Half a Blue, Half a Shadow

Catalina


「それで、どうかしら? 幹也くん」
「うわぁっ!?」
 幹也は跳び上がり、手にしていた紙束を撒き散らす。
「と、と、と、とう、とう……」
「なに? モールス信号で話す会にでも入ったの?」
 とんでもないタイミングでいきなり声を掛けられて動転し、橙子さん、とさえ言葉がでなかった。
「い、いつからっ」
 伽藍の堂の主である蒼崎橙子は、幹也の前の机に腰掛けて体をひねり、幹也を見下ろしている。平日の昼間なのだから、仕事場に居るのは当然……とは言えない。とりわけ今は、居ないはずだったのだ。
「幹也くんが私の席を不当占拠して間もなく、ね」
 言われて、幹也は何処に座っていたのか思い出す。つまりは、橙子の椅子である。慌てて詫びて立ち上がろうとして、固まる。ズボンの前が開いていたからだ。
「落ち着いて。席を汚してはいないみたいだから、していたことは忘れてあげる」
 慌てて閉じようにも、下着を引き下ろしたまま。
「お蔭で良い参考になったし。やっぱ、男性の意見というものも聞いておかなきゃと思ったんだけど、アツアツの恋人の居る男の子をしてその様子なら、まず合格よね?」
 そして、下着を上げるには、まだ邪魔なものがあったのだ。
 眼鏡越しに、人当りが柔かくなって美貌が際立つ橙子に見つめられ、羞恥でやっと幹也は収まりが付くようになる。
 が、その過程で手が汚れることは避けられなかった。

 とても情けなそうな顔をして、でも、決して泣かなかった。
 ……悲しければ泣けばいいのに。幹也は、そのまま涙することはなかった。
“うん、泣きたくても、泣けないんだ”

 そんな、覚えていないはずの言葉を、頭に浮かべていた。
「幹也くんも、時たま凄く大胆になるわねえ。でも、流石に昼間のオフィスでそれはどうかと思うんだけどな」
「あぅ……」
「ズボンの上から撫で始めたあたりまでは、小説を十分OKな内容に出来た証拠ってぐらいに思ってたんだけど」
「あぅ、あぅ……」
 変わり身の術か何か使えたら良いのになどと逃避的思考を抱きながら、幹也は自分のしていたことを恥じた。
「……ページ繰るにつれてファスナー下ろしちゃうし、手を突っ込んじゃうし、うわ、やっちゃうのー、って」
「ぁぅ、ぁぅ……」
 もう、モールス信号の発信もできない。
「で、最後は、ねえ? 幹也くん」
 呼びかけられて傷ついた眼の上げた幹也に、告げられた。
「――――どう見ても精子です」
 …………本当にありがとうございました。
 こんな駄目人間を今まで雇って頂きまして。
 幹也が思わず辞世を述べかけていると、橙子が笑いかける。
「その前に、形見代わりに教えてくれない? 大体は確認してたつもりなんだけど、どのへんが良かったか。ああ、一つは筆のトコよね?」
「……勘弁してください……」
 それが最期の言葉だった幹也に、流石に答えは期待していなかったのか、橙子も問い詰めることは無かった。でも、それは単に、次のポイントに移るため。
「でも、式とはどうなの? まさか上手く行っていないとは思わないけど、さっきの様子だと、ひょっとして御無沙汰?」
「いえ、そのっ……」
 鞭打たれて、死人が口を利いた。
「うーん、愛と性欲は相関はしても別物よね。原因は何? 嗜好の不一致? ひょっとして幹也くん、実は今読んでたようなことに興味があったり?」
「橙子さんっ!」
 一言だけ叫び、それからは、しどろもどろ。それでも、口のある死人は式が一週間ほど街を離れていることを伝えた。今日戻ってくる、とも。
「ああ、言われれば、そう聞いていたわ。じゃ、あのワイルドな振る舞いも仕方ないか、若いもんね?」
 悶絶しながら、幹也は空蝉の術を修得しないで来たことを悔いていた。
「でも、式が帰ってくるとなると、あのせいで今夜が厳しいわよ、きっと。頑張ってね?」
 ……ひょっとして、秋隆さんあたりに稽古を付けて貰えないかな。あの人なら、陰形法とかぐらい使えそうな気がするし。
「今からそんな魂が抜けたみたいな顔してると心配になるわね。元気になる薬でもあげましょうか?」
 いえ、結構です、と自分が応えているのを幹也は天井付近から見下ろしていた。
「ほら、じゃあ、とりあえず手を洗っておいで。ゴミも片付けてね?」
 真っ赤になりながらチリ紙の塊を両手に持ち、部屋から幹也は逃げ出す。
 その背中に、橙子の声がまだ追い討ちを掛ける。
「そうだ、男物の肌着とか、無くはないから要るなら言ってね?」

 元々、突然『外出する。今日は適当に上がってくれ』と取り付く島も無く事務室を出て行ってしまった橙子が、机にプリントアウトの束を残して行ったのだ。仕事してください、と溜息を吐きつつ見れば、蒼崎青子なる女性が主役の小説らしきもの。
 面識こそないが、自分の雇い主に青子という名の妹があることは幹也も知っていた。読み始めたら、とんでもない内容の官能小説で、知らず知らず一番近くの椅子に腰を下ろして読み耽ってしまっていた。それから間もなくであるなら、端から幹也に読ませて様子を探るためだったのだ、橙子が部屋を出たのは。
 そこまでのことを理解し、幹也は逃げ帰って引き篭もりにでもなりたくなる。いや、早退ぐらいは許して欲しいと思う、その許可は取り消されてはいないのだし。
 それぐらいバツは悪かったものの、実際に早退したりしたら引き篭もりも実現してしまいそうで、結局他に選択の余地も無く、観念して仕事部屋に戻った。

 橙子は眼鏡を外していて、常と変わらぬ調子だった。プリントアウトを拾って揃えつつまだ真っ赤になっている幹也には、それがあり難いのか、筵の針を増やしているのか、図りかねた。
「……なんなんですか、これ」
 やっとそれだけ、返せた。
「おや、説明していなかったか? 今度の仕事の特典に付けるイメージ小説だが」
「はい?」
 特典? イメージ小説?
 困惑する幹也に、橙子は小さな人形を示す。
「……青子さん?」
 立たせれば身長三十センチ足らずだろう、四足で這う姿の女性像。身に着けているのはブーツばかりで、豊かに官能的な裸体を晒している。目隠しと紐付きの首輪をされ、胸にベルトが食い込んでいて、お尻には銀色のものが垂れ下がっている。口に布きれを咥え、省略無くピアスも光っている。
 つまりは、プリントアウトの冒頭の描写に一致する姿だ。
 稀代の人形師の腕は遺憾なく発揮され、その被虐美と官能に彩られた艶姿は、幹也に瞬きも忘れさせた。読んでいたばかりのハードエロスを追想し、魅せられる。
 我に返ったのは、自分が涎を飲み込む音に驚いたから。
「ほら、どうだ? このパーティションの見えない全身可動裸体モデルは。このサイズで実現できるのは私ぐらいのものだよ、黒桐。目隠しと胸のベルトとビーズは着脱可能だが、残念ながらブーツを脱げるようにするのはコストが許さなくてな、素足と差し替えになっている。縄を掛けたい向きは多いだろうから、ネットに編んだワンタッチのものを一つ付属しているよ。ほら、こうして柔かい肉にちゃんと食い込むだろう? 小説内のシーンはは粗方再現出来るというものだな。ピアスのオマケも付けようかと考えたが、それぐらいはバイスや金属線があれば自作は容易だろう。髪の自由度があまり無いが、この長さで植毛だと始末に負えんだろうから柔かい素材……」
 滔々とした語りを半ば聞き流しながら、たまらず手を伸ばして人形を弄び、師の業を確かめる。大学生活まで投げ打つ契機であった人形師の造型が、紛れも無くそこには在った。
 そして、途轍もなく扇情的な姿態に、恥ずかしく思いつつ幹也は紅潮と垂涎を禁じえない。橙子が説明しながら掛けた縄は確かに体に食い入っていて、痛々しくも凄絶に美しい。さっきの今だと言うのに尚、男の欲情を直撃して駆り立てる。
 いつもなら、ヌードとかはともかく、この手のポルノには嫌悪を抱く方なのに。
 どうにもまだ、自分でショックだった。
 しかし、それ以上に心乱すのは、艶やかな餅肌の生々しい手触りと、つい突付いてしまった胸やお尻の柔かさ。どうしたものか、ちょうど人肌に温かい。
 あまりに妖しい気分になるから、名残惜しく思いつつ、手放す。
「いや、で、どうするんですかこれ? 仕事って、これ売るんですか? 青子さんって、橙子さんの妹さんですよね?」
 心臓の早鐘がまだ納まらないのを誤魔化すように、早口で言い立てる。
「売るんだよ、百体ほど用意した。本物はあんなに可愛らしいタマじゃないが、あれぐらいが男の欲望には合致するだろう?」
「あぅ……」
 認めたくは無いが、否定は到底できないから、幹也には黙するしかない。
 橙子と青子とは仲が悪くて、しばしば嫌がらせ合戦を演じていることを幹也は知っていた。それが随分と低レベルのものなのも知っていたから、読み始めて初めはただ呆れていた。実の妹をネタにしてここまでやるか、とも。
 ただ、そのせいで、随分と酷い目に遭っている青子さんに対してあまり良心が咎めなかったのかも知れない。いや、それ以前に、夢中で読んでしまったのだけれど。
「安心しろ、あの手の行き過ぎた行為もファンタジーとして楽しむだけなら、健康な男としてもおかしくは無い。秘めたる願望とかそう言うものではなくてな。むしろ、ちゃんとファンタジーで解消したわけだろう?」
 ……にしても、だからって。
「しかし、姿は生き写しだよ。そうでないと無意味だからな」
 思い出すのは、ここ最近、時々橙子が妖しい笑いを漏らしながらキーボードを叩いていたこと。馬鹿にされるぐらい霊感の無い幹也にさえ、ドス黒いオーラが見える気がして近寄れなかったのだ。
 つまり、これを書いていたわけか。
 そう思い至って、幹也は呆れた。しかし、それを読んで自分がしたことは更に呆れるようなことだから、言えた義理じゃない。そのことから目を反らそうと、本当に売れて利益になるなら、例の如く給料の遅れがちな昨今あり難いことだとか考える。青子さんの肖像権や名誉毀損やその他、人権問題ではあろうけれど、知らない人の人権を食って暮らすわけにも行かない。
 背に腹は代えられず、すっかり共犯者にされたことに気付く。
「……しかし、どうやって売るんです? こんなの」
「そんなもの、今度のWander Festivalに決っているだろう? 黒桐、まさか、人形師になりたいなどと言っておいてワンフェスも知らないわけじゃあるまいな?」
「……いや、もちろんっ」
 良く知らなかったのだが、そう言える空気ではなかった。
「当然だな。それで、今回はもう一品あるわけだが」
 そしてまた示された人形は、晴れ着姿で刀を構える黒髪の少女。
「こ、これっ、式じゃないですかっ」
「ああ、和風戦闘美少女といったところだな、黒桐としては出来には合格点をくれるか?」
 問われて、じっと観察する。見れば見るほど生き写し、サイズのことを意識から逸らせば、本人とも見紛うばかり。首筋の小さく薄赤い跡が幹也の付けたキスマークと分かって照れる。この前、二人してからかいの種にされたのだ。
 青子人形の露骨を極めたエロスと対照に、着衣の乱れもなく白刃を振りかざす敢然たる立ち姿、されど、そこには匂うように色香があった。
 しばらく会っていない恋人の姿に見惚れる。一生、はなさない。そう愛を誓った生涯の伴侶。
 そしてまた、恥じた。
 ……そりゃまあ確かに、式とは一週間会っていないけれど。
 自慰が特別に悪いことだとは幹也も思ってはいない。思ってはいないが……TPOが拙すぎた。

 幹也。自分を ―――― 一生、許せない。

 似合わない自己否定に陥りかけながら、着物に触れて、着せてあるのではないことを初めて理解する。
「安心しろ、裸に出来る仕様にはなっていない。いや、むしろ、残念ながらと言うべきか?」
「残念なんて……いや、それより、これも売るんですか?」
 自分の恋人の人形を売られて良い気のするはずは無い。
「あたりまえだろう? 作成費がかかっているんだぞ、これにも」
「式、怒りますよ。許可したんですか?」
 自分の立場で責めるより、やり易かった。
「ああ、そこで相談なんだが、黒桐」
 真面目ぶった橙子が言わんとすることを解して、幹也は先手を打つ。
「無理ですよ、式を説得するなんて。いや、出来たって、僕はやりませんっ」
「落ち着け。それに、タダとは言わん。ちゃんとお前のぶんは用意しておく」
「……要りませんよ、そんなの」
 本物が居るんだから、と、それは口には出さない。
 一瞬の間があったことをしっかりと捉えつつ、魔女は更に誘惑する。
「ふふ、これでもか?」
 また、別の人形。
 黒い法衣のようなのは、礼園女学院の制服。ならば鮮花かと見れば、そうではなくて、先のと同じ顔がある。
 え? と良く見ようとすると、橙子が取り上げてしまう。
「ふふふ、見ての通り、両儀式・礼園制服カスタムだな」
 見たがる幹也を愚弄するように、橙子はひょいひょいと手を動かす。
「こいつは非売品、むしろ一点ものでな、複製は作っていない。黒桐、式のこの姿は目にしていないんだろう?」
 確かに、どうしても礼園制服姿は見せて貰えないでいる。
「どうだ、式を説き伏せてくれたら、こいつを特別プレゼントだ」
「いや、でも……」
 逡巡を見せてしまった時点で勝敗は決していた。
「大サービスだぞ? 黒桐の仕事振りについて式に話すと言うだけでも十分なところなのだからな」
「そ、そ、それはっ……」
 何を言われているのか分かって、また幹也はモールス信号サークルのメンバーになる。

 幹也、呻吟の末――――

 Wander Festivalの当日に、自分が礼園制服姿で会場に立つ羽目になる選択をしたと言う。
 その経緯は、黙して語られず仕舞いである。

 尚、青子フィギュアの頒布は中止された。伽藍の堂ブースにて焼滅したためとされ、唯一の目撃証言は『青かった』の一言であるが、その意味するところは詳らかでない。

 

/Half a Blue, Half a Shadow ・ 了

 


 

謝 り ま せ ん w

 いや、あそこまでやっといてこのオチかよ、って向きはあるかと思いますが、このオチだからあそこまでやれたのです。
 しかし、お礼は申し上げます。ここまでお読み頂きまして、 本当にありがとうございました。
 そして、この場所を与えて頂いたことにも感謝を。

 余談ですが、このSS、テキストで108kbあります。そう、まるで煩悩のように。

Catalina


 

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©Catalina