あやあやあや

秋月 修二 様


 今日も変わらず夜は来る。勿論あたしの所にも。
 部屋に鍵をかけ、ベッドに身を投げ出した。体重で萎んでいく布団に合わせて、そっと溜息をつく。制服に皺が出来そうだけど、別に構わない。
 前はきちんと着替えて、音楽を聴いたり本を読んだりと気ままにやっていた。だっていうのに、最近夜はいつもこうだ。寝転んだまま、気が付けば朝になってしまっている。
 何もする気になれない。何も手につかない。
 勉強もあまりしていないし、部活にも身が入っていない。あたしだってらしくないとは思っているし、今日なんか後輩に『美綴先輩、具合でも悪いんですか?』って言われる始末。周りにも気付かれるくらい、近頃はぼんやりしている。
 物思いに耽る、と言えば聞こえは良い。でも、白状してしまえば、悩んでるんだ。
 一人きりになれる夜はあたしにとって、思う存分悩める時間。
 寝転がってじーっと天井を睨んだり、枕に顔を埋めて唸ったりしても、誰にも文句を言われない。誰にも迷惑をかけない。床を蹴っ飛ばしたら、弟にはうるさいと言われてしまったけれど。
 まあ、最近はいつもこんな感じ。だから今日も同じ感じ。もどかしくて、風邪を引いたみたいに浮かされた夜を、何度も繰り返している。
 何かが引っ掛かっている。いまいち掴みきれないものが。それが何だか解らなくて、気難しい時間が積もっていく。
 何が引っ掛かっているんだろう?
「んーむ」
 考えてもはっきりしなくて、それに苛々して、枕を上に放り投げる。ぽーんと天井近くを飛んだ枕は、弧を描いてお腹に落ちてきた。
「……けふっ」
 体の力を抜いていたので、結構苦しい。間抜けだなと思いながら、もう一度枕を投げる。またお腹に落ちてきたけれど、今度は平気だった。遊ぶのはこれくらいにして、もうちょっと真面目に考えないといけない。
 ――はっきりしないとは言うものの、実は、ある程度目星はついているのだ。あたしが苛々してるのは、その、こう、衛宮に……た時からだ、ってのは。
「はあ……あああ」
 また溜息。ついでに余計なことまで思い出して、顔が熱くなってくる。お腹の上の重みがあの時の感触を軽く引き戻したので、慌てて跳ね飛ばした。そういうことを考えたいんじゃない。
 ともあれ、原因は察しがついているのに、絡まった糸が全然ほどけてくれない。
 衛宮に抱かれたことは、別に嫌じゃなかった。あの後はしっかりお願いを聞いてくれたし、気まずい雰囲気になったりもしなかった。照れくさかったけど、お互い関係を壊したい訳じゃない。だから、学校で会ったら普通に挨拶をして、普通に会話をしてと、いつも通りを続けてきた。
 それは二人とも成功していると思う。
 あれこれと頭に浮かべては消し、黙り込んでは唸る。天井をじっと見つめていると、蛍光灯がいやに眩しく感じられた。癪に障ったので、そのまま布団の中に潜り込み、体を丸める。暗い方が、考え事はまとまりそうだった。そのまま寝たって問題無いし。
 とまれそれから、改めて悩む。色んなことを並べてみると、別に何もおかしくないんじゃないか、という気になってくる。でも、本当にそうだとしたら、こうして時間を潰したりもしてない訳で。
 正しそうに見えても、心から納得は出来ていない自分がいる。きっと何かを見落としている。そしてそれは、大事なことなんだろう。
「何だろうなあ……」
 解らないことが多すぎる。そもそも、どうしてこんなに一生懸命になっているんだろう。あたしは――衛宮が好きなのかな?
 同学年だし、元々同じ部活だったんだから、付き合いは割と長い。話していて気は合うし、お互い弱みみたいなものを知ってもいる。たとえば、アイツが他校の女子にナンパされて、まごついていたこととか、他にも色々。
 良くも悪くも、気安い間柄で。
 ……昔から、気にはなっていた。
 でも、どうなんだろう。そうだったら、遠坂と衛宮が付き合い始める前に、こっちで何かしていてもおかしくはない。そうだったら、知らない関係でもないんだし、あたしからアクションを起こしたりもしていたはずだ。もしもそうだったら――そうだったら?
 だとしても、現実はそうじゃなかった。
 そして今は、衛宮には遠坂がいる。あたしが衛宮のことを好きだとしても、嫌いだとしても、衛宮は遠坂と付き合っている。それは変わらない。だから、何をどうこう、ということにはならない。
 ならないよなあ、普通なら。
 頭の中が混線し始めている。でも、核心にはまだ届いていないにせよ、この発想は近い気がした。ただ、惜しい所まで来ているというだけで、やっぱりまだ何かが欠けてもいる。
 考えても考えても、もやもやが晴れてくれない。ストレスが段々と溜まっていくのを、どうにか我慢しながら解決策を探す。
 しかし、どうにも苛々してしまう。大体にして、こうやって悩んでいるのは、あたしらしくないはずだ。
「……ったく、ああもう!」
 溜めていた鬱憤がついに破裂する。布団を跳ね除けた。
 そもそも何であたしが、こんな思いをしなければいけないのか。苛々続きで生理も重かったし、それもこれも全部衛宮の所為だ。そうでもないと納得出来ない。
 おもむろに起き上がり、階下へと移る。
 すっきりしないのは、性に合わない。だったら。
 勢いに任せて、電話を取る。躊躇う前に番号を押し、相手が出るのを待つ。すっきりしないなら、すっきりさせないといけない。
 このままじゃ何も変わらない。だったら、衛宮と会ってみよう。
 幸い明日は休日で、時間だけは有り余っている。出たとこ勝負ではあるが、動かなきゃ勝負の結果だって出ないはずだ。
 そうと強く意識して、息を詰めて待った。手に汗をかきながら、乾く唇を湿らせながら。呼び出し音が途切れるのをじっと待つ。
 と、小さく硬い音がした。
「もしもし、衛宮ですが」
「あ、衛宮? あたし、美綴だけど」
 待っていたくせに、声を聞くだけで気持ちが怯んだ。でも、ここで退く訳にもいかない。弱気になんてなれない。
 まずは、どう切り出そう。
 言いたいことを頭の中でまとめながら、あたしは思い切って口を開いた。

 /

 約束を取り付けるのは、案外簡単だった。衛宮も特に予定は無かったらしく、あたしが行くと言ったらあっさり頷いてくれた。見切り発車ではあったけど、家に行くなりの理由はちゃんとあった。衛宮はそれに納得した。
 電話で告げた時間が近い。少し早いくらいなら、まあ問題は無いだろう。
 たまたま借りていたゴム弓を忘れていないかと、鞄の中を一応探す。持ち主にかなり使い込まれた跡のある古い練習用具は、鞄の底でしっかり眠っていた。ほっと息をつく。ここまで来て、家に理由を忘れてきました、なんて間抜けなことは出来ない。
 門の前に立つ。覚悟を決めるみたいに、大きく深呼吸を一つ。落ち着かない胸を押さえて、チャイムを押した。
 これで後には退けない。
 衛宮が出てくるのを待ちながら、手持ち無沙汰に路面を蹴る。どうも、何かを爪先で弄るのが癖になっているのかもしれない。部屋でも気付けばやっている。
 ……早く、出て来ないかなあ。
 待つのはあまり好きじゃないけど、今日はちょっと別。休みの日は誰だって、いつもと違う顔を見せてくれる。だから、今日の衛宮がどんな顔を見せてくれるのか、何となく楽しみになっている。
 考え事に追いつく形で、廊下を走る足音が響く。妙に軽いリズム。
「はーい?」
 聞こえた声に違和感を覚える。細くて高い声。明らかに女の声。疑問が具体的になる前に玄関が開く。
 そして出てきた顔を見て、あたしは固まってしまった。
「……あれ、綾子? どうしたの?」
 しまった、という様子であたしを迎えたのは、衛宮ではなくて遠坂だった。半分で驚いて半分で焦ったような、妙な顔をしている。こっちはこっちで、当然衛宮が出てくるものだと思っていたので、反応が取れなくなっていた。
「いや、その、え?」
 混乱する。
 休日の昼間だし、二人は付き合っているのだから、衛宮の家に遠坂がいたっておかしくはない。でも、流石に呆気に取られてしまう。いきなり遠坂と出くわすなんて、全然予想してなかった。
 一瞬呼吸を忘れる。
 お互いに顔を突き合せたまま、どうしたものかと考える。何か言わなければいけないのに、何を言ったものだかさっぱり浮かんでくれない。
「えーと、何で?」
「何でって、何が?」
 疑問を疑問で返されてしまう。お互い頭が働いていないらしく、話が空回りしている。
「その、まあほら、わたしはどうでも良いじゃない。そっちはどうしたのよ、おめかしなんてしちゃって。これからどこか行くの?」
 指摘されて、知らず唇に手が行った。特に気合を入れてめかし込んだとか、そういうことはないのだけれど、軽くメイクしていたのは事実だった。人の家に行くのだし、多少はまともな格好をしようというだけ。割と基本的なことしかしていないし、リップも色の薄いものを使っているのだが、女同士なら流石に解ってしまう。
 別に気付かれるってことそれ自体は、自然な話なんだろう。ただ、あたしがメイクしているということを、殊更に取り上げられたのが癪に障った。
「単なる気まぐれだよ。どうってことないだろ、これくらい」
 変に勘繰られるのが嫌なのも相俟って、声を荒げてしまう。言ってから、こんなことで目くじらを立てるなんて、どうかしてると思った。遠坂の方も驚いたようだ。
 調子が、狂ってる。
「……あー、悪い」
「ん、別にいいけど」
 あたしの謝罪に、遠坂は頬を緩める。その反応に、こっちも安心させられる。
 でも、その笑顔にはどこか引っ掛かるものもあった。目が泳いでいる辺り、遠坂は何か誤魔化そうとしているように思うのだけど。
 ついつい、顔をじっと見てしまう。
「わたし、何かついてる?」
「あれこれと」
 遠坂の顔はちょっと赤くなっている。それは割と珍しい反応で――それでようやく、隠そうとしていることが何なのか、解った気がした。
 ――泊まってたの、かな。
 理由としては尤もらしい。
 玄関で人の家の客を迎えたりとか、あたしと出くわして変に慌てたりとか、さっきまでの間抜けなやり取りとか。色々とそんな感じの気配はあった。恋人同士なんだから、相手の家に泊まっていたって、別におかしいことなんて何も無い。無いけれど、いきなり現場で友人とばったりじゃあ、バツが悪いのも確かで。
 そりゃそうだ、隠そうともする。
 解ってしまえば何てことも無い流れ。それですとんと腑に落ちた。が、納得すると同時、先日の衛宮とのことを思い出してしまう。余計なものが頭の中に入り込んで来た。
 だったら、昨日はしたのかな、とか。あたしと遠坂と、やり方は同じなのかな、とか。あれこれと勝手なイメージが膨らみ、そこに自分を混ぜそうになって、急に恥ずかしくなった。何だか、とにかく嫌らしい気がして、慌てて思考を打ち消す。
 だめだ。こんなこと考えてちゃいけない。
 広がりつつあるもやもやを打ち消して、どうにか口を開く。
「……ええと、衛宮にゴム弓返しに来たんだけど、アイツいる?」
 まあ、電話までしたのだから、いることは確かだろう。ただ、それを口にはしなかった。
「ん、ああ、いるわよ。でもアイツ、部活辞めたんじゃなかったっけ?」
「そうだよ。だからほら、昔使ってたヤツよ。衛宮は物持ちいいからさ」
「確かにそうねえ。いらない物も取っといてるみたいだし。……まあ、取り敢えず上がったら? アイツなら部屋にいるはずだから」
 話がつくまで、どうも遠回りをしてしまった。とにかく、靴を脱いで手招きに従う。
 まるで我が家みたいに、遠坂は気ままに振舞っている。恋人ってのはそういうもんかなと、先を行く背を追う。靴下越しでも廊下は冷たかった。
 遠坂の細い背中が、規則正しく上下している。しゃんとした、いつもの姿だ。さっきは妙な具合だったけれど、今は普段通りと言っていいだろう。その様子を見て、一つ気付く。
 ――言ってないんだ、衛宮。
 あのことを知ってしまったのなら、良くも悪くも、遠坂は黙っていないだろう。それが何も変わっていないということは、何も知らないということだ。
「……そっか」
「ん?」
「何でもないよ」
 後ろめたい反面、これでいいんだ、とも思う。ばれてないならいい、という意味じゃない。二人は幸せなのがいい。
 だから、少しだけ満足する。
 何となく黙って歩いていると、遠坂がいきなり振り返った。見透かされたみたいで、軽く立ち竦む。
「あれが士郎の部屋だから」
 そう言って手近な部屋を指差すが、当の本人の足は別の方を向いている。
「ん、アンタは?」
「わたしはもうちょっとしたら家に戻るから、準備しないといけないのよ。まあ、まだいるから何かあったら呼んで」
 何かあったら、ね。
 特にどういう意味も無いんだろうけど、どきっとする言い方。心臓に悪いやり取り。
「……了解。何かあったら呼ぶよ」
 どうにかそう返すと、遠坂は一つ頷いて奥へと行ってしまった。荷物はあっちにあるらしい。
 一軒家にしては長い廊下で、一人きりになる。
 指された部屋、この中に衛宮がいる。そう意識すると、ちょっとだけ躊躇いが生まれた。でも、ぼんやりしていても仕方ない。
 家の前にいた時よりも、ずっと緊張している。だからといって、このままでもいられない。そんなのは、あたしのスタイルじゃないんだよね。
 手を硬く握り締めて、ノックを二回。中でばたつくような音がして、衛宮が廊下へと首を出した。
「っ――!」
「っと、え?」
 呆けたような声が、かろうじて聞き取れた。慌てていたのか、衛宮が急に出てきた所為で、お互いの距離はほとんどゼロ。
 ぶつかってしまいそうな近さが、いつかを思わせる。視界の中に、目を丸くした衛宮がいる。そうなっているのはあたしも多分同じで、ますます記憶が暴れだす。だから二人とも、相手の顔を見るなり固まってしまう。
「う、あ」
 自分の声が、馬鹿みたいに耳の中で響く。何だかやけに恥ずかしくて、体ごと後ろに退いた。それでようやく距離が出来る。
 心臓がどくん、と鳴った。
 学校では今の今まで、いつも通りに接してきた。ぎこちなくなりたくなくて、関係を壊したくなくて、あたしなりに懸命にやってきた。折角そうしてきたっていうのに、一気にあの時まで引き戻されたみたい。
 ――初心な反応にも程があるってのに。
 顔が赤いと自分でもよく解る。一旦落ち着こうと、言葉を探している。
「あ、悪い、美綴っ。来るって言ってたっけな」
「い、いや、別にいいんだけどさっ。こっちも早く来ちゃったし」
 お互いまだうろたえているものの、どうにか態度がほぐれてきた。普通の距離に戻って、改めて会話を始める。話し出してしまえば、いつも通りに戻れるものだ。
 だから、今のは偶然。たまたまだ。
 胸を押さえて、そう自分に言い聞かせた。
「……で、そんなに慌てて何してたの?」
 会話を切らせないよう、入り口を塞いでいる衛宮の脇から、部屋の中を覗き込む。ほとんど物の無い、簡素な和室だ。強いて目立つ物があるとすれば、敷きっぱなしになっている布団くらいか。
 しかし、昼時にまだ布団?
「朝忙しくてさ。布団仕舞ってないんだよ」
 視線に気付いたのか、僅かに気まずそうな声が返って来る。どうやら部屋を片付けている真っ最中に、お邪魔してしまったようだ。これはまあ、時間通りに来なかったあたしが悪いだろう。
「ふうん。あたしは別に構わないよ?」
 別に布団があっても無くても、話をする分には邪魔にならない。衛宮が気にするのなら、それはそれで待っていても良い。どっちにしろ、そこまで拘るものではないだろう。
 衛宮は少し迷ってる様子だったが、一つ頷いて、
「んー……じゃあいいか。取り敢えず、適当にくつろいでてくれないか? 俺は飲み物でも持って来るからさ」
 と言うなり、さっさとどこかへ行ってしまった。そこまで気を使ってもらわなくても良かったのだが、それを言う暇も無かった。
 どうにも今日は置いて行かれる日だ。釈然としないものを感じつつも、部屋の中に入る。昼間だというのに、日当たりが悪い所為でここは薄暗かった。

 

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