を遡って、首へと回る。耳元を衣擦れが過ぎったと同時、襟足を指先が掠めていった。
「……これでちょっとだけ、顔離せるね」
 頷こうとして、失敗した。
 ああ、今まで鼻から下はかろうじて見えなかったのに、これで全部が見えてしまった。それにこの姿勢は、まるで恋人同士のようで。
「何か、変な感じ……」
「何が……?」
 喉が渇く。唾をまた飲み込もうとして、巧くいかなかった。すぐ傍の相手に全意識を集中させている。暗がりの中、美綴が舌で唇を湿らせた。それが何故だかはっきりと見えた。ちろ、と一瞬だけ覗いた先端に、心音が狂いだす。
「頭、ぼうっと、する」
 首を少し振ったのか、髪の毛に光が反射して、眩い茶色が目を焼いた。瞼を下ろし、すっと走った光の跡を追う。どこか夢のようだと思った。こんなにも現実味があるのに、どうして。ここでこうしているのは確かだと解っているのに、そんなことある訳がないと疑っている。
 確かさが、リアリティが欲しくなる。
 拒絶されたくはないのに、拒絶されればきっと夢から醒めるだとか、はっきりしないことを考える。自分のポジションが掴めないままに、変化を求めている。
 拒んでほしい。拒んでほしくない。
 何がどうしたいんだ?
 どっちつかずのまま、おかしくなっていく。散漫な思考では、何一つ解答が出せない。解答を出したがっていない。自分が解らなくなるにつれて、酸素と水分も減っていく。
「衛宮、汗、かいてる」
「あ……悪い、汚いだろ」
「だとしたら……クリーニング代でも、出してくれる?」
「いい、けど」
「ん――冗談だよ。汗くらい、誰でもかくし……」
 呟いて、美綴は俺のうなじにつっと指を這わせた。熱の塊が過ぎったような錯覚。耳の辺りで何やら聞こえるのは、自分の制服で汗を拭っているらしい。作業が終わると、また腕を元通りに絡める。
 頬を上気させて、呼吸を荒げて、美綴は呆けたような表情を覗かせている。頭を近づけすぎないようにしているので、少し仰け反り気味になっている。唾液を飲み込んだのか、暗がりに透けるような喉が、少しだけぶれた。
 その仕草に見惚れる。脳がふやけた。
 歯止めが利かない、箍が外れる。
 芯が疼いている。どうして良いか解らない。箱の外にはアイツがいて、堪えないといけないのに、ただ、
「……美綴、頭、楽にして――」
「ん、あっ」
 ただ、そうして欲しくて。
 ――自制を、手放した。

続き

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© 秋月 修二