Mermaid Smiled

秋月 修二 様


◆2

 プールに入り込んだ瞬間、ジーンズの裾から、水が一気に僕の中に入り込んできた。湿った布の独特の感触が、皮膚にへばり付いてくる。肌が粟立った。
 準備運動も無い、服も脱いでいない。そんな中で水に入ると、体が驚いてろくに動けない。少し慌てて足場を探す。藤乃ちゃんが脇に手を回して、僕を支えてくれた。
「よく見えませんか?」
「藤乃ちゃんのことはよく見えるよ」
 嘘ではない。こんなに近くにいる。体温を感じられる。
 だから、解らないはずがない。
 藤乃ちゃんは言葉を探して、少し詰まった。僕はそんな彼女の様子をじっと見詰めていた。ようやく触れたモノから、五感を外したくなかった。
「……泳ぎ、ましょうか?」
 はにかんだ表情。僅かに期待を滲ませて。
「助けてくれると、嬉しいな」
「解りました」
 それを華やがせて、藤乃ちゃんが僕を抱く。僕も藤乃ちゃんを抱き締める。そのまま、一緒に水の中に倒れ込んだ。
 思いの他大きな音、次いで、藤乃ちゃんの輪郭が解らなくなる。それが惜しくて、なるべく顔を寄せたまま水中を漂った。泳ぐというよりは、浮いたり沈んだりの気紛れを繰り返している。
「んっ、はぁっ。僕には少し冷たかった……かな」
「もう、上がりますか?」
「まさか」
 濡れた服は重く、足を引っ張るものの、僕もそう疲弊している訳ではない。もう少し藤乃ちゃんに付き合うことくらい、問題無くやれる。むしろ、彼女をもっと間近で見ていたいのだ。
 なるべく負担にならないように、底を蹴っては息を吸う。二人の体が横になり、少しの間並んで浮かぶ。掴んだ背中はしなやかで、僕はその手触りに躊躇いを覚えた。あまり力を入れると、壊れてしまいそうだったから。
「と……」
「沈みますよ……」
 ゆっくりする暇も無く、衣服が僕らを水底へ連れて行く。固まってしまったように体を竦めて、けれど瞼を下ろすことはなく、見詰め合ったまま落ちていく。
 すぐに、肘が固いものに触れた。これ以上下は無い。また上に戻らなければならないが、抱き合った腕を離すのには惜しい。息を選ぶか、感触を選ぶか。馬鹿げた二択だ。
 もっと触れていたい。
 腕の中から逃がしたくない。
 あまりに華奢なこの体が、どこかへ行ってしまいそうな気がして。
 水のフィルター越しに、藤乃ちゃんの姿を注視する。部分部分がライトを浴びて、この胡乱な視界の中でも、彼女はきらきらと光っている。白も黒も、何もかもが揺らぐ光彩に包まれている。
 息苦しくなってくる。
 僕らは足をばたつかせて、宙へと顔を出した。酸素を求めたのは、二人同時だった。空気が顔に触れるや否や、藤乃ちゃんは僕を面白そうに眺める。
「眼鏡を外した顔って、あまり見せてくれませんね」
「そうかな。結構見てると思うんだけど。寝る時は外すし」
「濡れてるからかもしれません。いつもと、少し違って見えます」
 また一つ知りました、と残して、藤乃ちゃんは腕を僕の背から首へと回した。首に触れた冷たい手、それが僕の顔を彼女の顔に近づける。吐息がかかる距離は意味ありげだが、まだ届かない距離でもあった。
 気付けば、上からスポットライト。僕らの周りは丸くくり抜かれている。二人きりなのだな、と改めて認識した。
 濡れた黒髪は肌のラインに沿うように、緩やかにカーブしている。照り返しが僕の顔に当たっている。明るい輪の中心で、藤乃ちゃんは笑みを崩さずにいる。
 薄く水をまとった肢体に、青く青く静脈の筋が捉えられた。膨らんだ乳房の上のそれに、酷く魅せられている。唇は赤みを失って、血の気を薄めている。
 艶やかな肢体は、この明かりにより一層の白さを帯びている。そして水の冷たさが、彼女の温もりを奪って、赤みを消していく。
 モノクロームの色調。ともすれば色褪せているのに、藤乃ちゃんはなお彩られていく。それはどこか現実離れしているようで――ただ、美しかった。
「先輩」
「……ん?」
 抑えた声で我に返る。藤乃ちゃんが僕を抱き寄せるように、後ろに体重をかけた。
「もう一度」
「何度でも」
 確かめたい、挑みたいというのなら付き合うだけだ。
 藤乃ちゃんが軽いことは知っているが、それでも自然に任せたならば、人一人の重さは僕を充分引っ張り込める。僕は抵抗をせず、彼女にしなだれかかる。依存しているのはどちらなのか、疑問が石のように、胸の奥に転がった。頼られるのと甘えるのは、やっぱり違う。
 藤乃ちゃんは甘えるのも頼るのも苦手で、僕は甘えるのも頼るのも度を過ぎている。僕らはバランスが良いのか悪いのか、それも定かではなかった。そもそも、僕ではどうこう出来ないからこそ、彼女は一人で選択したはずだ。
 それを悪いとは言わない。ただ、僕はいまいち腑に落ちていなくて、何より――寂しく思っている。こんなに近くにいるのに、どこか遠くに行ってしまいそうで、不安になる。藤乃ちゃんは、真っ直ぐに僕を見詰めているから。
「行きますよ?」
 とぷん、と水が耳を塞ぐ。髪の毛が視界を遮る。黒が目を掠めて、鈍い痛みを覚えた。僕は構わず顔を寄せて、頭と頭を擦り付けるようにする。
 水は冷たい。触れ合った部分も冷たい。なのにどうしてか、芯にはまだ熱が残っている気がする。藤乃ちゃんを感じられている。
 線の細い肩、柔らかく滑らかな肌、綺麗な輪郭の頬。顔をすり寄せただけで、こんなにも意識出来る。
 藤乃ちゃんの唇から漏れた気泡が、耳の辺りをくすぐっていく。背筋を疼きが駆け上がった。自然と体が震えたのは、絶対に寒さの所為ではない。より深く意識したからだ。
 藤乃ちゃんは、女の子なのだ。
 可憐で、繊細な女の子なのだ、と。
 不意に、藤乃ちゃんの唇から泡が溢れる。僕のそこかしこを掠めて、泡は上へと消えていく。何か言いたがっているのだと、何となく解った。
 泡を追う。
「……ぷはっ」
「ん、はあ――先、輩……?」
 訝る気配に僕は僅か身を離し、焦点を合わせる。困ったような色が、藤乃ちゃんから覗いていた。問いかけたいのだが、それを憚るような気配。彼女の鋭さに舌を巻く。多分、僕が迂闊すぎるのもあるのだろう。
 僕がしっかりしていなければならない時に、どうして藤乃ちゃんに気遣わせなければならない。
 何を、やっているんだ。
「どうか、しましたか?」
「いや、何でも――」
「なくはない、ですよね」
 僅かに瞳を翳らせても、あくまで真摯に声は紡がれる。言っていることが当たっているだけに、僕は尚更言葉に詰まる。
 澄みきった、棘の無い韻はまだ闇に響いている。凛とした強い音色。それでいて、丸みを帯びている。藤乃ちゃんらしい。
 穏やかなものに包まれているような心地。
 だから、甘えてしまっても良いような気になる。けれど、それで本当に良いのだろうか。
「言って下さい。そういう顔は……苦手です」
 心配させている。不安にさせている。こんな大事な時に。
 頭が混乱し始める。甘えて困らせるのか、黙って困らせるのか。天秤はどちらに傾けたらいい。
 いっそ少しでも楽に?
 藤乃ちゃんの手が、ぎゅっと僕の袖を掴んだ。持ち上げられた腕から、雫が幾つも落ちていく。胸元に腕を抱くようにして、ただ彼女は待っている。
 ふくよかな乳房、掌の脇に静脈。内側から、ゆっくりと鼓動が伝わってくる。規則正しい丁寧なリズムは、きっと僕が言うのだと信じている。
 だからこそ乱れない。
 だからこそ、静かに寄り添うように、僕を導いてくれている。
 ここにいますよ、心配無いですよ、と。
「藤乃、ちゃん」
 どうして、とは訊かなかった。藤乃ちゃんにとっては、きっと当たり前のことだったろうから。
 返事の代わりに、空いた手で頬を出来るだけ優しく撫でた。強張っていた肌が小さく緩んだ。
「馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないけど」
 言い置いて、反応を窺う。首は横に振られた。無言の答えは明確。
 笑いません。
 心が溶けかける。濡れた髪の毛を指先で弄びながら、僕は続ける。
「何だかね、寂しくなったんだ」
「……寂しい、ですか?」
 解らないのは当然だろう。一緒にいるのに、寂しいとは普通思わない。これは僕の、一方的な身勝手だ。
 藤乃ちゃんは、黙ったまま言葉の行き先を求める。僕は頷いて、視線を絡める。
「何だか、藤乃ちゃんが先に行ってしまうような気がしたんだ。……見ていて、あんまり綺麗で、真っ直ぐだったから」
 多分、とても幼稚な理由だ。人が聞いたら鼻で笑い飛ばすだろう。けれど僕は、どうしようもなく不安になってしまった。自分に何が出来ているのか解らないのに、相手がしてくれることだけは、ありがたいくらいはっきりしている。大切さが募って、自分の立ち位置が見えなくなる。
 あんまりにも美しいと、綺麗だと思った。崇高だとさえも。一度遠く感じてしまうと、隔たりははっきりしてしまう。その距離が本当か嘘かも、実際に解ってはいないのに。
 恥ずかしかった。反面、言うだけ言ったので緊張もしている。混ぜこぜであべこべな感情は、僕をまだ落ち着かせてくれない。落ち着くためには答えが必要で。
 藤乃ちゃんの答えが、欲しかった。
「先輩」
 すっと視線が和らぐ。青褪めた唇が、花弁のように綻んでいく。
「わたしはどこにも行きませんよ。それに……わたしも同じように、たまに不安になりましたから」
「え……?」
 返って来たのは、予想していなかったものだった。
 藤乃ちゃん、も?
「先輩は、いつでも揺らがなくて、何があっても普通だって顔して……置いていかれるんじゃないか、ついていかないと、って思ったことがあります」
 言い終えると、藤乃ちゃんは解放されたような、気が楽になったような顔をする。それは、言えずにずっと内に溜めていた証だ。
 そんなのは杞憂に過ぎない。僕にそんな気はまるで無い。当たり前すぎて、口にしてはいなかった。今更そんなことに気がつく。
 むしろ、こっちが依存し過ぎていたんじゃないか、と悩んでいた。いつかは足を引っ張ってしまうんじゃないかとすら、考えていた。
 けれど、間違っていたのか。
 僕らは同じようにして、同じようなことに不安を抱いていた。相手にその気は無いのに、自分が足並みを乱しそうだと思い込んで。
 遠くなんかなかった。感じているよりも、ずっとずっと近かった。
 僕も藤乃ちゃんもやっぱりどこか弱くて、お互いがいなければやっていけない。信じていない訳じゃない、ただ、そうだ――
 お互いの温かさを知ってしまったから、冷たいことに臆病なんだ。
「あ……」
 声はどちらが漏らしたものだったろうか。或いは二人分の響きだったのかもしれない。ただ、単音が聞こえた。
 僕は藤乃ちゃんの手を握る。冷え切った手は、しっかりとこちらを捕まえる。
 これは感覚だ。本質ではない。
 これは一部だ。全体ではない。
 だから、この冷たさを恐れることはない。冷たいのならば、触れ合ってぬくめればいい。
 両手を握り合って、離れないようにする。お互い考えていることは一緒だったのだ、後は思いを溶かし込めばいい。ここからは素直に、二人を重ねていくだけ。
 秒読みをするように、瞳は細まっていく。ゆっくりと顔を近づけて、距離を狭めていく。瞼を閉じ切る瞬間に、肌と髪の毛のシンプルな彩りを焼き付けた。
 透明な水世界に、白と黒の藤乃ちゃんが、浮かんで。
「ん――」
「ふ、はぁっ」
 唇と唇がくっつく。潤いのある部分が、心地良い弾力を返してくる。呼吸が耳朶をくすぐって、僕らの距離を教えてくれる。遠回りをしたけれど、また足並みを揃えられた。
 目を開く。鼻先を僅か掠めて、顔を離す。真正面から、その表情を捉えた。
 花弁が、唇が綻んでいた。

 

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