私は、桜の樹が好きです。
 小さい頃、春には満開の桜の下でよくお花見をしました。
 大人の方達は、花を見るよりもお酒が大事なようでしたけど、私は飽きもせずいつまでも見上げていたものです。
 そして、その頃お稽古していた琴などを弾いて、拙いものだったでしょうに、お褒めの言葉を頂きました。
 私は請われなくても熱心に弾いたものでしたが、それは本当はお父様などが喜んでくださるからではなく。
 桜の樹が私の頼りない演奏を聴いて微笑んでくれている気がしたからでした。

 ――――ですから。
 一番好きだった桜の古木が枯れてしまいそうだと聞いたときは、驚いて、哀しくて、どうしたものかと思いました。
 あの樹に元気になってもらうためなら、なんでもしてやろうと思ったんです。

 

/夢見草――式――


(0)

 ――――永遠に、咲き誇っていたくはない?
 そんな、夢想じみた誘いに西坂芳美がイエスと答えたのは、別に意味のない事だった。
 遊びで付き合っていた男に結婚を迫られて、あっけなく捨てたことなど本人は気にとめてもいなかった。今までも何度もやってきたことだし、西坂にとってその男は本当に何の未練も無い遊び相手だったのだ。
 ただひとつ、最近違ってきたのは、男たちが結婚を求める頻度が高くなり、またそこに至るまでの期間が短くなって来たことだ。
 ――ほとんどの男が、自分と付き合えるだけで満足していたというのに。
 いつの間にか、結婚を口にすれば喜ぶと思われるようになってしまったのだろうか。
 帰り道、声を掛けられて、西坂は質問に『はい』と答えた。
「叶えてあげるわ」
「――え?」
 頭の中で自問自答しているつもりだったから、返事はっきり耳で聞こえたことに戸惑う。
 ――それも、わずかな間だった。

/1

 三月になっても寒く、しつこく居座っていた冬も、ようやく思い腰を上げたようだった。
 それでもまだ、おかしなやつの出るには早い時期だが、警視庁捜査一課の秋巳刑事はまた奇妙な話に行き当たっていた。捜査そのものは終わっているから、ミステリー好きが知られていなければ彼がこんな話を聞くこともなかっただろう。
 自殺など、珍しくも無い。動機は男女関係のもつれ、手首を切って死んだと言うのも取り立てて変わった話ではない。
 ただ、リストカットによる自殺の場所が公園というのはあまり聞かないことであり、同じ場所で一月以内に二人目だとなると、少しは興味の惹かれるものとなった。
「初めの自殺者に呼ばれたんだなんて噂が出てるがね、よくある話だ。実際、自殺の名所だとか言う知識自体が自殺を誘発するってことはあるわけだからな――ああ、だから、別にもうあんたの出番は無いよ」
 同僚から無責任な与太話のように聞かされた秋巳刑事も、そう長くは意識に留めていなかった。
 幾らミステリー好きだろうと、それにかまけて自分の仕事を投げ出すほどには無責任ではなかったのだ。  

/2

 私の生家である両儀家の屋敷を退去するとき、秋隆だけが門まで見送りに来た。
 初め何度かは家族ほぼ全員ここまで来たものだったが、流石にもう慣れたんだろう。
「お嬢様。やはり、お泊りになって行かれないのですね」
 門の外に出たところで、秋隆が言う。
「うん。悪いけど、今夜は先約があって」
 最近は、割合頻繁にここを訪れている。私が来るだけで、不思議なほど家族は喜んでくれる。喜んで、やりたがることの中に真剣での手合わせなんてものが含まれるあたりは普通の家ではない。それでも、嬉しそうな父の顔を見るのはそう悪いものではなかった。
 家族は団欒するものだ、と昏睡から目覚めて間もない頃に幹也から言われたときは、まったく理解しなかったけど、今はそうでもない。戻ってくることを望んでいる人が居るなら、その人のために戻ってくるのも良いと思える。
 ――――それに。
 何度目かには、気付いた。家族の幸せそうな顔を見ることを、私自身、快く思っていることに。
 以前なら、そんなことは考えもしなかった。やっぱり、私が変わったのは幹也のせいだ。そう思った途端、やっておくべきだったことを見つけた。
「秋隆」
「はい、お嬢様」
「これ、仕舞っておいてくれ。これも、両義家の家宝のうちだろ?」
 そう言って、私は懐の匕首を父の秘書に渡した。年代ものだが、両義家で従えていた刀鍛冶の作だというから、世間での骨董的価値には乏しい。
「はい。しかし、宜しいのですか? 既にお嬢様に譲られたものの筈ですが」
「良い。必要な時は遠慮なく取りに来る」
「承知いたしました。お気を付けて」
「ああ」

 約束の時間通りに式は改札を出てきた。単衣に革ジャンという格好のシルエットは、遠くからでもすぐに見分けられる。
 十日ほど毎日深夜まで仕事で忙しかったから、ようやく体のあいた夕方、式に電話した。そうしたら、部屋には居なくて、結局両義家に居ることが判った。せっかく家族と過ごしているのなら、と遠慮したのだけど、式は今夜にでも会いたいと言ってくれた。そして久しぶりに、夜の散歩をすることになった。
 駅を出て、並んで歩き始める。
「何処を歩くか、アイデアはある?」
「無い。私はいつも行き当たりばったり歩いていただけだし。おまえが誘ったんだ、幹也が決めろ」
 お前の脚の具合のことは判らないし、と式は付け足す。
「そうか。じゃあ、ちょっと桜を見に行こう。まだ早いと思うけど」
 少し昔の新興住宅街。今では古ぼけて、良く言えば落ち着いた街並みになっている。所々に公園と呼ぶには小さな緑地が設けられていて、そこにも桜はあるのだけど、目指したのはそれではない。
 あまりに立派だからと造成に際しても切られずに済んだ桜の古木が住宅街の外れにある。近所に空家が多く、桜の生えた小さな空き地にも人は寄り付かないらしい。この樹が残された本当の理由は、切ろうとしたら事故が相次いだことだって話を聞いたことがあるから、無気味に思われているんだろう。上司が魔術師だったり、そこに弟子入りしている妹がいたり、常識外のものには事欠かない生活をしているわりに、僕はそんな噂を気に留めていなかった。幽霊でも出たところで、僕は見えない。式には見えるのかもしれないが――
 ――って、式?
 目的の空き地と桜が建物の影から見えたところだ。式がそちらを険しい目付きで見ている。
「式、どうかした?」
「いや。行こう」
 答えてくれないから、仕方なくまた並んで歩く。
 やっぱりまだ花見には少し早いらしく、二分か三分咲きってところだった。
「まだ花見には早いな」
 式が、僕の考えていたのと同じことを呟いた。ごく当たり前の感想だから一致するのも不思議ではないが、気持ちが通い合った気分にはなる。
 早いとは口々に言いつつ、僕らは並んで古いベンチに腰掛けた。黙って樹を見上げると、以前より少し狭くなってしまっている視界が少しだけ花を咲かせた枝ぶりで一杯になる。
 不意に、式が少しはなれた位置に座りなおした。戸惑っているうちに手を伸ばして来て首にかけ、ゆっくり引かれた。
「式?」
 そのまま引き倒されて、僕はベンチに寝そべる格好になる。式は丁度僕を膝枕する位置にいた。
「疲れてるんだろ?」
「うん」
 ベンチは冷たいけど、式の膝枕が不快な訳もないから、そのまま甘える。でも、何故か僕の目を覆うように手を置いてくる。
「眠る気はないから、手はどけてくれないかな」
 そう言うと、式の手は躊躇うようにゆっくりと離れた。式の顔を見たら、少し照れたように笑っている。
「ふふふ」
「なんだよ、幹也」
「いや……」
 細い手に穏やかに顔を撫でられながら、長いこと桜の老木を眺めていた。
 ……いや、本当は、半分ぐらいは式の顔を眺めていたんだけど。
 また不意に式が動いたのは、そろそろ家に向かおうかと思っていた頃。
「幹也、立て」
「え?」
「速く」
 鋭く有無を言わせない声に、黙って従った。
 式は周囲を素早く見回し、続ける。
「そっちから公園を出ろ。私もすぐ行く」
 判らないながら、今度も従う。空き地を出たあたりで式が並び、手を掴んで駆け出す。
「どうしたの?」
 膝の負担になるから、意味もなく走りたくはないんだ。よく判っているだろう式が無意味に走らせたりしないとは思っているけれど。
 黙って、時々振り返って僕の後を見ながら、式は数ブロック僕を引き摺るように走った。そこでようやく歩調を緩め、もう一度振り返って後の様子を凝視してから、止まった。その間に僕も後を見てみたけど、何も見えない。
 まったく呼吸の乱れていない式の隣で荒い息を吐きつつ、説明を求めた。
「初めから、樹の根元に若い女が居るのは見えてたんだ」
「女の人?」
 僕には全く見た覚えが無い。もっとも、僕の目がごく普通の機能しか持っていないのに対して、式の目は『本来あり得ないもの』を見る。式にだけ見えても不思議はない。
「ああ。最初に幹也が私に怪訝そうに声をかけた時から見えていた。じっと立っているだけだったから、害もないだろうと思って言わなかったんだ。それが、最後になっていきなりこっちに歩いて来た」
「だから、離れようとした?」
「そう」
「へえ。いきなり切り殺そうとはしなかったんだね」
「仕方ない、今はナイフを持ってないんだ」
「へえ?」
 場合によっては二本三本と持ち歩いている式が、一本も持っていないなんて考えられなかった。
「家に返して来たからな。それで幹也、脚は大丈夫か?」
 別にどうってことは無く、僕と式は家に向かった。

/3

 伽藍の堂には午後に顔を出せば良いと言われていたから、たっぷり夜更かしと久々の朝寝を楽しんだ。
 昼一番には出社したものの、大仕事をひとつ昨日終わらせたばかりで、実のところ今日は取り立ててやることが無い。わずかに残っていた書類や帳簿の処理を終えたら、すっかり時間を持て余すことになってしまった。
「暇そうだな、黒桐」
 僕以上に暇そうにしていた橙子さんが言う。
「そうですね。僕の給料のためには忙しい方が良いですが、たまにはこれぐらいの休みも良いでしょう」
「ふん。しかし、何かそわそわしているな。気に懸かっていることでもあるのか」
 確かに、昨夜の桜の下に居た女の人のことを調べたいとは思っていた。そしてすぐに、橙子さんに訊いてみるのも良いかと気づいて、昨夜のことを説明した。
「桜の下の幽霊か。よく似合う話じゃないか、華やかなくせにいつも死の匂いのする花だからな、桜ってのは」
 どうせ暇つぶしのつもりだろうけど、橙子さんはまともに取り合ってくれた。でも、柳ならともかく、何故桜に幽霊が似合うのか。
「桜の樹の下には死体が埋まっているって言うだろう?」
「梶井基次郎でしたか。何も、どの桜の元にも埋まってるわけじゃないでしょう?」
「それはそうだがな」
 っと、煙草に火をつける。
「しかし、今の黒桐の言い方だと、そんなことも無くはないと思っているのか?」
「あ……いや、一本や二本、そんなことが日本全国にならあるかも知れませんが」
「それは少なく見積もりすぎだな。昔から、野辺に亡骸を葬って、墓標代わりに樹を植えると言うことは行われてきた。植える樹が桜だったことは多いし、実際、吉野のあたりにはそうやって出来た桜並木だってある。だから、あんなにも桜ってのは狂おしく妖しく咲くんだぞ?」
 話はいきなり物騒になった。一面の桜と、その根元にそれぞれ埋まった人骨。二度とまともに花見なんて出来なくなりそうな不気味なイメージ。
「それに、黒桐の言ってるのはあの古木だろう? 樹齢が百五十年にはなるという。染井吉野の寿命は普通なら精々五十年、これを間違いだとする説でも百年には遠く届かない。百五十年なんてのは立派な妖物だ、どんな曰くがあるか知れたもんじゃないぞ」
 式の目を疑っては居ないから、何か居たことは確かなんだと思う。それだけでもまたオカルト方面に関わってしまうのかと思っていたのに、橙子さんの話を聞いているとどんどんエスカレートしていく気分だ。
「それからだ、黒桐、知らないなんてお前らしくも無いが……あの桜の下では最近続けて二人も自殺している。何かおかしなことがあるのは確かだろうさ」
 自殺?
 ……そうか、白純先輩のことがあって、そのあと暫く入院していたから、その間に起こったのか。昨夜、幾らまだ三分咲きと言っても僕らの他に誰一人見かけなかったのは疑問だったのだけど、そういうわけだ。
「橙子さん。ここに居て仕事が無いんでしたら、ちょっと調べものがしたいんですけど、早退しちゃいけませんか」
 そう尋ねると、橙子さんは変な笑いを浮かべ、言った。
「構わんよ。ああ、ちょっと待て」
 机の引出しを引っ繰り返して何か探し始める。やがて、小さな紙片を僕の方に寄越した。
 古い名刺だった。造園業の樹守繁久って人のものらしい。
「お前の言ってる桜はその男の先祖が植えたものだそうだ。興味があったらそれも調べてみろ」
 また、橙子さんの謎の人脈を垣間見ることになるとは思わなかった。
「何故そんな人を……庭を造ったこともあるんですか」
「あるとも。まあ、私の庭には樹なんて無かったがね」
 きっとまた、常軌を逸した作品だったのだろう。
「それにしても、出来すぎた名前ですね、庭師の樹守さんだなんて」
「代々庭師の家系らしい、それに因んで姓を付けたんだろうな」

/4

「蒼崎橙子さんのお知り合いですか。ああ、あの桜の樹ですね、知っています」
 名刺を頼りに尋ねた庭師の樹守繁久は、酷く怯えたようすだった。
「はい。あの樹は繁久さんのご先祖さんが植えられたものだとか」
「そうです。あれは、私の曾々祖父さんの仕事だと聞いています。繁重郎というのですが、私の家系の中でも伝説の人でして、あの方を超える庭師は出ていないと」
「繁久さんは如何なのですか?」
「いえいえ、とんでもない。私など足元にも及びません」
「それで、あの樹の足元で最近二人も自殺者が出たらしいのですが」
「……そうらしいですね。聞いています。しかし、私にそんなことを訊かれましても……」
「はい、そのことは良いんです。ただ、あの樹に何か曰くは無いのでしょうか。百五十年も生きる樹は立派な妖物だと橙子さんは言うんですけど」
「橙子さんが?」
「はい。普通は染井吉野の寿命は五十年ほどなんでしょう?」
「いや、よくそんな風に言うんですが、それは少し短すぎます。まあ、それでも、確かに、百五十年は長いですが、だからこそ繁重郎は名人と呼ばれたわけでして、あの方でなければ」
「繁久さん、僕は詳しいことは知らないですが、樹の世話って、植えた後もずっと続くんでしょう? 植えてお仕舞いなんてことはなくて。だったら、ずっと樹守さんの家系で面倒を見てきたんじゃないんですか?」
「そ、そうなんですが……いや、実は、あの樹の世話ってしていないんですよ、うちでは」
「え、じゃあ、誰が?」
「……私が知る限り、誰も」
「それじゃ、何故あの樹は百五十年も? 百年持たせるのだって、相当な手間ひまをかけなきゃならないと聞いたんですが」
「ええ、その通りで、だからさっきも申し上げたように繁重郎は名人だと」
「そうですね、判りました。でも、何故世話をしていないのですか?」
「それは……私達も商売ですから。依頼の無い仕事をしていては、食べても行けませんし。それに……その、あの樹には言い伝えがあって」
「どんな?」
「いや、その、繁重郎のお妾さんがあの下で自殺したとかで、皆気味悪がって近付かなくて」
「お妾さんが樹の下で自殺?」
「はい。それに……昭和の初め頃にも、二人ほどあのあたりで手首を切って自殺された方がいらっしゃるらしくて」
「それは、確かに気持ち悪いですね」
「ええ、なので、誰も関わりたくないんです。その、黒桐さん、あまりこのことは他には」
「ああ、判ってます。それぐらいですか? あの樹の事は」
「はい、黒桐さん、できれば蒼崎さんに今度のことをお願いできないでしょうか」
「お願いって、なんのことでしょう」
「お願いしたいと伝えてくだされば判ると思います」
「……判りました。最後にもうひとつだけ訊きたいのですけど」
「なんでしょう?」
「桜の樹の下には死体が埋まっている、なんて言いますけど、どう思われます?」
「…………そ、そんなことは、ないと思うのですが」

/5

 夕方になってトウコのところを尋ねたら、幹也は居なくて、代わりにあいつの妹の鮮花が来ていた。こいつはトウコの弟子だから、来ていたっておかしくはない。ただ、実の兄である幹也に異性としての愛情を抱いているこの女は、私を酷く敵視しているんだ。
「残念ですね、式。幹也は居ません」
 私の顔を見るなり、幾分意地を張った調子で鮮花はそう言った。この様子だと、鮮花が来たときには幹也は既に居なかったんだろう。幹也が居なくて残念だってのは事実だが、私は昨日も会っていたのだし、別に今日も明日も会える。一々許可を得て寮を出て来なければならない鮮花の比べれば、今会えないことなど何てことはない。
 ……が、そんなことを言うのはやめておく。鮮花が私を嫌っているのは確かなのだが、私の方は別に嫌いだとは思っていないのだから。
 何か言葉は返そうと思って、あまり考えもなくこんなことを口にした。
「何でお前、平日のこんな時間に出て来れたんだ」
「春休みです。貴女と同じでしょう、そんなことも判らないんですか」
「ああ、そうだったな。うん、鮮花、丁度良いから頼みたいことがある」
「何故私が貴女の頼みなんか聞かなくちゃいけないんですか」
「いや、別にどうでも良いんだけどな。気が向くようだったら、このナイフを礼園の寮の食堂に返しといてくれ」
 正月にトウコの仕事で鮮花の高校に潜り込んだ時、貰って来たパン切りナイフだ。
「式、それは私が取り上げたのに、またちょっぱってたんですか!」
「いいや、鮮花にバレてるようじゃ駄目だと思ったから、あれ一回だけだ。二本取ってて、一本はあそこでお前に返したけどな」
「貴女、そんな――――」
 ヒステリーめいた声を上げかけたところを、トウコが割って入って止める。
「鮮花、それぐらいにしておけ。この式が一本返したぐらいで安心したのはお前だろう?」
「それは――――そうですけど」
「それに、電話があった、そろそろ黒桐も帰って来る。会える顔にしておけ。それと、お前に教えることがある」

/6

 会社に戻ったら、式の他に鮮花まで来ていた。
 樹守さんの願いを聞いて、大まかなことは電話で伝えたのだけど、もう一度橙子さんに話をした。橙子さんに言われて、式と鮮花も聞いていた。出来ることなら鮮花なんかと巻き込まずに橙子さん自身が動いて欲しかったのだが、そう言うつもりはないらしい。
「自殺したのは、西坂芳美さんと寺山京子さん。二人にはなんの関係も見出せませんでしたが、共通することはあります。二人とも、男女関係が自殺の原因と推測されているんですが」
「振られたショックで死んだって言うんですか」
 鮮花が批難する調子で言う。
「違うんだ。二人とも、むしろ恋人を振ったばかりだったらしい」
「何故それで自殺なんか――逆恨みで殺されたわけ?」
「普通にありえる話だけど、違うみたいなんだ。振られたって男性二人、それぞれの女性が死んだことをほんとに嘆き悲しんでた。演技だって言われたらそれまでだけどね」
「少なくとも、振った男に殺されたわけではなかろうな。自殺とも違うだろうが」
 ずっと黙って聴いていた橙子さんが初めて口を開く。
「いつぞやの空を飛ぶ女のことを思い出すといい。それにしても黒桐、報酬の話をしてこなかったのか、この間抜けが。給料から引いたらお前は即身仏になれるぞ」
 それは、困る。
「トウコ、何故幹也の給料から出す必要があるんだ」
「そうです、兄さんが余分な厄介ごとに首を突っ込むのは給料が支払われないからでしょう?」
 可愛らしい外見に似合わず揃って気性の激しい女二人の言葉については意に介さぬ風情。だけどそれとは別に、橙子さんは珍しく自分から折れた。
「まあ、今回は良い。黒桐の話の様子じゃ、樹守の方から貰うものは貰えそうだからな。むしろ、処分料を取って引き取ってやっても良いぐらいだ」
「それで、いつ行けば良いんですか、橙子師」
「問題が無いなら、今夜にでも行ってくれば良いさ。問題がありそうなのは鮮花ぐらいのものだ」
「どういう意味ですか!」
「さっき教えたことが出来るか、ってことだ。式はいつかみたいに目の役に過ぎないし、黒桐に至っては役割が無い。技術的要求があるのはお前だけって訳だな」
「なるほど、私でなければ問題は解決できないってことですね」
 鮮花が誇らしげに言う。怒らないかと心配していたら、何故か式は穏やかに笑って鮮花を見ていた。
「しかし、そんなに急ぐんですか」
 鮮花のプライドは今夜行くことを主張するだろうけど、失敗の可能性があるのでは意味が無い。何をさせるつもりなのかは僕には判らないけど、必要なら練習を積んでおいて欲しいのは確かだ。
「急いだ方が良いな。昼間に秋巳刑事に電話で聞いたんだが、実は今朝三人目が出るところだったらしい」
 三人目?
「自殺者がですか?」
「ああ。人が通りかかって未遂に終わったらしいがね」
 それを聴いて、結局その晩のうちに出かけることになった。

/7

 急いだ方が良いとか言ったくせに、トウコに夕食を作らされた。材料だけ用意してあるなんて、私が来なかったらどうするつもりだったのか判らないが、勝手な女だから呼び付ける気だったのかも知れない。
 断ってやっても良いようなものだが、引き受けることにした。
 鮮花が居るからだ。
 あいつの性格からして、私が幹也の前で料理をすると知ったら自分もすると主張するに決まっている。こう言ってはなんだが、和食なら鮮花に負けるわけもない。そして、どう見ても和食を作るのに適した素材が揃っていた。
 鮮花の方は猛烈に対抗意識を燃やしているのだが、私には特にそんな気はない。
「私もやらせて頂きます。良いですね、式?」
「良いよ。私の仕事半分肩代わりしてくれるってんなら、大歓迎だよ」
 私の返事は気に入らなかったらしくて、それぞれ全く別に一食作るべきだと主張したのだが、またトウコに止められていた。どうにも報われないやつだ。
 予想外に、手際こそ悪いながらも鮮花の料理の腕は悪くは無かった。だけど後から見ていて、思わず声を掛けてしまった。
「待て」
 びっくりした様子で動きを止める。
 凄い形相で私の方を睨んで、何ですか、と訊いてくる。
「それは後から入れた方が良い。火の通り具合がおかしくなる」
「……何故敵にアドバイスしたりするんですか。腹立つわね、余裕?」
「それを私も食べるんだ。美味い方が良いに決まってるだろ」
「貴女、他人の料理には文句は言わないんじゃありませんでしたっけ」
「言わないよ。現に文句なんて言ってないじゃないか。でも言わないにしたって美味いに越した事は無い」
 そこまで言うと、ようやく鮮花は私の助言に従った。相手にどんな感情を持っていようと、納得したら従いも協力も出来るって当りはこの子の美点だろう。
 頬が緩んでいるのを自覚して、鮮花に見つからないうちに引き締めた。
 まさか、こいつを義妹と呼んでいるところを想像したなんて、知られるわけにはいかないから。

 良い具合に時間が出来たから、思い出した用事を済ませることにする。
 私はトウコの元を訪れて、ナイフを差し出した。
「返す。初めにトウコから受け取ったやつだ」
「何のつもりだ?」
「別に……自分の武器ぐらい、自分で用意するべきだとは思っていた。それを果たしたから、もう必要ないってだけだ」
「ふん。要らないというなら、返してもらうさ」

 出来上がった食事は、幹也には大好評だったようだ。
「いや、鮮花もこんなに料理が美味くなってたなんてね。久しぶりに黒桐家の味を食べた気がする」
「そんな、大したことはないです」
 誉められて真っ赤になっていた。
 鮮花の使う出汁の取り方は見させてもらったから、今度は参考にするよ、幹也。

/8

 夕食の片づけを終えて、ようやく三人で出かけた。
 並んで歩く幹也と式は、そんなことには慣れた様子で、あまつさえ手まで繋ぎ掛けていた。わたしは急いで幹也の腕を取り、絡まる。
「鮮花?」
「夜道じゃ、まだまだ不安なんじゃありません? 目や、膝や」
「いや、もう大丈夫だと思うけど。うん、でもまあ、お願いできるかな」
 どうにか後の先を取って式の顔を見たら、何か表情を抑えている様子だった。以前と違ってそれなりに感情が出るようになっているのだけど、今のが何の表情だったのかは読み取れなかった。ただ、私にしてやられて口惜しいって顔じゃなかったのは判る。また余裕をかまされているみたいで腹が立つ。
 それでもまあ、幹也と腕を組んで歩くのはちょっと幸せだった。これが橙子師に与えられた仕事じゃなく、横に式も居ないならもっと幸せなのに。
「鮮花、そろそろ気を引き締めとけ。ぶら下がってないで、ちゃんと杖の役割を果たせ」
 言われて、しぶしぶ体を少し離す。
「見えるの?」
「見える。前と同じやつだ、二十歳かもう少し上ぐらいの訪問着を着た女だ」
 つくづく、霊視の出来ないのが悔やまれる。自分で見ることが出来れば、式なんて連れてこなくても済んだのだから。式は、目で捉えられるものなら凡そ何でも殺してしまえる物騒な女だ。その上で大概の見えない筈のものが見えているんだから、性質の悪いことこの上ないのだ。
 そんなことを思いながらも歩みは弛まず、目的の桜の古木のある寂れた空き地に到着した。
「鮮花、外で始めた方が良さそうだ」
 返事をして、橙子師に与えられた人型を二つ取り出す。身長三十センチほどの精巧な女性像だ。短く呪文を唱えて命を吹き込む。いや、わたしにそこまでの魔術が使えるはずも無く、実際にはスイッチを入れる作業に過ぎない。二体の人形はふわりと中に浮かび、自ら空き地の奥の桜を目指して飛行していく。
 と、樹のすぐ傍まで寄ったところで、二つの人形は相次いで地面に落ちた。遠い街灯の光だけでも、夥しい血が土を濡らしたのが見える。
「行こう」
 式が言う。
 一歩踏み入れた途端に、やっぱり目にこそ見えないながら、漂う異様な気配は感じられた。妖精のときと違って空気の温度にも変化が感じられないから、まったく捉えられない。だけど、
 ――――永遠に、咲き誇っていたくはない?
 聞こえるって経験もほとんど無かったのだが、それははっきり聞こえてしまった。
「思わないね、そんなこと。生きることに興味は湧いてきたけど、永遠だなんてのは御免だ」
 同じ問いかけを受けたのだろう、式があっさりと答えていた。
 ――――貴女は?
「要りません。わたしは何でも自分の力でやらないと気が済まないんです」
 それから、幹也が口を開けた。後で聞いた所によると、こんな誘いだったらしい。
 ――――貴方の両手の花に、いつまでも変わらず咲いていて欲しいとは思わない?
 幹也は、ゆっくり丁寧に答えていた。
「思わないよ。枯れない花なんで嘘だ。それに、やっと少し変わってくれたところなんだ。これからももっと変わって欲しいからね」
 三人の回答が終わったら、いきなり式が殺気立ったから、何事か起こり掛けているのを察知できた。
 左手を伸ばして、何か掴んだ感じ。幹也の前に立ちはだかっている。以外にも、まだ刃物を手にしていない。
「お通さんですか?」
 幹也がのんびりした口調で尋ねている。見えもしない相手に落ち着いたものだ。
 違う、と返事がある。
「なら、英美子さん?」
 返事は無い。
「随分、律儀なのですね、後継者を探すなんて。でも、勝手なことはしちゃ駄目です。桜の樹のために人身御供を捧げるなんて、今の時代にやって良い事じゃないんだ。繁重郎さんの頃には、あるいはあり得たのかも知れないけど」
 ――――私は、永遠に咲きたい。
「無理だ。お前も死を孕んでいる。でも、子孫は残せるだろう?」
 ――――永遠に咲きたいんです。
「植物なら、クローン体を残す事だって簡単よ」
「止めるんだ、勝手に次の生贄を探し回って引き寄せるなんてこと。貴女だって、好き好んで殺されたわけじゃないはず」
 ――――『私が』永遠に生きたいんです。
「無理だ。毎回、倍の生贄が必要になるんでしょう? それでさえ、次第に効きが悪くなって、頻繁に求める羽目になる。今でさえ、この桜は恐れられているじゃないですか。繁重郎さんの子孫にも」
 ――――ワタシハエイエンニサキホコッテイタインデス!
 さっきまでとは違う声で叫びが聞こえた途端、わたしに向かって何か突進してくるのが大気の温度の小さな差異として知覚できた。
 落ち着いて右手を出し、火弾を撃った。
「AzoLto――――!」
 あまり手応えは無かったけど、気配は霧散した。
「お前は、死ね」
 式が低く発した声が聞こえる。この女には、何に攻撃されたのか見えているのだろう。
 そしてようやく、幹也には攻防何れの手段も無いことを思い出したのだけど、その何れも、式が果たしてしまっていた。
 式がナイフを納めている。さっきまで張り詰めていた異常な気配も消え失せていた。
「今の、何だったの?」
「最近自殺した女のどちらかだ。私と鮮花に一人づつ向かったのかもしれないけど」
「でも、何故?」
 わたしの疑問には、幹也が答えてくれた。
「繁重郎って人、この樹を植えたとき、お通って人を殺して根元に埋めたんだと橙子さんは言ってたよね」
「はい。本人が魔術師だったのかどうかはともかく、それが樹守家の秘術だったと」
 橋を掛けるのに人を生き埋めにしたりする習慣があったように、桜の樹を立派に育てるためにそんなことをしたのだと言う。その術も、永遠に訊くわけではない。だけど、力を失う頃に、ここで命を絶ってしまった人が居た。それで、年を経るごとに血を吸えばずっと生きられると思ってしまった――桜の樹が、ってことだけど。
「私が初めに見たのは、英美子とか言う二代目の生贄だ。新しく二人を殺したのは良いけど、二人とも桜の樹になんて興味が無かったんだな。結果、人の生き血を吸えば若さを保てるとだけ信じて、私と鮮花を襲った。もう、死んでいるのにな」
「じゃあ、橙子師の人形は?」
「あれは、英美子が喰らって樹に与えた。この人食い桜、また五十年やそこらは生きるんだろうな」
 傍迷惑な。
「焼いてしまえ、そんな奴――」
 わたしは本気で構えたのだけど、幹也に止められた。
「やめるんだ、鮮花。桜が悪いわけじゃない、永遠には生きられないって納得させれば良いんだ」
「出来るんですか、そんなこと」
「出来るんじゃないかな。五十年もあれば」
 結局、わたしとしては納得はしなかったのだけど、幹也には逆らわず立ち去った。
 この人は、わたしが魔術を学んでいること自体を良く思っていない。それに、何であっても殺しを許す人じゃない。両方の点で一度に機嫌を損ねるような真似は、したくなかったのだ。

/9

 あれから暫くして、また幹也と夜に散歩に出かけた。
 鮮花は寮に帰ったから、邪魔は入らない。
 七分か八分といった咲き具合の桜の下で、私はこの前と同じように幹也に膝枕してる。
 幹也は無事な方の目で、夜桜を見上げている。実際には半分ぐらいの時間は私の顔ばかり見ているのに気付いたけど、知らん振りをしておく。
 表情に出てしまわないように笑いを抑えながら。
 満開に少し足りない桜は、それでも風に吹かれてひらひらと花びらを降らせている。人を殺して命を永らえる妖物でも、その美しさには変わりはなかった。
 いや、むしろ、並みの桜よりも遥かに綺麗で、だけど哀しかった。私だって、他の生き物を喰らって生きてる。被害にあったのが私と同じ人間だから、止めさせるべきだと私は思ったけど、桜にしてみれば人なんてまるで異種族なんだし。
 ――自分が、『同じ人間だから守る』なんて考えを持っていたことに気付いて、少し驚いた。
 幹也の頬を撫でていた手を、不意に掴まれる。
 その手が暖かくて。私は、今済ませようと思った。
「幹也?」
「ん、何?」
 私は上着のポケットから、ナイフを取り出す。幹也の人差し指ほどの柄に、ほんの数センチの刃が付いたきりの小さなナイフだ。
「これ、幹也に持っていて欲しい」
 幹也はとりあえず受け取って、ナイフだと知って怪訝な顔をしている。
「なんでまた、僕がこんなものを?」
「預けておきたいんだ。私はもうそのナイフしか持ち歩いていないんだ、最近。私には死の線が見えて何でも殺せるけど、だからって何でも殺して良いわけじゃない。幹也はずっとそんな風に言ってたじゃないか。まして、殺さなきゃならないわけも無い」
「うん」
「でも、やっぱり私はまだ普通の世界からはずれて居るから、殺さなきゃならない時はあるかもしれない。だから――幹也がそれを貸してくれたときだけ、やることにする」
「絶対に、貸さないかも知れないよ」
「良いよ。幹也のことを守れない結果になるかもしれないから、それは覚悟しておけ」
 そう言うと、どうしてか幹也は幸せそうに笑っていて、私もそんな顔をしてしまいそうだったから、上を向いた。
 長いこと見上げていて、ようやく幹也が言う。
「そろそろ、帰ろうか」
「うん」
 二人並んで、夜道を歩き始めた。
 どちらからとも無く、それほど必要でもないのに膝と目のことを言い訳にして、手を繋いだ。
 どういう訳か、いつ繋いでも幹也のては温かくて、融けそうになる。
 だいぶ離れたけど、桜の花びらがまだ、ひらひらと少しだけ舞い落ちてここまで届いている。
「幹也。せっかく私は完全だったのに、お前のせいですっかり変わってしまった」
 いきなりそんなことを言ったら、幹也は酷く戸惑っている。
 二度とあんなこと口にするもんかって思ったてたのに、もう一回だけ言っても言いと思ったんだ。
「だから、責任取れ」
 幹也みたいに、抱き締めて言うようなことは出来そうに無くて、むしろそっぽを向いて言う。
「幹也。お前を――――、一生――――」

/夢見草――式―― ・了

 


 

 第四回TYPE-MOONキャラクター人気投票空の境界 キャラ陣、中でも 式 の応援用に書き始めたのですが、結局なにやら妙なものに。
 式が変に鮮花に優しいですが、個人的にはそう言うイメージなのでした。

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