Mermaid Smiled

秋月 修二 様


◆5

 情事の後、藤乃ちゃんは時間の許す限り体を確かめたいのだけれど、と尋ねてきた。僕もそれに異存は無いので、彼女の意思に任せることにした。ただ、僕は少々疲労が勝っていたので、一緒に泳ぐことは辞退した。
 少し離れた水の中、泳いでいる藤乃ちゃんが見える。暗闇の中でなお白く、明かりの下でもなお黒い。白と黒に包まれた彼女が、ゆらゆらと水の中で踊っている。
「先輩?」
「大丈夫、見てるよ」
 勢い良く水面に顔を出し、こちらに向かって笑いかける。僕はそれに手を振って応える。僕の反応を見ると、嬉しそうにまた水に潜って泳ぎ出した。
 その姿をじっと見詰める。
 藤乃ちゃんはもう、感じられる体になっている。五感は確かに取り戻されている。先程の行為で、それは充分に認められた。
 しかし。
 藤乃ちゃんにとって感覚は、過去と、罪と向き合うことでもある。殺せる力と、共に歩むことでもある。
 今になって感覚を戻してもらったのは、多分向かい合う覚悟が出来た、というところか。藤乃ちゃんは、独力で困難に立ち向かおうとしているのだろう。ただ僕にとって問題なのは、その発想が、ギリギリで甘えられない性格から来ているのでは、ということだった。
 改めて確認する、先程までの不安。
 つまり僕が引っ掛かっていたのは、言うまでもなく、現状に介入出来ない僕自身の立場だったのだ。別に、藤乃ちゃんを責めたい訳ではない。ただ、僕には何も出来ないのかと思うと、あまりにも歯痒かった。
 僕だって男だ、好きな人の為に何か出来れば、と思うに決まっている。独りきりだなんて、そんなのは寒すぎるから。
「……だから」
 かすかに紡ぐ。
 だが今は、さっきのように不安を感じてはいない。これから帰って、橙子さんに合否を訊かれても、僕は迷わず合格だと言うだろう。
 理由は簡単だ。藤乃ちゃんが大丈夫だと言った。実際そうだろうと、僕も思っている。藤乃ちゃんは逃げないし、傷付けない。それは確信出来ることだ。
 ――藤乃ちゃんの手は、とても冷たかった。手が冷たい人は、心が温かいという。
 だったら、絶対に大丈夫だ。
 今になって考えれば、橙子さんが判断を僕に委ねた理由は、これだったのだろう。橙子さんからしてみれば、僕以上に確かめるのに適任はいない。任せてくれたのは、実際ありがたかった。
 息を抜いて、プールサイドに背を預けた。時間の流れがはっきりしないが、まだしばらくは利用出来るはずだ。
「一緒に、いないと……」
 かすかに呟く。
 周囲には藤乃ちゃんが泳ぐ音と、僕の呼吸だけが響いている。
 深呼吸をする。やるべきことは決まっている。不安がる必要は無い。これは、僕の身勝手な行動だけれど、僕にしか出来ないことでもある。
 たとえ藤乃ちゃんが僕の決意に躊躇ったとしても、僕は彼女の側にいよう。見届け、時には手を取ろう。
 簡単なことだ。やるべきことはそれだけでいい。
 ――だって彼女は強いから。
 ちゃんと罪と向き合って、これからを生きていけるだろう。
 ――だけど彼女は弱いから。
 罪と向き合った時、優しすぎてきっと心を傷付けてしまう。
 そんな時に支えるのは僕の役目だ。
「それが、僕の願いだ」
 小さな言葉。
 麗姿を眺めながら口にした言葉は、ささやかな誓いだ。
 藤乃ちゃんは感覚を取り戻し、力を手に入れた。それは彼女にとって、望ましくないもののはずだ。でもそうしなければ、過去とは向かい合えない。今を先へと歩いていかなければ、後ろは振り向いても道が無い。
「……ああ」
 藤乃ちゃんは、楽しそうに泳いでいる。

 黒いワンピースの裾が、水中で翻る。
 白い腕が水をかき、すらりとした身が躍る。
 長い黒髪が、白い肌に張り付いている。
 水飛沫。そして微笑。
 人魚だ。
 四角い海で、モノクロの人魚が泳いでいる。

 過去のという名の海を抜けて、現在という陸に出た人魚姫。引き換えにしたものが、失ったものが何なのか、僕にはまるで解らない。
 でも、藤乃ちゃんはきっと、これから嫌なものをたくさん手に入れるのだろう。
 ……どうして、藤乃ちゃんはあんなにもあえかなのだろうと、ふと疑問になった。
「気持ち良いかなあ」
 藤乃ちゃんに呼びかける。
「気持ち良いですよ」
 藤乃ちゃんに呼びかけられる。
 どうしても、失いたくはなかった。
 僕はプールサイドを蹴って、泳ぐ藤乃ちゃんのあとを追った。彼女は、僕が追いつくまで待ってくれている。
 不恰好でも、僕は懸命に水を掻き分けて進む。もう少しで藤乃ちゃんに手が届く。
 3メートル、2メートル、1メートル。
 ――ああ、ようやく抱き締められた。

 僕は彼女を、泡にはしない。

 

/Mermaid Smiled ・ 了

 


 

 

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©秋月 修二