黒いワンピースの裾が、水中で翻る。
 白い腕が水をかき、すらりとした身が躍る。
 長い黒髪が、白い肌に張り付いている。
 水飛沫。そして微笑。
 人魚だ。
 四角い海で、モノクロの人魚が泳いでいる。

Mermaid Smiled

秋月 修二 様


◆1

 午後十一時。もう少しで真夜中に手が届く時間帯。
 僕は藤乃ちゃんと二人、市内でも有数の広さを誇るプールにやってきていた。本来ならとっくに閉まっているはずなのだが、そこは橙子さんが事前に手回しをしていたらしい。ここの館長が橙子さんの知り合いらしいが、あの人はどこでどんな繋がりがあるのか、よく解らないところがある。
「静か、ですね」
「そうだね。普段はもっと人がいるんだろうけど」
 誰もいない廊下を進む。ここまでは良かったが、ロッカーからは靴を脱がなければならない。僕は下足箱に革靴を突っ込んで、藤乃ちゃんを促した。少し緊張した顔が、僕を見詰めている。
 まだ、不安なのだろう。
 隣にいる藤乃ちゃんの手を取った。彼女は一瞬驚いて、それから柔らかく笑う。
「手、冷たいですね」
「あれ、気付かなかった。冷えてたのかな」
 時間と場所の問題か、少し緊張していたのかもしれない。ただ、そう言う藤乃ちゃんの手も、随分と冷たくなっていた。
「……手が冷たい人は、心が温かい人らしいですよ?」
「じゃあ、藤乃ちゃんは心が温かいんだろうね」
 藤乃ちゃんの顔が、ぱっと赤くなる。それを見たら、何となく気持ちが緩んだ。
 手を繋いだまま、決して離そうとせず、藤乃ちゃんは器用に靴を脱いだ。素足が床に触れて、かすかに身をよじる。不慣れな温度に、たじろいでいるのが解った。
「焦らないでね」
「はい」
 頷き、恐る恐る両脚を地につけて、彼女は自分を確かめた。
 ――藤乃ちゃんは、感覚を取り戻している。
 詳しい経緯は知らないが、藤乃ちゃんが望み、橙子さんがそれに応えた、ということらしい。
 須らく、望みは果たされた。
 橙子さん曰く、今はまだ体が鋭敏すぎて、藤乃ちゃんは日常に支障をきたす可能性が高い。今まで時間をかけてそれを調整してはきたが、まだ不安な所は残っているので、全身の感覚を一気に確かめられて、且つ衝撃の少ない『水』というチェックを通す必要があるそうだ。そして、それに適した場所として、このプールが選ばれた。
 大丈夫かどうかは、僕の判断に任せる。橙子さんはそう言っていた。
 そこに何の意図があるのかは解らない。けれど、相応の考えがあってのことなのだろう。
 藤乃ちゃんにとって、感覚は――
「……行こうか」
 手に、力を込めた。返事は、小さな手から同様に返る冷たさ。お互い離れるまいと、強く手を繋いだ。
 ロッカーを通り抜けると、そこはプールサイドだった。藤乃ちゃんは持って来たバッグをドアの脇に置くと、周囲を見渡した。
 言われるだけあって、確かに広い。館長なりの気配りか、ライトは最小限でありながらも、まだ灯されている。さざめく水面の上、白い明かりが点々と足跡を並べている。暗い世界は丸く切り抜かれ、澄んだ青を浮き彫りにする。
 ただのプール。真夜中のプール。
 しかし、この空気はどこか綺麗で、神秘的なものに見えた。
「不思議、ですね」
 呆、と深い溜息を混じらせ、藤乃ちゃんは感嘆を漏らす。僕も無言で頷く。意見が重なったことに、何となく嬉しくなった。
 二人で水際に立ち、軽くプールに手を入れてみたりする。映り込んだライトが、頼りなく揺らいだ。吸い込まれそうな感覚。
「……じゃあ、どうするのかな?」
 僕はどういう段取りがあるかを、一切聞いていない。取り敢えず行ってこい、ということだったが、何かチェックすべきことはあるのだろうか。
 しかし、僕の問いかけに、藤乃ちゃんはきょとんとした表情を向ける。
「聞いてないんですか?」
「うん。何も」
「わたしも何も言われてませんけど……」
 お互いの間に、沈黙が流れる。まさかどちらも、何も言われていないとは思わなかった。思案してみても、魔術やら人体やらに疎い僕では、ロクなことを考えられるはずもない。
「まあ……プールを選んだってことは、取り敢えず泳げってことなんだよね」
「そう、でしょうね」
「じゃあ、泳いでみて、何かおかしい感じが無いか確かめてみようか」
「はい」
 頷く藤乃ちゃんを見て、そういえば水着の用意はあるのだろうか、と考える。その思考はすぐに打ち切られることになった。彼女が着替えることもなく、そのまま脚をプールに入れたからだ。
 驚く僕を余所に、藤乃ちゃんは悪戯に笑んでみせる。
「着替えはあるんですけど、水着は無いんです」
 着替えは僕の所に泊まったのだからさておくとして、事務所でいきなり行けと言われた以上、水着は無いか。まあ、橙子さんは唐突に話を進めることが多いし、無理も無い。
 ……ただ、かなり大胆なことをしているのではないだろうか、と思うだけで。
「じゃあ、見ててくださいね」
「うん。ちゃんと見てるよ」
 ちゃぷ、と小さな音を立てて、藤乃ちゃんの肢体が水中に滑り込む。ワンピースの裾が大きく広がって、膝が一瞬見え隠れした。彼女は肩まで浸った辺りで、大きく身を震わせる。
「冷たいかな?」
「ええ、少し。でも、これくらいなら大丈夫ですよ」
 言い置いて、そっと水底を歩き出す。黒髪は半ばまでは乾いているが、もう半分はすっかり濡れてしまっている。藤乃ちゃんが歩みを進めるたび、首の辺りで艶めいた黒が、絡み付いては離れを繰り返した。
 細い腕が水をかく。少しずつ、進みが速くなっていく。ワンピースの肩紐がずれて、ブラの肩紐との四本が、肌に食い込んでいるのが見えた。ゆったりとした作りの服は、水に入ると隙間だらけになるのだと、僕は今更知った。
 それは、普段目にしている光景とは違って、何だか――覗き見をしているような気分になる。
 手の汗を、ジーンズに擦りつけた。少し落ち着かない。
 僕は藤乃ちゃんを追う。こっちは陸なので、すぐに並んで歩ける。ほんの少し違う高さ、違う環境を、寄り添いながら歩いていく。
 ふわふわと藤乃ちゃんが上下する。僕はそれを笑いながら見ている。ちょっとした仕草が、優雅なのに可愛いらしい。
 そうして、静かな水面を乱しながら、藤乃ちゃんが光の輪の中に入った。スポットライトを浴びて、彼女は世界から浮かび上がる。黒い布は誘うように踊り、白い肌は照らされ、唇だけがただ仄赤い。
 その赤を注視する。
 小さく赤が曲がる。
 微笑んだのだと気付いた時には、顔は水の中に潜り込んでいた。
「あ――」
 円光の中、長い黒髪が大きくたなびく。藤乃ちゃんは目を閉じたまま、水底に一度背をつけた。安らいだ表情、次第に体が持ち上がる。裾から垣間見える太股に、昨日つけた鬱血が残っていた。心臓が跳ねる。
 ワンピースの肩紐が外れて、胸元が覗く。白いブラジャーが露出しているのに、それが当然であるみたいに、藤乃ちゃんは動揺を見せない。そして、首から下にも鬱血。ブラジャーの輪郭からはみ出るように、小さく印が散っている。
 水面に出る。何かを抱きとめるように、藤乃ちゃんは腕を大きく広げた。ゆるりと瞼が開いていく。
「……感じます、先輩。気持ち良いですよ」
 虚飾なく自らを晒す藤乃ちゃんはとても綺麗で、どこか現実から遊離した感すら覚える。彼女に手が届かないこの位置は、多分水の中よりも寒いのだろう。
 水面に寝そべって、藤乃ちゃんはじっとこちらを意識している。横目で僕を眺めながら、ゆるゆると泳いでいく。波紋が長く尾を引いた。
「先輩」
「……どうかした?」
「呼んでみた、だけです」
 安らいだ、穏やかな面持ち。それは僕の胸中に、ちっぽけな、けれども重い石を投げかける。すっと小さく、内心にも波紋。
 藤乃ちゃんは、真面目に事に取り組んでいる。だから恥ずかしがらない。けれど、僕はそれで彼女が遠くなりそうで、少し不安になってしまっている。
「ちゃんと解る?」
「はい」
 そして何より、藤乃ちゃんに触れたくて、仕方が無くなっている。
 藤乃ちゃんはまた水に潜った。水をゆっくり蹴りつけて、僕の所までの数メートルを泳いでくる。間も無く、細い指がプールサイドを掴むと、彼女は顔に張り付いた髪の毛を厭うこともなく、僕へと手を差し伸べた。
「一緒に、泳ぎませんか?」
 整った爪が僕を待っている。僕は頷き、眼鏡を外した。柔らかい手を頼りに、水に入り込む。
 ぼやけた世界の中、何故か藤乃ちゃんだけがはっきりしていた。

 

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